十月終わり / 2006年10月31日

えー!もう終わりなの!
という感じで十月が今日で終わりです。
十月のことを神無月と言いますが、正しくは旧暦の十月なので今年は十二月になるようです。
去年、十一月に出雲に行ったときはたまたま旧暦の十月にあたっていて、出雲は神在月になっていました。出雲大社では神在祭をやっていました。大国主系の国津神々が出雲に集まるために、出雲以外の土地は神無月、出雲は神在月になるわけです。国津神に属さない神様はその土地を離れませんし、国津神でも出雲に行かない神様もいますので大和政権の成立と関係があるんだろうなぁと漠然と思ったりしますが、そんなこと考えるのはつまらないのでやめます。
出雲にはあちこちの神様達が集まって、三日間相談をするのです。誰それは行いが悪いから罰をくだそうとか、誰それと誰それをくっつけようとか、そんなことを。編纂済み記録の十一月十四日に書いてありますので、詳しくはそちら。
十月も終わりだというのに、昼間の暖かさはちょっと困ります。夕方からは急に寒くなるので、これまた困ります。気候も落ち着いて欲しいところですが、今年もまともに紅葉する前に散って冬が来そうな予感です。
ていうか、冬来るのかな。
そんな気分。
シュルレアリズム / 2006年10月30日

シュルレアリズムという思想があります。きちんとした思想としてあって、シュルレアリズム宣言という本まであったようです。ところが、それが日本に入ってきたときに、シュールとナンセンスと混同され同義語的な意味合いで解釈されておかしくなっていったようです。この辺の外来語の扱いはそもそも感覚的なものなので、理解しようとするのは難しいようですがその言葉の示す考えをたどって行くとある程度はわかるかもしれません。
私の両親が美大出身なので、シュルレアリズムについて聞いてみたのですが、その辺の流れをきちんと理解していたみたいでちゃんと教えてくれました。合わせていろいろ調べてみました。
シュルレアリズムはフランス語で、意味としては「過剰なまでに現実感のある現実」と訳されるそうです。非現実ではなく超現実、ということです。それでまぁそういう考え方に触発され、マグリットやキリコ、ダリといった画家達がそういう方向の作品を作っていったようです。
1920年代にこの考え方が生まれ、広まっていき、アメリカでポップアートと合わさってイラストレーションになっていって、という流れのようですが、思想的なものなのではっきりしたことはわかりませんし、日本にでは文化的な違いもありますし伝播ルートもアメリカ経由とイギリス経由で大きくその内容を変えていたようで、結局じゃぁ具体的にはなに?ということがはっきり示されることもなく、両親曰く「ゴミの山を作った」ということのようです。
結局のところ「難解でアーティスティック」な雰囲気のものを「シュール」と評することで理解したつもりになった人が多く、実際はそれらはただのゴミの山でしかなかった、ということだと思います。それは現在も同様で、よくわからないから「シュール」という言葉を使う人は多くあります。本来であれば、寂寥感や静謐感や不安感など、独特の感情を気持ちの中に起こさせるものや言葉などに用いる表現だと考えています。一番近い日本語は、形而上ではないかなと感じます。普段使わない言葉なので、感覚的に難しいですが。
そして海外から見た場合も、日本のシュルレアリズムは思想的に極めて脆弱である、という見方が一般的なようです。どこで一般的なのかはよくわかりませんが笑
そこでダダイスムなどという考え方もあるのですが、こちらは攻撃的な思想なので、触れません。
好みではありませんので。
さてそれで私の好みを見ていると、そういったシュルレアリズムを基盤に作った作品が極めて好きです。見て面白い読んで面白い、という具合なので、傾倒しているのでしょう。ただ、この思想が出てきたのが80年ほど前で、その当時と今とでは世界がまるで違います。当時からみたら、今の世の中の方が、まさしくシュルレアリズムそのものの世界でしょう。
そして、誰でも毎日眠ったら夢を見ています。
これこそシュルレアリズムだと思います。
夢の中で「これは夢だ」と気付くことを「明晰夢」というのですが、最近そういう夢を見るようになりました。夢の中で「あ、これ夢だ」と気付いて天井を歩いたり空を飛んだり、自分を力一杯つねってみたりするのです。とても楽しいですし、そのとき夢だと分かっていながらも現実感は異常にあるのです。でも、夢だから殺してもいいし夢だから盗んでも良いはずなのですがそういうことをしてはいけない、という気持ちがあります。夢の中の理性ならば「夢だから何をしてもいい」ということになるはずなのですが、きっと異常に強い強烈な現実感が私にそれをさせまいとしているのだと思います。
シュルレアリズムというのは、そういう感覚なのかなとなんとなく理解できたような気持ちになります。
ちなみに、シュルレアリズム系の人が本当に精神異常を来した場合はナンセンスです。
奈良正倉院展 / 2006年10月29日

実家から両親が奈良まで観光に来たので、一緒に行ってきました。
奈良は良く行くのですが、奈良は奈良でも橿原の方なので、いわゆる「奈良」らしい東大寺とか正倉院とか興福寺や春日大社などはまったく行ったことがありませんでした。そういうわけで、奈良に行くのは中学の修学旅行以来なわけです。
この界隈は奈良でも観光客が集まる場所で常に人が多いのであまり行かないようにしていたのです。
さて、そんな奈良に行って来たのですが鹿いました。橿原の方では見ないので、おー奈良だ奈良と少し思いました。
正倉院展は絶対嘘だ!と思うほどに人が並んでいて、行列の末尾まで行っては見たものの時間の無駄という結論になり東大寺に向かいました。奈良の大仏です。大きさと迫力は鎌倉の大仏の比ではありませんでした。なにもかもがでっかい。日本でこのスケール感ってすごいとただただ圧倒され、観光客の多さに圧倒され、奈良の奈良っぷりに圧倒された一日でした。五重塔の大きさも、間違いじゃないか?という大きさです。四天王寺にも五重塔がありますが、比べものにならない大きさです。
改めてまた来ようと思いました。
春日大社も行きたいところですし、国宝館も行きたいです。仏教よりもそれが育んだ芸術に興味が向いています。
そう思って興福寺のホームページを見てみたら、国宝館拝観優待券というのがありました。印刷して持って行ったら、入館料が安くなるみたいです。
http://www.kohfukuji.com/
デ・キリコの画集 / 2006年10月28日

昨日散々探して無かったのがなんとなく悔しくて、今日も古本市場へ行ってみました。昨日よりも落ち着いていて、端から丹念に順番に探して探して行って、やっぱないなーと諦めつつ他の本を物色してたら、ありました。画集。ぽこんと一冊だけ飛び出して、変なところにありました。探すとないものなんですねなどと思いながら購入。
他に、三島由紀夫全集の中に春の雪を見つけたのでこれも購入。春の雪は映画を先日みたのですが、いまいち過ぎたので原作を読みたくて古本で探していたのでちょうど良かったです。吉村英治の親鸞も探したのですが、こちらはなかったのでまたいずれ。他には夢野久作のドグラ・マグラ。マニアックです。信州の伝説。民俗学です。画集以外は300円とか100円なので、お買い得感満点です。そして普通に本屋で見ても絶対に買わない本です。古本ならではです。
会計をしようと思ってレジに並んだら、目の端に黄色い本が写りましたので見に行ったらなんとエッシャーの画集。それも原語。エッシャー好きの人が居るので、電話して聞いてみたら買っておいてということで、こちらも購入。
買って帰ったはいいけど、重すぎて腕がしびれました。
掛け軸ですごい素敵なのがあって、うわーこれいいなー欲しいなー誰のかわからんけどいいなーいいなーと眺めていたのですが、拾二万円也と墨字で書いてありました。金額よりも、書体の迫力に負けて目をそらしました。
日本画の画集で円山応挙や雪舟など有名どころも500円とか1000円でどかどかと売られていたのでううんと悩まされました。今はやりの伊藤若冲はさすがに売れるのでしょう。まったくどこにも一冊もありませんでした。
キリコの画集はキリコ展の時の画集なのでキリコの作品を網羅しているものではありませんので、これからもまだしばらく探すことにはなりそうですが、マグリットとキリコと続けて見つけられたことに行った価値はありましたし、それ以外にも目にとまった本や様々な時代の装丁や書体、レイアウトを見る良い機会にもなりました。戦前の函入り本の装丁の実物を見る機会なんてなかなかありませんし、江戸の書や編纂録なども大量にあって価値ある人には価値があるんだろうなという値段になっていました。日本語の本のレイアウトは戦前と戦後で大きく変わっていますので極端に違いがあり、それが凄く新鮮に見えるのです。
とても楽しませてもらいました。
古本市場 / 2006年10月27日

近所の古書会館というところで、古本市場を今日から三日間やるという情報をたまたま知って、喜び勇んで行ってきました。朝10時からだったのですが、どうせ閑散としていることだろうと昼前に行ったのですが、大盛況でびっくりです。おじいさんばっかりなので、うげげと思いましたが、仕方ありません。おじいさんが嫌いなのではなく、本に夢中になるあまり無神経になるおじいさんが多いのが嫌なのです。
ずいぶん盛況ですねーという会話が後ろから聞こえて来たのですが、係員の話では朝から80人くらい並んでいたそうで、大したものです。
この市は、市内の古本屋が在庫を持ち寄って売り出すバザーみたいなもののようです。大阪の場合、東京の神保町のように町全体が古本屋というようなところはなく、せいぜいが梅田のカッパ横町に少しだけ集まってるという程度です。ブックオフなどもありますが、在庫は回転がいいものが優先的に置かれるのが通常のお店の常ですので、探している本などはなかなか見つかりません。
そういう本を探しにやってきたようなものです。
結果、見事みつかりました。
カビくさく埃くさい古本の良い香りに包まれながら、一つ一つ丁寧に棚を見ていくときの至福の時といったらありません。マニアックですが。
マグリットの画集が千円。筒井康隆全集が1冊300円だったので、読みたかった短編と長編が入ってるものを選んで3冊、さらにダンテの神曲やらアンデルセンの童話何冊かを購入しても3千円でおつりが来ました。他にも欲しい画集やらデザイン書、柳田國夫全集などもあって名残惜しかったのですが、買って帰ったら置き場所に困ります。でもどれも読みたい!でも場所が!という葛藤をしばらく繰り返していましたが、2時間(長!)ほどで帰路に着きました。
名残惜しくて、午後6時閉館前にまたわざわざ行ってしまったほどです。画集やデザイン書などは新品で買うと凄い値段がしますが、古本になると急に千円とか500円とかになるのです。買わないと損です。柳田國夫の全集なんて資料書でもありますので、そんなに古本屋に出ませんし、出たとしても図書館に寄贈されてしまったりします。しかし全集や画集は置き場所に本当に困りますので、断腸の思いで帰ってきた次第です。
古本市と言ってはいますが、漫画や映画のポスター、雑誌類、古文書、古写真といった興味深いものも多数あって時間がいくらあっても足りません。明日もまた行ってみようと思っているくらいなのですが、きっと激しく混んでいることでしょう。
デ・キリコの画集も探しているのですが、こちらはありませんでした。どうもデ・キリコはマニアックなようです。アマゾンで探しても在庫切れですし、流通量は少ないのでしょう。残念なことです。
しかし、読む本が大量に手元にありますのでそれだけで気分は少しホクホクです。見る映画も一杯ありますし、楽しみです。
そういえば、大阪では11月3日から大阪ヨーロッパ映画祭というのをやるらしくチェコやオランダの映画をいろんな場所で上映するようなので、折りを見てこれも行ってみようかなと思っています。
都会だとこういう機会が多くあるのが嬉しい限りです。
これからの季節 / 2006年10月26日

涼しくなってきてだんだん寒くなってきますが、これからの季節は外に出るのが大好きな季節です。秋や冬の空気の香りが大好きです。
そんなわけで、昨夜は夜中だというのにウロウロと歩いていました。
夜の街は昼とは全然違う顔をしていますので、とても興味深いものです。11時を回ると、お店なども店じまいのため看板の電気も消えてゴソゴソと片付けをしていたり、シェフが外でタバコを吸ったりしている姿がありますし、酔っぱらって群れてるムレリーマンもチラホラと見みることができます。ちょっと暗い小道に入ると、ワケありな男女がいたりと、様々です。
夜の公園なども独特の雰囲気があります。
あまり大きな公園ですと屋外生活の人たちが居ますので、立ち入るのは悪いですが、普通の町中の公園はひっそりとして静かです。街灯に照らされる遊具は幽玄な雰囲気すら醸し出しています。
そんなこんなを見ながらぶらぶらしつつ、近所のセブンイレブンに入ったら、見覚えのあるバイト君が居ました。
「あれ?前のコンビニ辞めたの?」
と聞いたら
「両方入ってます」
とのこと。この人、凄いコンビニストです。凄いアルバイターです。このセブンイレブンにはタバコは置いていないのですが、もう一つの方ではタバコを売っていて、私が店に入るとタバコを先に用意してくれるという心遣いです。
やっぱり外に出るといろいろあるわけです。
そういえば「編纂済記録」で行ってる日を見ても、夏場はありません。夏で好きなのは、入道雲と夕立と青空のコントラストなのかもしれないなと思いました。
シナリオ通り / 2006年10月25日

用事があって近所を歩いていました。
夕方なので子ども連れが多いなぁクルマの数も多いなぁと思いながら歩いていたら、車道で自転車に乗った子どもが転びました。
後ろからクルマも来てるので、危ない危ないと言って子どもを抱き起こし、自転車を脇に寄せました。
子どもに大丈夫?と聞いてみると泣いているにもかかわらずしっかりした声で大丈夫ですと返事をし、近くに居たらしい母親も慌てた様子で駆け寄って来てすみませんありがとうございましたとお礼を言われました。
場所は大通りから大通りへ抜けることができる一方通行の道なので、交通量は多くそりゃ危ないわなというところです。
その場を離れてさらに歩くと、今度は二人の子どもが車道を挟んで遊んでます。もうあとは想像通り、漫画のようにクルマが来たところへ飛び出そうとしました。なのでここはシナリオ通りに後ろから抱き留めて危ない危ない気をつけてと言い聞かせました。
このとき、一番びっくりしたのはクルマの運転手さんだったことでしょう。
母親はどこだと探すと、車線を挟んだ反対側で固まってました。無理もありません。固まった母親から固まった礼を言われ帰りましたが、シナリオ通りに動いたなという気がしてなりません。何もかもがです。ジムキャリーのトゥルーマンショーを思い出します。
何にしても外に出るといろいろあって面白いもんですね。
クロスプロセス / 2006年10月24日

現像方法です。通常、割高だったり日数がかかったりするものなのですが、近所のラボでは納期一日で1本450円と激安です。現像だけでも今まで使っていたところよりずいぶん安いので、今後はこちらを使うことになりそうです。町の写真屋さんじゃなくてちゃんとした現像所ですのでフィルムの扱いも丁寧です。
クロスプロセス現像というのは、リバーサルフィルムで撮影したフィルムをネガ現像するもので、その結果はビビッドな発色になったり思いも寄らない色かぶりを起こしたりと偶発的な要素が多く入ってきます。その上、フィルムのメーカーによって結果が変わってきますので、カメラとフィルムの相性を考えながらクロスプロセス現像をするのが面白そうです。LOMOで撮影した場合は相性がいいのがよく知られていますが、NIKONでやったらどうなるのか楽しみです。HOLGAでも試しているのでこちらも期待しています。
ただ、リバーサルフィルムは高い。
一般的にリバーサルはプロユースのフィルムだから、一般向けのネガフィルムとは出ている数が圧倒的に違います。値段が高いのは仕方ない。なので、たまに使う程度で普段はネガを使います。
一番よく使っているのはコダックのISO400です。KODAKのポートラ400の方が発色が好きなのですが、こちらも高い。
フィルムカメラはどんどん減っていて、レンズなどの中古品が安く入手しやすくなっているのは喜ばしいのですが、フィルムの生産数は減っていっているので価格が上がっていくのはきついです。でも、これからデジタルの画質に目が慣れた世代がどんどん増えていくことを考えると、デジタルとは違ったフィルムの質感に魅力を感じる人は増えることも考えられるので、撤退をしてしまったコニカミノルタやアグファは決断が時期尚早と言えるかもしれません。
最近は映画でもCCDとフィルムの違いが観て分かるようになりました。私の目はすっかりデジタル慣れしていたので、フィルム独特の雰囲気がとてもとても気持ちいいのです。
覚えていなかった / 2006年10月23日

先日、片付けをしていたら1991年から飛び飛びで書いていた日記帳が出てきました。
ありゃ!こんなところにあったのかYO!というところから出てきたのですが、91年から93年まではノートに書いていて93年後半から95年頭まではパソコンにファイルで残っていました。それから少し飛んで98年から01年頭まではシステム手帳に書いていて、01年頭の続きから05年の7月まではネット上にパスワード付きホームページとして書いていました。読み返すには結構な量ですが、91年から93年の頃の日記は他人の日記として読まないと恥ずかしいものですが、そうして読むと今度は人の日記を盗み見ている罪悪感が生まれます。
05年7月以降は、普通のブログで書いているのでこれは日記とは呼べません。日記のようなものではありますが、公開してますので違います。
日記を書くようになったのは、確か父親から勧められたからだったと記憶しています。二人とも日記をつけていて、手帖になにやら書き付けている姿を見ていましたので、学生の頃にもらったノートに書くようになったのです。合わせて夢日記も書いていて、こんな夢を見ていたのかというのも出てきて面白いものでした。
91年頃の日記を読み、そのころの自分と今の自分とを考えてみるとおおむね変わっていないことに気付きました。スキルや知識とかそういう次元では成長してましたが、人間そのものは変わっていません。
生活スタイルなどもほとんど変わっていません。98年以降は、スケジュールも一緒に出てきたのですが、真っ黒でした。細かく時間やら締め切りやら書き込んであって、頑張ってるなぁというより、大丈夫かこいつという印象を受けました。98年までのスケジュールがなぜ無いのかはよく覚えています。スケジュールを入れていたカバンを、秋葉原からの帰りに京浜東北線の中に忘れてきたのです。急いでJRに連絡いれて京浜東北線の各駅で確認してもらって、自分は東京駅にある忘れ物置き場に行ったのですが、結局見つかりませんでした。それで抜け落ちているわけです。
しかし、真っ黒なスケジュールの時期の日記を読んでみると最初は張り切って頑張っているものの、ずっと違和感を持っているようでした。のべつ仕事と睡眠と食事で、それ以外のことをしていません。99年からはガラッと変わっているのですが、最終的に行き着いている結論はやはり同様のようで、基本的にお金を稼ぐために仕事をして仕事によって社会に居場所を作り周りから必要とされることにバカバカしさを持っているようです。
今となっては、そういう考えを持つ前に、社会に対して誠実になるべきではないかと思うわけです。
葉巻 / 2006年10月20日

1年くらい前から葉巻が好きで、たまの贅沢でプレミアムシガーを吸ったりしてます。葉巻は、時間を吸うとも言われているらしいのですが、嗜好品ですからお酒などと変わらず、値段はびっくりするほどです。それで買う機会もなく、遠ざかっていたのですが、今年の誕生日プレゼントで、シガーカッターをいただきました。それもヴィトンの。ヴィトンがそんなの出してるの!?と思いながらありがたくいただいた訳ですが、それを使う機会すらなかったわけです。
要するに「時間を吸う」なんていう余裕が無いわけです。
そんなことに気づきつつ、昨日用事があっていった場所の1階にシガークラブがあることを思い出し、行ってきました。プレミアムシガーという葉巻は管理がワイン並みに面倒なので、設備が必要だったりして普通のたばこ屋さんでは扱っていません。ですのでこういう専門店があるわけで、特に場所柄的にヴィトンやらシャネルやらブルガリやらといったブランド店がひしめいているわけで、それに倣って葉巻屋さんもブランド然としているわけです。
店員はスーツです。
4坪ほどのお店で、半分がヒュミドールという管理室です。やたらいい香りです。これ、たまりません。ただ、この雰囲気もたまりません。
このお店は大阪の梅田にあるのですが、ここ以外にも葉巻を扱ってるところが、大阪の京橋にあります。こちらは普通の大阪のおばちゃんが対応してくれる町のたばこ屋さんです。たばこ専門店。葉巻はもちろんパイプや水たばこまでオールマイティです。
値段はどちらも同じなのですが、雰囲気一つで変わるものです。
いずれもぷかぷか煙を出すのは同じなので、私は日々煙突として頑張っているわけですが。昨今の嫌煙ブームには理解していますが、「排気ガス」および「酔っぱらい」については棚上げのままなのかなというのが正直な気分です。
お酒もいいですが、嗜好品です。
他人に嫌悪される飲み方は、副流煙よりたちが悪いです。
さらに悪いクルマとアスファルトも、そこに大きな大きな利権がありますのでもうこれはどうしようもありません。
とはいえ、喫煙が一番直接的に身体に百害あって一理もないんですけどね、実際。
嗜好品ですから。
ピアスの穴 / 2006年10月19日

幾つかあいているのですが、最近触ったときに少し痛いなーと思ってました。ちょっと痛いだけでそのうち忘れていたのですが、本日をもちまして流血となりました。乾燥しているからかな(関係ない
たぶん化膿してきてるんだと思うので、消毒して様子をみて駄目そうならたまに世話になる皮膚科に行くことになります。行ってしまったらまた一個あけたくなるかもしれないので、そこは抑えて抑えて。
付けたいピアスが増えたので、穴が足りないと思っていたところにこの怪我なのでタイミング的にちょっとまずいなー。
ソニー製リチウムイオンバッテリ / 2006年10月17日

このところ騒がれていますが、私が使っているVAIOのバッテリも「お客様の不安を払拭するため」に交換ということになりました。11月7日から順次受け付け開始だとか。
聞くところによると、過重電が原因になっているケースが多く、作業中にいきなり発火したり、電源を落とした状態で充電だけしていたら勝手に発火していたなどということです。そういう話を聞いたら怖くなりましたので、電池を抜いてACだけでパソコンを使っています。
リチウムイオンのバッテリはそもそも衝撃を与えたら爆発する代物だったのですが、それを安全なものにして実用化させたのは日本の研究者だったそうです。その人が言うには、そんなに危険なものではないが、純正品を使わないと危ないそうです。ところがその純正品が爆発したり発火したりというわけなので、バッテリそのものの設計に問題があったのではないかと考えられているわけです。
かくしてソニー製バッテリは回収されました。
もう一つ、バッテリといえば、サンヨーなのですがこちらはおかげで生産が追いつかない状態になっているということです。サンヨーは最近、これといった製品もなくneloopという乾電池でなんとか盛り返そうかというところだったので、これは恵みになっているようです。
大きなカンファレンスや大学などでソニー製バッテリを搭載したノートが火を噴いたり爆発しているところを映像で見ているので、なんだか人ごとではありません。これからどんどん大容量化かつ小型化が進んでいく分野でもあります。容量が大きくなるということは、それだけエネルギーを蓄えておけるということです。エネルギーというのは少しずつ小出しにして、使うものです。それが一度に放出されたら、それは爆弾と同じです。
おおこわ。
おこわは好きです。
風邪がうつる件について / 2006年10月16日

近くに一人風邪ひきさんが生まれました。
ずいぶんきつかったらしく、久しぶりにうなされたとか言ってましたが今は治っています。
治ったなーと思ったら、別の人が風邪っぽいと言い出しました。今度は二人です。この二人には接点はありませんが、最初に風邪をひいた人は二人とも接点がありますので、誰の風邪か言うまでもありません。
他の人にもうつるのだろうなと思っていますが、私はこのところ風邪さんとはご無沙汰です。ありがたいことですが、こう長いことご無沙汰だと、敬遠されているような気もします。それはそれでいいんですけどね、なんかね。
馬鹿は風邪をひかないといいますが、実はこれには微妙なニュアンスが含まれています。
本当に風邪をひかないのではなく、風邪をひいても気づかないのです。ここのところ、注意深く理解してくださいね。
同級生 / 2006年10月13日

同級生と縁はなく、小中高と同級生だった人たちがどうなったのかはまったく知りません。考えてみれば同級生って学友だっただけでこれといって何かあるようなわけでもなく、とりわけ仲がよかったりしても中学から高校に上がったのをきっかけに連絡を取らなくなったり、そういう程度だった気がします。そして地元を離れてしまえば、繋いでいるものなどほとんど無いに等しいわけですが、そんな中でたまに聞こえてくる名前や、ふとどうしているんだろうかと思い出す顔というのが二つ三つあったりはしますが、その程度の話です。
そういう同級生たちの消息を、どういうわけか弟から聞いたりすると最初は「へぇそうなんだ」と思ったものの、しばらく後から妙な違和感を覚えたりします。社会に出てしまえば学校での学年差というのはまったく関係なくなりますので、感慨深く感じたりしつつ、それが大学の上下関係だと社会に出てからも「大学の先輩で頭があがらない」という話を聞いて鬱陶しい気分になったりします。
物事は経験が大切です。
富士山は高いということは誰でも知っていますが、実際に登って高いと言うのと、標高を頭で知ってて高いなというのでは雲泥の差があります。宇宙は広いということは誰でも知っていますが、誰も広さを見た人は居ません。
失敗して恥をかいたり、人を傷つけたり、惨めな思いをしたりするのが嫌でただただ無為に時間が流れていく人もいることでしょう。ちまちま細かいことを考えて動けなくなるのならば、頭を馬鹿にして失敗しまくるほうが成長します。そして後で周りに感謝したらいいのです。細かく考えるより大きく考える方が、動きやすくなります。100年後に、今周りに居る人たちは全員死んでいるわけです。いっぱい恥をかいて、いっぱい人を傷つけて同じだけ傷つけられて惨めな思いをして、生きている方が美しくて潔く見えます。
と、自分に言い聞かせておきます。
最近、思考がちまちましてきていけません。いけません。
視野も思考も行動も大局的にいきたいです。同級生からみたら、そのときの私と今の私との違いを客観的に教えてもらえそうなので、楽しみです。いつかご縁があれば伺ってみたいものです。
本を読みたい映画を見たい漫画を読みたい / 2006年10月12日

と思っていても、このところ連日のように楽器を触っているのでそんな時間はありません。
今、神戸の市立博物館にオルセー美術館展が来ています。これは行かねば!ということで日曜日にでも神戸まで足を伸ばす予定です。上野の森美術館のダリも行きたいのですが、それはちょっと。ずいぶん前に天野喜孝展がやってたときは行ってきましたが。
オルセー美術館展では、モネやドガやゴッホの原画が見れます。リトグラフや写真では見たことあるとは思いますが、原画はびっくりするほど違いますので、是非にもこの機会に行っておきたいところです。
そういえば京都にはルーブル展が来てます。こちらは彫刻や陶器、宝飾品が展示されているそうですが、内容的に史上初世界初の大企画と宣伝されていました。神戸行ったあと余裕があったら京都まで行こうかなと思ってます。
昔は目に付いた博物館や科学館、史跡館資料館と片っ端から入ったりしたもので、目黒の寄生虫博物館も行ってます。大森貝塚史跡館とかいうようなとこもいきました。最近は、そんなこともなくなってしまってそういうことに気づいてちょっとショックでした。そんなに遠くないところに歴史博物館があったはずなので、行きたいと思います。
自分は美術品とか史跡とかそういうもの見てもわからない、という人が結構いますが、そんなもの最初からわかる人など居るとは思えません。写真やテレビなどで見て知識としては知っているから「こんなもんか」と思って「自分にはわからん」と思いこんでるだけなような気もします。
写真とかテレビでみるのと、現物はまるで違いますので観に行くことをおすすめします。
くだらないテレビは叩き壊して、感覚を磨いてください。
午前二時半就寝 / 2006年10月12日

午前四時半起床。
ていうか変な夢で起こされました。起きてから、自分が今どこにいるのか把握するのにかなり長い時間かかりました。それから「あ、夢みてたんだ」と認識するのにまた少し時間を要しました。
変な感じ。
夢なら忘れないうちにとメモメモ。
しかし、なんと中途半端な時間に起こされてしまったもので、これから寝たら寝坊必死です。
というわけで、確信犯的に寝ます。
これでも二度寝って言うんかな。
悪夢じゃなかったし、夢の尻尾を捕まえにいってきます。
かくかくしかじか / 2006年10月11日

北朝鮮が核実験をしたようですが、ほんとうに核実験なのか、それとも実験用の坑道を掘っていたら落盤したのかまだよくわかりません。
仮に北朝鮮が核武装をしたとして、中国にはすでに核はあります。韓国にはありません。日本はもちろんありません。BBCやCNNなどによると、北朝鮮が核武装したことを口実に日本も核武装をするのではないかという懸念があるそうです。
ばからしい。
と思っていたのですが世間はそうでもないようで、本当に本当に恐ろしい世の中になってきているのだと感じました。
日本の技術力で核武装をすると、半年で弾道ミサイルまで配備できるとまで言われているので、欧米の立場としての懸念でそういう論調が出るのは理解できますが、日本人として北朝鮮の脅威への抑止力として核実装という考えがあるということに信じられませんでした。
「抑止力」という言い方をしていますが、要するに懐にいつも銃を入れていたアメリカ開拓時代の文化なような気がします。「いつでもあなたを殺せますよ」という暗黙の了解の元でだからこそ目があったときに「わたしあなたに敵意はありませんよ」という意味で頬笑む習慣が文化として根付いているのです。拳銃が抑止力になり、有効な関係を築きましょう、です。
拳銃が核兵器になっただけです。
とっても残念ですが、この考え方はまったく理解できません。とはいえ、政府と国民はまったく別ものです。政府が馬鹿だから国民も馬鹿ということなら、日本も同レベルです。こういうことが起こると、チョゴリをきた学生たちに嫌がらせをするとんでもない連中がでてきますが、それこそ政府と同レベルです。
昔あった心理実験ではありませんが政府や国家という枠組みで役割を持ちその立場で動く人間の行動は、個人の責任においての行動ではなく、政府の責任あるいは立場の責任になるので想像力が働かなくなるのかもしれません。どんな立場の人間でも、きっと娘や息子はかわいいでしょうし家に帰れば父や祖父や母や祖母の立場になり孫や子供を可愛がって世話しているのですし、今夜の夕食のことを考えたり何時に寝ようか計算したりしているわけです。
願わくば核武装という論調にならないことを祈るばかりです。
一番恐ろしいのは集団心理です。右向け右の国民は60年前に反省をしたはずです。
今からそれが生かされるべきです。
インストルメンタルは苦手 / 2006年10月10日

苦手なんです。飽きるから。
ドラムとベースとギターととかっていう普通の構成のインスルは、5分聴けません。演奏してるなら楽しいんですけど、聴くのは結構きついのです。クラシックは音色が多いのと変化が強いのとでなのか、結構聴けます。聴けますが、やっぱり続けて聴いていると飽きます。
私の作ってる曲も全部インスルです。でも自分で聴いて飽きないように飽きないように作ってます。飽きたら作らなくなっちゃいますから、そういう意味での予防処置でもあります。
それで、作った曲を7曲ほど続けて聴いているのですがまだ飽きていません。アホみたいに変化に富んでいるからなのか、それとも自分で演奏しているから「あ、(リズムまたはピッチが)ずれてる」などと気にするからなのかは自分ではわかりません。。
Macで作っているのですが、チェロとギターはライン入力、マンドリンは普通のマイクで生音を拾ってます。一緒にノイズも拾ってますが、それは変化の一環です(強引)。レベルが上がりすぎてクリップしていたりもしますが、それも変化の一環です。ギター、チェロ、マンドリンの弦楽器以外の音は、ループ素材です。リズム系やSE系は全てそれで構成されています。
是非聴いてください。
そして、なにかイメージが浮かんだなどという素敵な感想をもらえるのが一番嬉しいですが、飽きるまでどのくらいの時間を要したのかも教えてもらえれば、それはそれで興味深いところです。
現在、3曲アップしてあります。
恵みと災害 / 2006年10月9日

台風16号の勢力がそのまま秋雨前線にあった低気圧に移動して、低気圧なのに台風並みになり、16号は熱帯低気圧になって消滅しました。
それが先週末の天気予報で言ってたこと。そんなことは滅多にないそうなのですが、滅多にないことが起こったおかげで、この連休はプロでも見誤る天気になった模様であちこちで不幸にあってしまった方がたくさんいました。
そうして強い風で上空の雲を持って行ってくれましたので、体育の日に快晴。
雨がないと実りが無くなるから祈り、かといって雨が多すぎると山や川が暴れるから祈り、それは今も変わってません。恵みと祟りは一体です。
いずれも生と死や光と影と同様です。あるものだからそこにあるだけのことで、そこに理由などなくそれを求めるのは人間くらいものでしょう。だからこそ「人智を越えた」存在というものを用意し、説明の根拠にしたのです。
全ては塵から始まり塵に還るのです。
人間が神と呼ぶ神は、人間が作り出した神です。でも、神々としてお奉りしてきた神様たちは、山であり磐であり空であり大地でありそのものだったのです。恵みをくださったことに感謝するのが祈りであり、願いをするのは祈りではありません。だから感謝が足りないから祟りがあるという発想があったのです。
日本って、広いし深いし面白い国です。
風と雲と大気の層 / 2006年10月6日

写真ではわからなくなってしまいましたが、今日の空は凄いです。
見事な色の青空に、雲が凄い勢いで南に向かっていくさまは、何か大きな生き物がこぞって行進しているかのようでした。
秋雨前線 / 2006年10月5日

シベリア寒気団から吹いてくる乾燥した冷たい風と、太平洋高気圧の暖かく湿った空気がぶつかって、秋雨前線くんが生まれました。
南からは台風も近づいてきて、秋雨前線くんは勢いを増してこの雨です。よく降ること降ること。
外気温21℃だというのに、じっとりと汗ばんでいます。
台風が通り過ぎたら、秋晴れの空を見られるかな。
ガイア理論 / 2006年10月4日

理論というお話としてガイア理論は1960年代からあるそうですが、こちらは理論が緊密化して現在では生態学に継承されて地球生理学として成り立ち、一つの学問にまで発展したそうです。
もうひとつ、ガイアというと「生きとし生ける地球」という考え方が90年代頭頃からサブカルチャー的な雰囲気を帯びて広まっていました。そもそもの発端は、ガイア理論の初期の仮説に基づいて誰だかが言い出したものが広がったもののようですが、それがわかりやすかったためか想像力を刺激したためか、書籍や映画、テレビ番組と様々な分野で使われる言葉となりました。
地球を一つの巨大な生命体と見なすものなのですが、いわゆる最初の理論としてのお話ではとても面白いのですが、その言葉だけが一人歩きして利用されていき、まったく根本的に間違った方向に向かっていきました。
「地球も生きているのだから、その地球を大切にしましょう」
昨今のエコブームも同様の考え方が根本にあります。もちろん地球は生きていますが、人間ごときがその地球の環境を左右できるはずもなく、地球は少し身震いするだけで全てを元に戻す自浄作用をもっているのです。いくら環境を破壊したところで、地球自身は困るはずもなく困るのは人類だけです。動物や植物も困りますが、全てにおいて困るのは人類です。
地球のために地球を大切にするのではなく、人類の未来のために自分たちのために地球を大切にすべきではないでしょうか。地球のために人類が地球を大切にするという先の発想は、人間の傲慢さをむき出しにした醜い考えです。
人類は、地球で生き残っていくために進化を繰り返し多様性を獲得し、社会を作り上げてきました。社会を作ることで種の保存と多様性を維持し、生物として生き残っていくための確実な舞台を作ったのです。人間は時間をかけて地球と共に生きてきた地球の一部です。
人間として形態の多様性だけでなく、趣味や嗜好の多様性も生物として種の保存のためになくてはならない機能の一つです。生物の本分は生き残ることです。これは器の目的です。また人間には意識の側面からみた目的もあります。
器としては、地球が今の環境はもういらないなと思って身震い一つしたら、全てまた最初からになるのです。
悩むということ / 2006年10月3日

懊悩です。
人は悩むために生まれてきたとまで言われるほど、悩みの種類は数あれどそれそのものは一般的なもので、意識がある以上、悩むのは考えることと同義でもありますので当たり前のことです。
ただ、経験と共に悩みの質や種類が変わっていくようで、思春期〜青年期は主に自分自身の内面的な悩みが多かったのに対し、徐々に外的な要素に起因する内容が増えてきて、必然的に自身を鑑みることが少なくなっていきました。社会に出てから経済的なことや仕事のこととそれに関わる人のこと、という具合に世界が変わり自分も変わり、気がつけば変わったことに気づかないくらい変わって馴染んでいくのです。
よく、気持ちは高校生のときのまま、とか気持ちは中学生のときから変わった気がしないという話を聞きますが、いずれも内面的な悩みで懊悩する時期で、そういうときに自分自身と多く対話をしていたからこそ、鮮烈に残って気持ちがそのときから変わっていないと感じるのです。
社会で生きている以上、社会的なものに付随する悩みはつきませんし、それがあるからこそ日々変化していき悩み考えることで感性に深みを持たせるものであるとも思います。一人机に向かって考え込んでいるより言葉を選ばす人に喋り散らしながら整理していく方が、自分自身でも見通しがよくなり、論理的に組み立てて行くことができます。そうして表面的な悩みを整理していき内面的な悩みと対峙し、最終的に行き着く命題は生そのものになるのかと思います。そして、その結論を得るために生きるだけ生きて寿命を得るというのが美しいのではないでしょうか。
最近は、若いうちに嫌と言うほど悩めるのは幸せなほうだと考えるようになりました。昨今の思春期頃はやらなくてはならないことが異常に多くあり、予定がないと不安という学生もいます。自身のときのことを考えると、やらなくてはならないことなど何もありませんでしたので、それだけ存分に悩みと格闘したものです。悩むべき時期に存分に悩むことができたのは今思えば幸せな方になるんだなと知る次第です。
そうやって頭を使って悩んで、時に身を任せて、人間が豊かになっていけているのだと信じています。
あの日見た空 / 2006年10月2日

秋の初めごろ川縁の土手に寝ころんで、澄んだ空を見ていました。
秋の雲は高いところにあって、あの上は宇宙なんだなと飽きることなく見つめ続けていると、体は土になり手足の感覚はなくなって風が通り抜けていきました。自分の存在は曖昧になり、あるのは風が通り抜ける感覚とどこまでも広がる意識だけでした。それは自分ではなく何か他のもので、異常に澄み渡った感覚は高い高い青空の中に星を見て、土の中に蠢動を聞き、風から知恵をもらいました。
あの空とあの感覚は忘れません。