夢描いた二十一世紀 / 2006年11月30日

とあるどうしようもない事情によって、携帯電話が使えなくなりました。
無くなってから一つだけ不便を感じましたが、自分が不便と思うより連絡が付きにくくなって困る、という他の人からの苦情の方が多く、みんなが携帯電話を持っているのは、自分のためだけではなくなってきているのかもしれないなと感じました。今まで持っていなかったけど、みんなから不便だと言われるから携帯持つようになりました、という方もいらっしゃることでしょう。
私が感じた不便は、時間がわからないことでした。
普段から時計を身につける習慣がなく、社会に出たときは既にPHSを持っていてそれが携帯電話に変わったものですから、時計の必要性を感じることがなかったのです。一時期だけファッションとして身につけていたことがありましたが、それっきりでした。
今、手元は懐中時計がありますのでそれを持ち歩けば解決なのですが、それで一つ思い出して考え至ったところがあります。
昔、街中で時間を聞かれたことがありました。
待ち合わせをしているときに、PHSをぼんやり眺めていたのですが、横から「すみません、今何時ですか?」と普通に聞かれました。時計を忘れた際にそうして道ばたの人に声をかけて時間を聞くのは、ごく当たり前で、何度かありましたし、実際に自分が聞いたこともありますし、聞いたことがある経験をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。時間の場合はたいがい時間を知る必要が合って急いでいる場合も多く、それだけの会話で終わるのですが、もう一つそうやって声をかけていたりかけられていたことがありました。
火です。
すみません、ちょっと火を貸していただけますか?
言ったことも言われたこともあって、雨宿りの時にそういうきっかけで会話をしたり、駅に向かっている途中くわえタバコで歩いていたら「火を貸して」と声をかけられ、そのまま一緒に駅に向かったりと会話の発端の役割になっていました。まさしく会話の火付け役です。
今では歩きタバコなどもってのほかですし、そもそも自室以外でゆったりとタバコを吸うことが憚られる雰囲気を感じます。そして携帯音楽プレーヤーの普及と携帯電話とで、外に出ているときに店員以外と会話をすることはほとんどありません。いつのまにか「今何時?」とか「火を貸して」などという会話のきっかけになり得ていた文言が人の口に上らなくなってきて、気がつけばそういう風に声をかけたら怪訝な顔をされるような雰囲気すらあります。
気のせいかもしれませんが、携帯電話も時計も持たずに外を歩いていてなんとなく「今何時ですか?」と声をかけにくく、時間を知らないまま駅に到着しました。駅まで行けば時計はありますので、聞く必要はありませんし、携帯電話持ってない方が珍しい昨今ですので普通に聞くのが憚られてなりませんでした。
「道を聞く、聞かれたり」というのはまだありますので、そういうときは少しだけホッとします。
だからどうだというものでもなく、携帯電話の普及によって市井の生活は変化し、音楽の在り方やその提供方法も大きく変化しただけのこです。そうして少しずつあったものが新しいものに取って代わっていき、昔を懐かしく思うのは懐古主義というのでしょう。
二十世紀末に夢描いた二十一世紀は、今のところ灰色です。
「情緒」という色彩が少しずつ無くなり、「効率」という一色の色に塗りつぶされていっている気がしてなりません。
きっと「効率」と「情緒」のバランスが大切なのでしょう。
これから時間をかけて、そのバランスを模索していくのが二十一世紀初頭の現代と言えるのかもしれません。
電気に弱い電子機器 / 2006年11月29日

はっと気がつくと、身の回りには当たり前のように電子機器が増えました。確か15年くらい前まではこんなにあふれかえっていなかったように思います。映画はVHSが概ね浸透し、LDが普及を初めていました。レーザーディスクですよ、レーザーディスク。今は見かけることは滅多にありません。そして音楽はLPからCDに取って代わり、録音機器はテープからMDに移行が始まっていた段階で、ウォークマンが携帯音楽プレーヤーの代名詞でテープがあたりまえでした。
携帯電話なんてありません。
やがてCDとMDはセットで普及していきましたが、仕事以外でMDを見る機会は減っていき、iPodなどのHDプレーヤーあるいはシリコンディスクプレーヤーになっていき、通信端末ではポケベル→PHS→携帯電話となり、電子手帳と呼ばれたPDA(PersonalDigitalAssistant)は携帯電話に統合されつつあります。現実にはバッテリ持続時間の関係でまだ過渡期ですが、実際に音楽聞いて手帳になって電話になってパソコンになる端末はありますので、いずれ持続時間も実用に耐えうる製品が出てくることでしょう。それが便利なのかとか需要があるのかとかはともかく、上の人や営業は機能を搭載したがるのです。とりあえず多少でも純利が出るのなら、実行するのです。
これらの電子機器は全てICチップが入っています。集積回路です。きっとどこかでみたことがあると思いますが、ムカデのように足がたくさんでているチップです。これらのICはそれぞれ機能を一つにまとめて小型化した半導体素子です。様々な機能を持ったICを組み合わせて、現在手元にあるあらゆるものを使うことができているのです。テレビも携帯電話も各種プレーヤーもクルマも、身の回りにあるもの全てです。
例えばちょっと電車に乗ろうと思えば、券売機で切符を買って改札を通ってプラットホームに降り立ちます。そこには、iPodやらで音楽を聴きながら、携帯電話をしきりに見つめている人たちがいます。新聞や文庫を読んでる人たちも居ますが、ここには大量のICが集まっています。それがラッシュ時ともなれば凄まじい数の電子達が行き交っているわけです。そういう電子機器が集まった満員電車の中で、強力な磁場を発生させたとすると、どんなことが起こるのか。想像すると、ちょっとニヤニヤとしてしまいます。携帯のデータは全て飛びますし、プレーヤーも全て壊れます。
ちょっとした電子テロです。情報テロです。
軍事国家はきっと開発しているんじゃないかなと想像してしまうくらい、電気がなくなったら社会が止まります。停電はただ電気が止まるだけですが、磁力になるとデータを破壊します。
でもこれ、全部想像です。本当に磁石でハードディスクのデータが飛んだという経験がないので実際にそういうことを起こせるのかはわかりません。どの程度の磁場が必要なのかもわかりませんし、だいたい40kmを強力な磁場で包もうと思ったらどれだけのエネルギーが要るのかもわかりません。
しかし便利なものです。迷惑メールが一日平均1000通も遠くないなと思いながらも、仕事やプライベートでメールのやりとりは普通です。迷惑メールの場合は、仕事柄多いだけで一般的には数十通来てたら多いなとかいうレベルなのかもしれません。メールは便利で便利すぎて目的だけになり、礼儀が抜けて行きます。プライベートならともかく、仕事のメールでも挨拶はないわ署名はないわ用件が1行だけなんて凄いものもありますし、問い合わせに至ってはどこの誰か書かずに送って来る人も居ます。こういうのは、知らないでは済まない次元ですし、知らないのであれば親の顔を見てやりたい気分にもなります。私はいじわるですので、そこは注意せずお返事を送信します。ここで相手に教えてあげたとしても、お節介呼ばわりされるのが目に見えています。そんな人は他のところで恥をかいて、そして直せるのならば直せばいいのです。礼節については知らないは言い訳になりません。ある程度の年齢であれば、知っておかねばならないのです。衣食足りて礼節を知ると言いますが、現代においては衣食十分に足りているにもかかわらず、礼節はさっぱりです。ことコミュニケーションに関しては便利になってから極端に礼節が欠けていっています。親しき仲にも礼儀ありというのは、如何なる関係においても言えることです。
昔は午後10時以降に電話するのは憚られましたし、午前10時前に電話するのも同様でした。
いっそのこと、午後10時過ぎたら国内の電気は全て供給停止、午前10時に供給再開とか。広告塔は午前0時以降は消灯が義務づけられていますので、そんな感じで。
冷蔵庫の氷は溶けてびしょびしょになり、中のものは腐っていき、冬は寒くなるって信号は消えます。電力会社の売り上げは落ちて工場は止まり、高速も走れなくなると。すごいことになりそうですね。犠牲者も出てしまうことでしょう。
でも、どんなものでも存在はそれ自体が消費であり、生産であると考えていくと、非礼な行為も雑音も嫌なことも、なくてはならないことに思えてきます。
梨下に冠を正さず / 2006年11月28日

梨下に冠を正さず
中国の故事です。
梨の実がなっている下で、手をあげて冠を整えている姿は、遠くからみたら梨を盗んでいるかのように見えて、誤解を招き足下をすくわれるという意味合いです。君子たるもの梨下に冠を正すようなまねをしてはならない、という使い方をします。君子というのは、あの君子ですが今では一定の立場にある人間を言います。人から注目をされる人(メディアに露出する人)や国民の代表(議員代議士)などです。
たとえそれが誤解であったとしても、誤解される行動をする側にも責任が生じるという含みもあります。
火のないところに煙は立ちませんが、人の口には誤解という火種でも煙が立ち、野次馬が集まります。
これは実は他人事ではありません。
満員電車や階段、エスカレータなどではまさしく梨下に冠を正さずです。
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車では両手は上に上げておくことをおすすめしますし、階段やエスカレータでは下向きに顔を向けて置いた方が誤解を招きません。幸い、そういう誤解を受けたことはありませんが、基本的に満員電車などでは女性の方が弱者です。ですが、声を上げ「この人です!」と指を指されてしまっては現行犯的な扱いになり、そのまま連行されてしまうことが多々あるそうです。それで冤罪だったということもありますが、冤罪であることを証明するのは難しく、ややこしいことになる可能性がある場所ならば、最初から誤解を招かないようにしておくのが無難です。
知らない女性の体を触りたいとも思いませんし、あまり近くに来られるのも香水の臭いがきつくて困ります。だから電車に乗ろうと思ったときに、満員だなと思ったらとりあえず一本遅らせます。それができないときは、両手が第三者に確実に見える位置に出るようにしています。ポケットに手を突っ込んでいたりするのは危険です。
冤罪は、いつどこでどういう理由で被せられるか予想ができません。
だから梨下に冠を正さずにいるのです。
とはいえ、痴漢が多いのは事実です。
それも驚くほどに多く、昔痴漢にあったことがあるという話はよく聞きます。男性は相手が女性なら誰でもいいのかと思われるのも心外なのですが、困ったのは女性専用車両です。女性にとっては福音だったのかもしれませんが、様々な種類の香水が入り交じった車両は専用車両解禁後でも乗ることができません。
誰彼ともなく女性と見ればすぐに体に触ったり、猥褻行為や下品な方向に話を進めて言って寝よう寝ようという人のことを「色がある」といいます。水用語だったと思います。「あの客は色があるから気をつけろ」と言うのですが、その色があるお客さんと色のないお客さんとの職業別統計を取って、さらに痴漢をした犯罪者の職業別統計を取って照らし合わせてみたいなと考えています。考えているだけで実行できるだけのコネクションはありませんが、恐らくは日頃から欲求を強制的に抑圧させなければならない職業あるいは立場であるのかもしれないなと想像します。まったく無関係が証明される可能性の方が高いですが。
男性が女性に痴漢されたという話もありますが、これは特殊なケースです。
迷惑な話ですが、一喝すればそれで済むので問題ありません。男性が男性をというのも聞きましたが、ちょっと特殊すぎますので想像できません。
痴漢や窃視行為、盗撮行為などは明らかに犯罪なので、そもそも誤解されないよう生活するのは大事なことですし、ミュージシャンや芸能人など不特定多数から見られているような人は、僻みや妬みも受けやすい立場ですので足下をすくわれないようにすることも大切な自己防衛手段です。
いきすぎた話もありました。
あるカメラマンが仕事で田舎の風景撮影をしに行ったそうなのですが、川を挟んだ向こうの堤防で遊んでいる小学生を撮りました。遠景です。それから歩いているとパトカーが来て職務質問を受けたそうです。なぜわざわざパトカーで来て職務質問したのかを警察官に問いただしたところ、さきほど撮影した小学生が母親に「変なおじさんが写真撮ってたよ」と言い、それを聞いた110番して出動してきたということです。通報されたら警察官は出動しなくてはいけませんので、わざわざこうして来たそうです。
昨今の幼児誘拐事件などの多発や報道加熱で母親が神経質になっている気持ちは理解できますが、それで振り回された警察官やカメラマンは気の毒です。
誰も彼もが常に李下に冠を正さず行動しなければならないような閉塞的な社会は息苦しくて困ります。このカメラマンのエピソードも特殊な事例であって欲しい次第です。
エラー出たから110番通報 / 2006年11月27日

先日、auの通信障害によりメールを送信したときに「送信できませんでした(110」というエラー画面が出るようになりました。「メールを送ろうとしましたが送信することができませんでした。エラーコード110」など表示されるわけなのですが、エラーコードというのは、トラブルが起きたときにサポートの人が「エラーコードを教えていただけますか?」と聞いて問題点の把握を速やかにするための工夫で、コード110を返すエラーの種別を判断し原因を探ることができます。説明書にもエラーコードの意味は載っているはずです。
関数やオブジェクトを作るとき、例外的動作をした場合は「1」や「2」などを返し、正しく動作した場合は「0」を返すなどバグが出たときにどこに原因があるかを探すための工夫でもあります。家電などでも液晶が付いている機種はエラーが起きたときに何らかの表示をして、説明書にその表示の説明があって対処方法があったりします。
auの場合、通信障害による送信エラーのエラーコードが110だったのです。
何度送っても送れない場合「通信障害かなんかだろな」で、放置していればそのうち復旧しますので、なんてことのないトラブルのはずです。auも早々に復旧しリリースを出していましたので、大した問題ではありません。
ところが、後日になっておもしろいニュースが載っていました。
エラーコードの110を電話番号だと思って110番に問い合わせが殺到したのです。110番は110番です。警察です。問い合わせは二日間で6400件余りにのぼったということです。警察業務に支障がなかったそうですので、まだよかったですが、これは勘違いというより、神経を疑った方がいいかもしれません。
想像するに、おかしいなおかしいなと思いながら110番に問い合わせをしたのだとは思いますが、その発想自体が根本的におかしいことに気付くべきですし、そこでおかしいなと思いながら問い合わせをしてしまうのは振り込め詐欺でも同じように行動する潜在的可能性がありますし、DMなどでもクリックしてしまうことでしょう。フィッシングサイトに至っては何も考えず機械的に指示に従って入力していきそうです。ホームページみてたら、「OKボタンを押してください」とか「あなたのパソコンはウィルスの危機にさらされています」といったダイアログが出てきて機械的にポチっと押してマルウエアをインストールされていくわけです。
エラーコードの意味を知らなくても110番に電話したら警察だということは知っているはずです。それを知っていながらも110番に問い合わせが6400件も来たというのは、怖いです。「おかしいとは思ったけど、画面にそう出てるから」問い合わせたわけで、エラーコード110が紛らわしいのがいけない、という発想にいくとなれば、これはただの責任転嫁だと思います。
警察としては一応auに再発防止を要請して、auはエラーコードを変更することでしょう。
そして、それぞれの担当者レベルはうんざりしながら対応をしなければならないのです。とはいえ、ユーザインタフェースを作る側の人間は「相当の馬鹿を想定して作るべし」という現場教育があるので、今回のはミスと言えばミスです。
実際にエラーコードを見た人数の何%が問い合わせをしたのか、興味をそそられるテーマです。これも人類の多様性の一つなので、そういう視点でみると(当事者でないので)とても微笑ましく、むしろ愛しくすら感じてしまいます。
当事者の方々はご愁傷様でした。
続く夢日記 / 2006年11月26日

続いています、夢日記。
相変わらず自分でも意外なのですが、三ヶ月続くまでは安心できません。
書き記して客観的に見ると、きちんと毎日夢を見ています。思い出せないけど漠然と見ていた夢の雰囲気だけ残っている場合とはっきりと筋を通して残っている場合と、場面ゝ断片的に思い出せる場合と、ばらばらですが、時間と共にどんどん消えていく夢は、きっと脳の取捨選択処理により削除されている最中の記憶なのかななどと感じるほど、綺麗さっぱりなくなります。でもそれをうまく掴んで書き記しておくと、あとで読み返したときにするすると記憶が蘇ってくるので、なんだ削除されてないじゃないか、と混乱します。
なんのための夢なのかはおいといて、逆夢というのがあります。
「家が火事で全焼した夢を見たら、一財産転がり込んだ」という火事の夢などはその類で知られています。
これ以外に、人間関係でも逆夢は良くあります。
現実ではものすごい優しい人なのに、夢の中ではむちゃくちゃな悪人で嫌なことばかりしてくる人になっている、とか逆に現実ではものすごく意地悪で嫌な人なのに、夢の中ではやたらと優しい人になっているなどという夢を見た経験がある方もいると思います。
これはこれで逆夢ではありますが、主観的には悪夢とも言えます。
悪夢にもいろいろな種類があります。
高いところが怖い人にとっては、高いところを歩いている夢は悪夢でしょうし、追いかけられるのが怖い人は、追いかけられている夢を見たら、それは悪夢です。そうした主観的な悪夢とは別に客観的な悪夢もあります。例えばカニバリズム。これは客観的にも概ね悪夢です。そして自分が溺死する夢も同様です。
私の場合、主観的には悪夢らしい悪夢を見ることはあまりありません。途中は悪夢のような雰囲気で、追いかけられていたり追いつめられていたり、殺されかけていたりするのですが、そういう場合でもその都度何らかの方法で逆に相手を躊躇無く殺して爽快感を持って目覚めたりします。先日は火炎放射器で右腕を焼かれましたが、左腕でそれを奪って相手の口に火炎放射器を突きつけてあっけなく殺していました。
自分の中の残忍性や残虐性を客観的に夢という形で見せているのかな、と真剣にとらえたりはしません。夢は夢です。いやーすんごい夢見たなーで終わりです。
フロイト的解釈をしたら、全て性的なものに結びつけられることでしょうが、当時と今では時代が全く違いますので解釈も変わってきます。焼かれた右腕は犠牲を伴っても目的を達成しようとする意思であり、相手の口に武器を突きつけて殺すのは他者からの意見に耳を傾けずに目的を達成する、とも受け取れます。いずれも象徴でしかありませんし、その真意というのはあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。気付くとすれば「夢を見ていた」状態を客観的に夢日記という形で読み返したときに自分自身で気付くものだと思います。
そういう動機もあって夢日記が続いているわけです。
もちろん、夢分析は膨大で緻密なサンプル数が既にありますので、それを踏まえた上で解釈するのも重要ですが、それに囚われて画一的になって行くのは、解釈と想像を矮小化させますので塩梅が大切です。
そして、夢は自分の置かれている立場や環境で少しずつ変わっていっています。自分を客観的に見るトレーニングとしても夢日記は有意かもしれないなと感じてきています。数年後に夢日記と日常の日記とを照らし合わせて読んでみたら、また違った解釈が生まれてくることでしょう。一瞬ゝの現在の積み重ねが過去を作り、過去が重なって歴史を作ります。歴史になったときにそのときの記録があればそのときに初めて本当の意味での客観になって、自分を観察することができるのではないかな、と今からそのときを楽しみにしています。
今となっては、もっと前からやっておけばよかったな、と後悔するだけですが、そういう後悔があるから今また続けられているのかもしれないと感じてもいますので、やっていなかった自分が居るから今になって続けていける自分がいるわけで、結局自分で気付いて自分で行動しないとやり出しても続かないのは、日記に限らず何事もそうだなと気付かされる次第です。
継続は力なりとはよく言ったもので、継続させて何かを得ることが大切なのではなく、継続そのものが大切なのですね。
夢日記を通じて、いろいろ教わっている気がします。
深く反省 / 2006年11月24日

改めて自分の文章を読み返して深く反省。この空の深さのごとく反省。
一度書いて、推敲して、一日置いてもう一度推敲することにしました。誤字や文がおかしいところが、多すぎー。コスギ。ケイン。(壊
なので、しばらくは手抜きモブログです。携帯から投稿するの、モブログって言葉が定着しつつあるそうです。
あそうそう、コーナー曲がるときのドリフトって、日本発祥なんだそうです。今日知りました。一度、友達の車の助手席に乗ってるときに、細い路地の直角カーブをドリフトで曲がられたことがありましたが、たまったものではないです。
そのときの私の顔色は、写真の空のごとしでした。
伏見稲荷神社 / 2006年11月23日

鳥居ロード。
伏見山がご神体だそうです。
その使いが狐。
稲荷は稲がなる豊作を意味していて、イネナリがイナリになったそうな。
ナリナリ言ってたら、コロ助の気分ナリよ。
古本の中から出てきた / 2006年11月23日

古本屋で買った本の中から出てきた百円札。ピン札です。
板垣死すとも自由は死せず
というセリフを思い出させてくれました。このまえの大河ドラマのタイトルが「三成死すとも」で、あれ?元はなんだったけかな?と考えていた矢先に、パラリと本から落ちてきたので教えてくれたようです。
「わしやで! 板垣やで!」
立派なお髭ですこと。
コーヒーの香り / 2006年11月22日

コーヒーが大好きで毎日飲んでいます。カフェイン中毒に近いですね。両親にコーヒーを飲む習慣があったので、私もそれに倣って中学頃から飲み出して今に至っています。最近はスターバックスが台頭してきて、コーヒーでもいろいろな種類が手軽に楽しめるようになりました。でも私はスターバックスには入りません。だって禁煙なんですもん。コーヒーの香りを楽しむために禁煙という理由には一定の理解を示しますが、コーヒーの香りとタバコの香りを同時に楽しみたい私としては、敬遠する動機になっています。そういうわけで、未だにスターバックスは1回しか行ったことはありません。薫り高い普通のコーヒーでした。やっぱり普通の喫茶店が好きだなという結論に落ち着きます。
自宅では近所のコーヒー卸屋さんで挽いた豆を買って来て飲んでいるのですが、スターバックスより薫り高く、美味しいです。価格もモカが200gで440円とリーズナブルです。
今は普通のコーヒーを飲んでいますが、いまだに大好きなのはフレーバーコーヒーです。あちこちでいろいろ買って試したのですが、美味しいのが見つかりません。
急にローカルな話になりますが東京在住だった頃に毎日飲んでいたフレーバーコーヒーが恋しいです。京浜東北線大森駅の山王口を降りて池上通りを環七方面に歩いていくと、カドヤという高級食材店があるのですが、ここの二階で売っていたフレーバーコーヒーのバニラが凄く美味しいのです。そのころは今以上に金銭感覚がなかったので、何gでいくらだったかは全然覚えていませんが、常にそれを自宅に常備して飲んでいました。大阪に来てからもネットで探したりお店で探したりしたのですが、記憶にあるパッケージが見あたらないので、機会があったら明治屋で探してみたいなと思っています。でも、今みたらびっくりするような金額なのかもしれません。そうだったら、おとなしくモカっておくことにします。
寒くなってきて、熱いコーヒーが美味しい季節になりました。昨今はコーヒーの成分に含まれる成分の健康に対する研究がすすみ、いろいろ見直されているようです。カフェインばかりが前に出てきていましたが、豆ではなく抽出液になったコーヒーにはカフェインは極少量しか含まれていません。実は糖類やクロロゲンや褐色色素だそうです。
眠気防止や疲労回復作用はよく知られています。
基本的にカフェインによる弱い習慣性や軽い精神依存性を引き起こしますが、極めて軽いものなので規制や年齢制限はされていません。急性作用として利尿作用や血圧上昇が言われています。
疫学的には、古くはコーヒーは体に悪いという知見が多かったのですが、90年代になって精度を高めた追試により否定されていき、現在では体によいという視点からの研究が多くなっているということです。ほぼ確実に発症リスクを低下させる確証が得られたものは、パーキンソン病や大腸癌、2型糖尿病が言われています。また、朝のコーヒーに若干砂糖を入れて飲むと、血流が良くなることと脳の栄養分が補給されるため頭脳労働には効果的と言われています。
歴史的には紀元前のエチオピアまでさかのぼり、携帯食として用いられてと言われています。それからも13世紀くらいまでにコーヒー豆の焙煎が行われるようになったそうです。このころは、宗教的な秘薬でしかなく、一般化していませんでした。それが徐々に民衆への飲用が習慣し、16世紀以降にヨーロッパから北米に伝わり、日本には鎖国時、長崎の出島に持ち込まれたのが最初と言われています。本格的に世界中に普及したのは、20世紀初頭です。日本の最初の喫茶店は、東京下谷に1888年にでき、明治時代末から大正にかけて、カフェが全国的に普及したそうです。
そんなコーヒーですが、スタイルや薫りや飲み方などこだわらず、楽しく美味しく飲みたいものです。
インターネット / 2006年11月21日

情報のやりとりを行うネットワークとして、インターネットはインフラストラクチャーの地位を確立しました。インフラというのは、生活の中にあって意識せず使えるもののことを言います。通信設備や電気・水道・下水設備等々ですね。それくらい、生活の中に溶け込み一般化しました。それらはPDAや携帯電話などの携帯端末を経由して、場所を問わずに利用できるようになり、遍在化が実現しました。ユビキタス社会ってやつです。ただし、あくまでインフラとしてだけです。
インフラとして考えた場合、これまでだと郵便や電話、FAXで行っていた作業が全てインターネットを経由して済みますので手段が一つに絞られてとても便利になりましたし、コストも下がりました。時間的コストが下がったことでのデメリットもかなりあるのですが、その話はここでは置いといて先に進みます。
インフラとしての黎明期を過ぎ、インターネットを利用できる端末が急速に普及して一般化した結果、次の段階としてメディアへの成長が昨年あたりから期待されています。すでにメディアだと言う方も出てきています。
手段という意味では、間違いなくメディアと言えますが既存のメディアと比較して考える必要があります。ラジオ、新聞、テレビが今で言うメディアの主軸で、これらの重要な役割として「情報提供者としての責任」があります。不特定多数に情報を提供するメディアであり、その影響力を考慮した場合、情報そのものの信頼性への責任を負わねばならない、という理念です。既存の既に確立したメディアにはその理念がきちんとあって、間違いを犯すことも多々あれど、それなりにやってきているという実績もあります。
こういった既存のメディアとインターネットを比較すると、インターネットがメディアとして黎明期でもがいている姿が浮き彫りになる気がします。
具体的にはインターネットはメディアを提供するインフラであって、メディアとなりうるのはhttpプロトコルを利用したホームページで、期待の対象となっているのは「Web2.0」と呼ばれているページです。Web2.0というのは、これまでずっとあったJavascriptや他のテクノロジを組み合わせたものでしかなく、技術的な側面から見てWeb2.0と呼ぶのは意味がないことなのですが、そういう呼称を付けることで宣伝しやすいのでマーケティングに利用されて広まりつつある感があります。その話もおいといて、インターネットがメディアとして黎明期を抜け、メディアとして成熟期に入れるかは利用者の意識によります。
昨今の異常なSPAMメールの数は、ネットの人口数に比例して増えていき、ネットそのものに激しい負荷をかけていて、メールはとても不便なものになりました。最近は携帯にもSMAPがかなり来るようになりました。ホームページも同様でWeb2.0と喜ぶのもいいですが、新しいテクノロジに脆弱性はつきものです。あっという間にワームやウィルスが広がっていき、最近はセキュリティソフトも検知できないスパイウエアまで登場してきています。
パソコンを使っていて知らなくて感染した、というのは言い訳になりません。その感染で数十人に広がり、その数十人からさらに数十人に広がり、という具合にもう止めることはできません。パソコンも車のように免許制にしたらどうか?と思う程、酷い有様です。知らなくてあたりまえ、と開き直る人が如何に多いことかびっくりさせられますし、未だにセキュリティソフトすら入れていないという会社もかなりあります。セキュリティソフトは無料のものもありますので、ないよりはマシという意味で今すぐいれるべきです。自分や自分の会社のためではなく、みんなのためです。その入れ方がわからない、あるいは操作方法がわからない、という方はパソコンは触らない方がよりよい人生を送れることでしょう。
Winnyを使って情報漏洩をするなどというのは、エンジンをかけてサイドブレーキをかけない状態の車に赤ん坊を置いていくほど分かり切った話です。結局、操作方法をよく知らないのに雑誌でWinnyやMXなどの存在を知って使ったわけです。恐らく設定すらきちんとされていなかったのではないでしょうか。パソコンをただの事務機器と思って触っていると、そういう痛い目を見てしまうのです。
インターネットをメディアたらしめるのは個々人の意識次第です。日常的にネットを使っている人とそうでない人の意識の差は想像以上に大きく、従って現状のメディアとして責任も何もあったものでもないノイズまみれのメディアでも「そういうものか」という程度の認識しか持ち得ないのです。インターネットのメディアとしての責任の所在は、それぞれ個人個人にあります。ネットは匿名性が高いという思いこみがありますので、無責任な発言や誹謗中傷もよく目にしますが、全て幻想で直接お宅にお伺いすることもできてしまうのです。
以前、仕事の絡みで誹謗中傷メールをもらったことがあるのですが、すぐにその人の名刺を手に入れどうのこうのしてやりましたが、当人の無知の結果そういうことになったわけです。ネットでも現実でもまったく一緒ですので、そういう気持ちでネットに接していれば自ずとネットはメディアになり、成熟していくはずです。
現在の10代後半から20代前半の方々が決裁権を持つ年代になるころには、確実にメディアの一つになっていることでしょう。テレビはテレビ、ラジオはラジオ、新聞は新聞でそれぞれ良さがあります。パソコンが登場した頃、新聞がなくなるなどとのたまわっていた専門家が居ましたが、メディアは競合しません。競合するのは広告費であり、収益でありそれは会社の話です。その時代ゝに合わせてそれぞれ姿を変えて提供していくことは可能なのです。
素人が見ると、ネットの動画はテレビの用に見えるのかもしれません。でもそれはそう見えているだけで、本質的には全く違います。その違いをきちんと認識して、それぞれのメディアの特性を理解して、メディアを通じてコンテンツを提供する側が、いずれのメディアをどのように利用するかを判断すればいいのです。企業論理的にはコストバランス。
そういう視点に立ってインターネットを見ると、メディアとしての影響力は非常に小さく感じます。そして無責任なノイズデータや限度を知らないウィルスやワーム、スパイウエアなどを如何にして駆逐していくかが今後の課題と言えると思います。
便利になればなるほど、悪意の第三者にとってもそれは便利なものなのです。
そういう危ういものに頼りつつある社会は、脆弱な社会と感じます。
夢を見る / 2006年11月20日

夢を見ているとき以外は全て現実です。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても斜め前を見ても斜め後ろをm(もういいって)すべて現実です。現実は楽しいことも苦しいことも、自分の責任や行動の結果とは無関係な事実を運んでくることもありますし、痛みや喜びは感覚に直結して、直視するしないではなくそれは受容されていき時間という感覚を生み出します。
だから人は現実から少しでも目を逸らせるための手段として、娯楽を求めます。現実を忘れさせてくれる何かを求めて、休息を経て自分を納得させてまた現実に戻ってくるのです。嫌なことがあったときに無性に眠くなるという人もおられることでしょう。
夢を語っているときも、夢を見ているときも、娯楽に集中しているときも、すべて現実から目を逸らして現実に身を置く自分自身を納得させるための処世術あるいは防護反応と言えます。失恋した後に慰めてくれた人とくっつくケースを多々目にする恋愛も、そういった娯楽の一つです。現実から目を逸らすのは悪いことではありません。目を逸らしたところで現実は現実ですし、夢は夢です。健全です。
よくないのは、現実から目を逸らす手段にお酒やクスリに手を出すことです。日本ではお酒で逃避というのは非常に多いです。キリスト教の国家では飲酒は戒められますので、酔っぱらう程呑むのは恥ずかしいことという認識の方が強いらしいのですが、日本は文化的に違います。そもそもお酒は年に一度のお祭りの時に呑める、という程度のものでした。だから羽目を外して酔いつぶれて正体をなくしても、一年に一度のことだからという大らかに見る傾向がありました。ところが文明の発達と共に交通網が整備され流通が確立してお酒はいつでもどこでも買えて呑めます。それでも大らかに見る傾向はなかなか消えませんでした。だからいつまで経っても飲酒運転は減りませんし、お酒が呑めない=情けないというイメージを植え付けていっていました。それがバブル前後までの話。
それから時代は変わり、アルコールハラスメントという言葉が生まれ、誰彼なしに酒を呑ませる悪習はなくなりました。まったく呑めない私としては嬉しい限りです。それまでも呑めないと言っていましたし、それでも無理にという人には「あとで責任取ってくださいねニコニコ」とお客さんであっても誰であっても言っていましたので、呑ます人は一切いませんでした。
さて、アルコールハラスメントが一般的になってきましたが、飲酒運転は相変わらずでした。お酒を呑んで気が大きくなっているぶん、余計に大丈夫という気持ちが働いて運転しているわけです。危険極まりないです。私は夜道を歩いていて車が来たら極端に避けて逃げておきます。お酒を呑んで車を運転するというのは、寝起きに細い一本橋を歩くほど危険です。肝機能がどうとか分解酵素がどうとか言いますが、話によればアルコール摂取量に比例して反射神経などの伝達速度は一律鈍くなるそうです。自分はお酒に強いから、と思っている人ほど危険です。本当に強い人は、飲酒検問で捕まってもアルコールが検知されません。知り合いに一人いますが、こういう人はお酒を呑んでまったく酔わず呑む意味がないと自分でも言っていました。強いというのはこういうことを言います。
今まで飲酒運転や酔っぱらいに対して非常に甘い社会であることは間違いありません。お酒は売れれば消費税に酒税に法人税にと税金が美味しいので国も積極的ではありませんでしたし、そもそも議員の年代はアルコールに寛容な世代です。お酒を呑んで言動が変わって崩れていく様は、客観的に見ていて痛々しいものがあります。一度その過程を録画して自身で見ればかなりの自己嫌悪に陥ること請け合いです。悲惨な事故が起こったから厳しくしましたというのは余りにも酷すぎます。そんな事故が起こることぐらい誰しもが考えていたことだと思います。
酔っぱらい、と一様にいいますが良い方にもよります。普段と言動が変わらないのは言い酔い方です。言動が変わっていくのは非常に悪い酔い方です。悪い酔い方をする方とは、お酒のある場では会わないようにしたり、酒量を見つつ距離を測ったりして自己防衛する以外にありません。でも私は呑まない人が好きです。呑んでも嗜み程度というのがベストです。
冬に道ばたで酔っぱらって寝ている人を何人起こしたことか。吐瀉物まみれの終電を何度見たことか。
げんなりします。
あ、そうそうそれで思い出したのですが、夜の繁華街が嫌いな理由が一つわかりました。夜の繁華街は全体的にアルコール臭いのです。それは大体が呑んだ人たちの口臭なわけです。アルコール臭と胃液臭の入り交じった独特のあの臭いが大嫌いで、夜の繁華街に行くことがなくなったわけです。もちろん酔っぱらいも多いという理由もあります。
ところで、飲酒運転はする人は捕まろうがなにしようが、いつまでもしますので免許取り上げ永久取得不能でもいいくらいですがそれが不可能ならば欧米のようにアルコールを検知したらエンジン停止機能などのアプローチになっていくことでしょう。これ以上痛ましい事故は見るのも聞くのもごめんです。言うまでもなくアルコールが悪いのではありません。呑んで運転するのが悪いのです。
ただ、お酒のCMはやりすぎです。
たまに民法を見るとお酒と車のCMしか見ないなという印象を持つくらいにやっています。
私はお酒はクスリとして呑みます。風邪で熱が出てきたら、日本酒をコップに半分くらいを呑んで布団に入ります。そうすると一気に熱があがるのですが、翌日にはけろっとすっきり治ります。
まさしく酒は百薬の長です。
普段呑んでいないからこそ、薬としての真価を発揮してくれているのでしょう。
お酒で最悪な思い出があります。8年くらい前に仕事で一緒だった女性と仕事先近所の居酒屋に行ったときのことです。その女性はスーツが似合うスマートな女性だったのですが、呑むに連れてどんどん猫背になっていき愚痴っぽくなっていきました。私は呑めないのでウーロン茶やらコーラだったのですが、その方はどんどん杯を重ね自分の過去を語り出していきました。茶髪の長い髪を顔に纏わりつかせながら猫背で自分の過去を愚痴っぽく喋りだしたのです。付き合いきれないので、適当に放っておいて帰りましたが、それからというもの猫背+茶髪の組み合わせは危険というイメージができあがってしまいました。
過ぎたお酒はいろいろなものを失います。
飲酒運転は全てを失います。
きっとお酒を呑む人口の方が多いのだと思いますので、くれぐれも気をつけてください。若いときほどお酒は呑めないと格好悪いという気持ちがあるようですが、それは幻想でしかありません。幻想や他人の思いこみに惑わされて、お酒に呑まれてしまってはいけません。
10代後半の頃に呑めないと格好悪いから、と言って呑んでいた友だちが、10年後すっかりお酒で体型が変わってしまい、愕然としたものです。
そうして肝臓をやられてしまって、脳をやられてしまったらお酒で現実から目を逸らした後に待っている現実はもっともっともっともっと辛いものになっています。
夢は純粋に見るものです。
そして、その夢を達成したときに見るであろう次の夢に希望を脹らませながら、夢を見続けるのです。
それも現実です。
夢日記 / 2006年11月17日

続いています。しかも続けるに従って覚えている内容も増えていって、一回寝て起きたら枕元に大量のメモが残っていることもしばしばです。
新しいメモ帳にメモするのは、とってももったいなくて「綺麗な字でかかなきゃ」とか「きちんと書かなきゃ」などと気張ってしますのですが、裏紙にメモしているので殴り書きができます。小心者なのです。ミスプリントしたA4の紙を十文字に四つ切りした紙を大量に置いてあり、夜中に目覚めたときとにかく覚えている範囲でザクザクと書いて行き、また寝ます。また目覚めてまた書いて、また目覚めて書いて、朝になります。そんなことをここ一ヶ月繰り返してみたら、慣れたもので、勝手に自分でページ番号を振っていて(自分では覚えていない)あとから見ても順番がちゃんとわかります。
そうやって一晩で2、3枚。多いときは5、6枚の分量になる殴り書きのメモを後で見返すと、凄い字です。自分の字なので、眺めているうちに読み取れますので、読み返しながら整理して日記帳に書き写していきます。整理しているうちに夢の内容を思い出して行きますので、時系列できちんと整理できることもありますし、逆にぐちゃぐちゃになってしまうこともあります。
きちんと整理してまとめられた夢日記は面白いです。自分自身では綺麗に忘れていますが、夢日記を読み出すとそのときの映像が蘇って来ますので、なおさら楽しく読めます。もちろん夢なので筋はあったりなかったりですし、登場人物も一回しか会ったことがない人が出てきたり逆に毎日一緒に居るのにまったく出てこない人なども居て興味をそそられます。
夢といえば夢分析による分析心理学がありますが、そういう目的のための夢日記ではないので、分析する気はありませんがあまりにも同じような状況の夢を繰り返し見ているなと客観的に感じる場合は、掘り下げて考えてみたりするきっかけを与えてくれます。
夢分析といえばユングとフロイトです。ただ、二人とも言ってることがごちゃごちゃなうえに既に古典的で今の時代背景とは合わないので何とも言えないのですが、基本的には自我によって抑圧されている無意識が日常的に顔を出す現象というような捉え方をしているようで、つまり夢の中の出来事やモノや人、現象は覚醒中の何らかの象徴ではないかという考え方です。
いずれにしても、人間の意識というものがどういうものであるのか、如何なる学問においても明確で定量的な定義はありません。私たちが考えて動いているこの「考えて」と自分が「意識して」いる「意識」はわからないことだらけなのですが、そんな中での夢へのアプローチというのは一つの指針であることは変わりありませんし、ユングは夢分析を通じて「集合的無意識」という考え方に至っています。これは人間の無意識の深層にある個人の経験とは無関係の先天的な構造領域ということらしいです。
無学な私では、おもしろいなぁ、という感想しか持ち得ませんが夢から着想を得て作品を作ったり研究を発展させたりするケースは多々ありますし、覚醒時に自分でいろいろ悩んでいても夢の中でそれに対する答えを出してくれていることもよくあります。一般的には夢は「覚醒中の情報を取捨選択する脳の活動によるもの」ということに落ち着いていますが、それでは夢に夢がありません(巧いこと言ったつもり)。
分析や夢占いをするつもりなく、ただただひたすらメモをして整理して夢日記に書き写してそれを読み返すのは、ちょっとした小説を読んでいる気にさせてくれます。面白いのです。きっと自分の夢だから面白いのですが、これはしばらく続けたいなぁと思わせてくれますし、そうやって夢を書き記して読み返すことで何らかの発見や着想が得られるならば、いい拾いものをした気分も味わえます。自慰行為に近いものを感じますが、面白いのだから仕方ありません。
デジャヴなんかも予知夢的な部分もあるようですしね。
「おいおいこれ夢で見たぞ」というあの既視感はなかなか快感です。
体系的に学習する / 2006年11月16日

学校教育や専門学校など、一定のカリキュラムに基づいて物事を学ぶのは効率的で尚かつ体系的に学ぶことができますので知識として学んだことの懐の深さは、独学とは全く違う次元になります。学ぶべきことの全体像を把握した人や組織が、その学習のために考えだした体系的なカリキュラムは、効率的で応用が利く知識となり人間性の造形にも深く関わって来るように思います。そうしてきちんと学習してきた人は、喋ってみると言葉の裏にある説得力や伝わり易く喋るための語彙の豊富さなど、凄いなと思うことはしばしばです。
体系的に物事を学習し身につけるまではいいのですが、ずっとそういう教育下にいると「そうでなくてはならない」という気持ちも強く働くようで、頭が固いなと思うこともあります。ここではこうしなくてはならない、ああしなくてはらなないという must be の表現が目立ちます。これで柔軟性があったら発想も豊かになるんじゃないかなとも思うのですが私は体系的に物事を学ぶことが大嫌いで、ことごとく反抗してきた立場なので果たして「しなければならない」という発想を柔軟に取り替えたところで、その先に何があるのかはわかりません。
義務教育は最低レベルとして必要ですが、その先の教育は本人次第です。16歳以降から23歳くらいまでの成長速度は個体差も大きく、男女差ともなればその違いは歴然としています。この時期に「しなければならない」という強い思いこみを植え付けるのは思っているよりも危険なのかもしれません。大学にいかなければならない、就職しなければならない、期待に応えなければならない、という気持ちは強くあるように思います。それで、例えば大学受験に失敗して気力喪失ということもあるのではないでしょうか。
自分自身を振り返ってみると、高校時代に美大に行こうと美大卒の両親からデッサンを教わっていたのですが、途中でパソコンに出会いこっちの方が面白いからという理由で、パソコンを選びそれがそのまま仕事を呼んでくれましたので大学進学という頭はすっかりなくなっていました。絵の勉強は後からでもできる、という気持ちもあったのかもしれませんがそのときは「自分がやりたいことをやる」ということしか念頭に無かったようで、当時の日記を見ると音楽も絵もパソコンでできるからパソコンを使う仕事をしようというようなことが書いてあります。こういう自分を許して受け入れてくれた両親がいたからこそ、今の私があるのです。後年になって他の人の話を聞くと、どうも私のような言動は許されないことが多いらしく、どこか打算的に進学や就職をしていて後悔の気持ちを吐露してくる人もいました。
さて、今になったからこそ思うのは、例えば美大に進学して体系的に美術を学んでいたらどうなっていたのかということです。遊んでいなければ、恐らくはこれまであった表現方法や技術、考え方などを体系的に学び吸収し美大卒並みの画力を持ち適当にやっていたことでしょう。もっとも、これは良い想像をした場合で自分の性格を考えるとどうせ教授などと喧嘩して辞めていたりするかもしれませんが。
基本的に、学ぶ気持ちがあればいつでもどこでも学ぶことはできます。それが体系的か否かはその学問の全体像を見渡せる知識がなければできませんので、わかりませんが摘み食いは可能です。私はいろいろなことに手を出していますが、全て独学です。独学で学び、あとから基礎を学んで応用して吸収するようにしています。逆に考えると、音楽や写真、美術といった感覚的なものだからこそ、そういうことが可能なだけで、摘み食いの知識が役に立たない医学や数学、物理学など本格的な学問の分野ではこういったことが不可能だと思います。
そうやって考えてみると、体系的な学習の後に試験を行いきちんと学習できて知識として身に付いているかを確認したのちに次の段階にあがったり、あるいは資格を与えたりする分野のものは極めて苦手といえます。むしろできない人なのです。
音楽や美術は学問ではありません。感覚的な分野においての学問は権威を生み出し、視野と表現の幅を狭めて文化を矮小させていく気がしてなりません。研究という意味では、学問として捉える音楽や美術も必要です。学問として正しい表現と、感覚として正しい表現には言葉以上の乖離があります。そこを認識した上で、摘み食いをしたり学んだりするのはとても楽しいですし、その上で他者の脳みそが作り出した作品を見ていくのは非常に刺激的でもあります。
いずれも一長一短ですが、自分に合ったものを見つけるということがやらなければならないことではないかなと考えています。
国立国際美術館 / 2006年11月15日

大阪中之島にある国立国際美術館です。
たまたま近所に行ったので、寄ってみました。90年以降のヨーロッパとアメリカの絵画「エッセンシャル・ペインティング」というのを特別展でやってました。それ以外に、現代日本の写真というものやっていたので、こちらもついでに。写真は写真なので、人の目を通して見た普通の風景はいろいろと想像をかき立てられて面白いものです。見せ方も工夫されていてなるほどなぁと思ったりもします。CGを交えたものもありましたが、それはちょっと食傷気味でもありますので敬遠してしまいました。いずれもテーマが工夫に飛んでいて凝っています。個人的な趣味としては、テーマは日常的で工夫や演出はしてあってもされていないかのように自然な方が好きなので、いずれも好みではありませんが、他人の脳みその中で作り出されたものを具体的に見るというのはそれだけで刺激的でもあります。何を考えながらこれ撮ったんだろうとか、このテーマに辿り着いた時の気持ちを想像してみたりして楽しむのです。
ただ、どうしても下品であったり汚かったりするものはさっさと前を通り過ぎてしまいます。
そして特別展の方に移動しましたが、エッセンシャル・ペインティングの意味がわかりません。。調べてみたら、エッセンシャルは花王の商標だそうです。ここでは関係ありません。ていうかエッセンシャルって単語でしょ。それが商標に登録できてしまうのは問題大有りですよ。いやいや、そういうことではなくて、エッセンシャルとは本質的なという意味です。要するに「本当の絵画」みたいな意味合いで「エッセンシャル・ペインティング」なのかなと想像しておきます。
副題に90年以降のヨーロッパとアメリカの絵画と付いていますが、絵画というより油彩で描いたイラストと言った方が今の感覚にはしっくりきます。過渡期感満載でイラストとして見るに堪えないうえにポップアートでもなく、こういう言い方も失礼ですが、なんだこれという感触でした。大きさも、なんだこれ、でした。250×195cmなんてサイズのもあったので驚きです。特別展は特にこれといったものもなかったのですが、特筆すべきはその建物の構造です。地下三階なのですが間仕切りがおかしい。とてもわかりにくく迷路のようになっています。それであちこちにスタッフが椅子に座って待機しているのですが、船を漕いでる人もいました。退屈そうな職場です。
来年1月16日から、この国立国際美術館にマグリットもやってくるようなので、それにまた来ようかなと思っています。
ダリ以前のシュルレアリズムの絵が好きということが最近ハッキリしてきました。ダリはダリ自身はシュルレアリズムだと思いますが、作品は人間くさくて面白いのですが少しだけ苦手で、あまり見続けられません。むしろ、本人の奇行の方が話として面白いので好きです。そのダリですが、生誕100年記念ということでダリ回顧展を上野の森美術館にてやっています。この人、極端な自己愛主義で晩年の方ではそれに輪をかけて拝金主義に傾倒して酷いことになっていたようで企画展として興行収入を考えればダリなどは営業しやすいように思えます。ダリはみんな知ってますもんね。
時代は前後しますが、ダリの絵をフロイトに解釈してもらったら、どんな分析をするのか想像してみるとちょっと面白いです。あと、ヒッチコックの「白い恐怖」もフロイトにお願いしたいところです。こちらの映画は美術をダリが担当していますので、興味深いところです。
それにしても美術館内は暑くて困りました。
美しいもの / 2006年11月14日

デジタルという技術が一般化して複製が容易になり、パソコンという道具の登場で様々な手段で表現をすることができるようになりました。表現の手段や方法が増えて容易になり、垣根が下がったのは喜ばしいこですし歓迎すべきことです。そもそもどんな人でも自分が考えていることや感じていることを何らかの形で主張することができるというのが、自由で発展的な社会だと思いますので、なるべくしてなった現在の状況と言えることでしょう。
その結果を見渡してみると、実は惨憺たるものがあります。例えばこの文章。いわゆるブログですが駄文です。そして文字間や行間、書体はこれを見るパソコンのOSに依存しますのでMacOS XのSafariで見たときとWindowsXPのInternetExplorerで見るときとで改行の位置も書体の大きさも行間も字間もかわります。パソコンとネットというメディアの形態を考えた場合、これは仕様ですのでこの問題をどうこう言うのは、例えばテレビ番組でもブラウン管の個体によって色が違うことを問題にすることと同様なので、不毛なことです。問題は、そういったメディアによる仕様をデザイナーが吸収し切れていないということにあります。例えば顕著なのは印刷物の文字間や行間。昔は写植屋さんが美しく並べてくれていましたが、今はデザイナーがそれを行います。行うといってもパソコン上での話なので、自身で字詰めや行詰めをして美しく整える必要があります。ところが、入力した文字をそのままで良しとして印刷していることが多いようで、Web上のテキストならいざ知らず印刷物までその感覚でデザインしてしまっているようです。デザインしている段階で「なんか気持ち悪いな」と気付くものだと思うものなのですが、気付いていないから字詰めがおかしい印刷物が多く出回っているようです。右揃えとか中揃え、左揃えもパソコンの数字上は真ん中などになっていても、見た感じが気持ち悪ければそちらの感覚の方が正しいのです。
ホームページ以外のメディアは基本的に見るのは人間で、人間の感覚の都合に合わせてデザインすべきであってそれこそがデザインと考えています。
ホームページはちょっと違います。一部分は人間のためですが、半分以上はパソコンとネットの都合に合わせて作らなければなりません。それが人間への負担となり、使いにくい分かりにくいといった感触に繋がっています。パソコンはパソコンでかなり人間に合わせて優秀になってきていますが、その分バグも多くなりパソコンそのものの動作が不安定になったり、有効な機能を追加したものの悪意ある第三者がその機能を悪用し様々な弊害が起こっています。その弊害をなくすためにまた機能が追加されてややこしいことになって、という悪循環が起こっています。
そうした悪循環はそのままデザインにも当てはまります。美しくないデザインが氾濫し美しくない言葉が増え美しくない文章がはびこっていて、それを見て育ちそれを見てものを作っていくのは、新たなる醜悪を生み出すだけでしかありません。
現在の評価基準は基本的に「売れるか売れないか」というのが重要です。資本主義ですので企業の論理で考えるのが一般的です。しかしそうして売れたものは息も短いですし評価基準が「みんな持ってるから」とか「売れてるらしいから」といった日本型のものが多く、その評価基準で物事を見ていると全てが霞の中に消えていきます。
高度成長期以前の本当に美しかったものを見て、自身の感覚を守り磨く必要があると感じるわけです。
本当に必要なのは、自分が美しいものを美しいと言える言葉を持って美しいものを美しいと感じることができる感覚を持つことです。感覚の基準がずれていては、その上に成り立っている全ての感覚が崩れていて評価に値しなくなります。
懐古主義ではないので、昔はよかったとは思いませんが、文化的な側面ではいい部分もありました。そういういい部分を多く取り入れ、現代ならではの感覚を付加して行くのが、大切なことではないかなと考えています。
そういう感覚を培う場所は、昔の様々な表現方法や手段を見て知って学んで、日本の気候ならではの山や川や海や空の模様や空気を感じることかなと漠然と思います。
結局、一番美しいのは自然です。
そこから何をどう受け取るのかは、自分自身だと思っています。
そういうわけで、空と山と都会と川と海が見えるアトリエが欲しいです。
パソコンの幻想 / 2006年11月13日

一昔前、コンピュータアートというのが流行りました。アルゴリズムに基づいて、モニタ上に描画していくというものが基本的な考え方で、そこに外部からの刺激によって変化を起こしたり、あるいは自己増殖型の遺伝的アルゴリズムを応用して、あたかも生き物が成長していくかのような映像を作ったり、多種多様なコンピュータアートというのが流行りました。
よくわからないものを、アートとかシュールとかいう言葉で片付けるのは簡単ですが、実際はそう単純なものではありません。私はそのコンピュータに魅せられその世界にはまっていきわかったことがあります。あるいはわかった気になっているだけなのかもしれませんが、一つの結論に達しました。
まず、アートには文化的裏付けという前提があります。一部の狂人達が作り出したアートが文化と言ってもいいかもしれません。それらの表現手段の道具となったのが言葉であり文章であり絵筆であり粘土であり音楽であり写真であり映画でした。そうして表現されたモノは人々の口にのぼり、メディアにのって広がり、最初は狂人で天才で神であったアーティストが一般大衆に受け入れられ、最終的に文化という空気になっていき、常識を壊した非常識が常識になっていったという過程があったと想像します。
これが今までの話です。前世紀の考え方と言ってもいいかもしれません。
さて、それからコンピュータアートはどうなったのかというと、当時はパソコンそのものが黎明期でした。ネットワークという考え方も今では当たり前ですが、当時は極めて貧弱なネットワークでありインフラとはいえず、従ってメディアにまで発展すると考えていた人は少なくありました。
現在で考えてみると、パソコンはあらゆるところで使われています。用途は多種多様ですが、グラフィック系で限定して言えば、ハイスペックなパソコンが安価に手に入ることで3Dが容易になり、アニメのコストが下がり制作期間も短くなりましたし、映像の編集作業や合成作業なども簡単に行えるようになりました。静止画に至っては考えつくありとあらゆることが可能と言ってもいいかもしれません。そして、それらの作業は手順さえ覚えれば誰でも可能になりました。すなわち、誰でも表現する手段を手に入れたということもできます。ということは、紙と鉛筆です。
コンピュータアートが一定の評価を得ることができたのは、当時の時代背景があります。物珍しさが先立ち、アートとしての評価ではなくその結果、現在に残るほどの評価はされずに終わったと感じています。コンピュータアートのキモはそのアルゴリズムにあります。回帰的かつ遺伝的アルゴリズムを応用することにより、ああいった表現ができるという可能性を見せてくれた一つの夢でした。
その夢が覚めたとき、はたと気がつくとパソコンが今までにない道具になっていました。インターネットの普及と通信速度の劇的な向上、そしてパソコンの普及とスペックの飛躍により道具としての地位を確固たるものにしたと言えます。道具としての黎明期を抜けたパソコンは、インターネットというインフラを支え、メディアとしての黎明期に突入しています。私自身はメディアに興味がないので、これ以上食指が動くことはありませんが、絵筆や鉛筆、紙や音楽などと同等に一つの完全な道具となり得たパソコンを表現に用いることには興味が尽きません。
道具の一つとしての地位を確立し、新しい道具を新しいと思わずに自由に使いこなし、空気になり文化を創ることができるのならば、百年後に道具の一つとしてパソコンが加えられているのではないかと考えます。
パソコンが難しくてわからない、という感覚をお持ちの方は、きっとまだパソコンの幻想に囚われてしまっているのだと思います。
パソコンが作ってくれるわけでもありませんし、パソコンがなければできないわけでもありません。
作るのも、観るのも、聴くのも、読むのも、全て人間です。
すっげぇ雷雨 / 2006年11月11日

夜も遅くから空が光ってるなぁと思いつつ、外に居たら激しい雷鳴と豪雨。午前2時頃だったかな。うひゃぁこんな時期でこんな時間になんちゅー雷雨だと思いつつ、午前5時頃に戻って雷レーダーで確認してみたところ、大阪全域から滋賀にかけて落雷の痕跡まみれで激しいことになっていたようです。
叩き付ける雨の音も、鳴り響く雷鳴も、思いも寄らない時間のものだと少し不思議な気分になります。雨のなかフラフラと歩き回りたくなってきてしまいます。叩き付ける雨の音は耳を麻痺させ思考を停止させていき、鳴り響く雷鳴はアクセントとなり稲光はフラッシュ効果的に脳髄に直接働きかけてきて、この世のものとは思えない景色を見せてくれます。
というわけで明け方に眠って昼前に起きて土曜だというのに仕事でかり出されていたわけですが、さぁプログラムができたと実際に実行して確認したらさっきまで動いていたところが動かなくなって逆にどうしてもおかしかったところが何故か治っていたりして慌てました。それもなんとか修正し、いざCDに焼くぞとCDを取りに行ったら二枚しかなくて、二枚あってよかったと思っていたら後ろから「三枚焼いてください」という声。なんと間の悪い。
他のところからもう一枚持ってきていざ焼きだしたら、今度はCDのドライブがおかしくなり、焼き上がっているのにトレーが開かず強制オープンして取り出しつつ時間がないときに限ってあっちこっちで手間を取らす憎き機械どもと格闘をしていたわけです。まるで謀ったかのような間の悪さが続くことはときどきあります。
信号のタイミングや電車の乗り換えのタイミング、電話のかかってくるタイミングなどにそういうことは結構多くあります。一日電話無くてのんびりしているなぁと思っていたら、会社の電話が鳴ってハイハイと出ていたらもう一つ会社の電話が鳴って別の人が出ているときに今度は携帯が鳴って出られないので保留しつつ最初の電話の対応をしていたらピンポーンと来客があってなどということは数えたらキリがありませんし、逆に外出しているときに限って自分宛の電話が極端に多かったりということもままあります。
こういうことがあまりにも続くと、悪意すら湧いてきますが、だからどうというようなものでもなく、ただひたすら疲れるだけのことです。
DIABLO / 2006年11月10日

悪魔のDIABLOではありません。ゲームのDIABLOです。以前、DIABLO2にはまっていました。今ではあたりまえになったMMORPGですが、それ以前のネットワークゲームとして知る人ぞ知るゲームになってしまいました。MMORPGというのは、いろんな人がネットワーク越しに参加するロールプレイングゲームで、ドラクエやFFのように一つのストーリーがあってそれを黙々とこなしていくというのとは趣旨が若干違います。FFXIのようにヴァナディールという世界がネット内にあって、その世界の住人としてゲームキャラを参加させるというのがMMORPGです。DIABLO2はそういう以前のものですので、まずログインしたらロビーという場所にはいり、そこで自分のゲームを作りそこで遊ぶ、あるいはそこに様々な人が来て遊ぶ、というものでした。
このゲームのおもしろさは、ストーリー性など一般的なゲームの要素とは異なります。まず、参加している人たちが多国籍。日本人の方が少なく、圧倒的に英語圏の人間が多く、中国人や韓国人、マレーシア人などもちらほらいました。そして、ゲームモードに「ハードコア」というのがあり、このモードでプレイすると死んだら二度と生き返りません。全てのデータがなくなるのです。たとえレベルが99あっても死んだらその時点でそのキャラクターは抹消され、持っていた道具や貯めたお金も全部なにもかもなくなるのです。過酷です。そして、絶妙なゲームバランスで(バグも多かったですが)たとえハイレベルであっても、少しの油断で即死してしまうことも結構あったのです。
ゲームとしての醍醐味は、強い武器や防具などをそろえることにもありますが、むしろキャラクターの育成と操作にありました。如何にバランス良く育て、そして死なずに如何に巧く操作できるかというのが難しかったのです。
様々な人種が一つのゲームに興じていて、ハードコアモードにはラダーモードというのがあり、自分のキャラクターのレベルがランクになり表示されるようになっていました。強者どもがそろっていても、レベル99を達成するのは非常に難しく、最後に見たときは最高でレベル86くらいでした。それでも次の日にみたら、その名前は薄いグレーになっていて死んでしまっていたことがわかります。
その後、私はDIABLO2も飽きFFXIでもやってみようかと購入し、ヴァナディールにログインしたわけですが、全然ちっともこれっぽっちも面白くないのです。死んだら生き返りますし、日本人ばかりですし、緊張感がありません。
DIABLO2は多国籍なので、みんな英語を使います。それも英語が母国語でない人達が拙い英語で会話をするわけですので、基本的に通じ合うのです。その感覚がとても面白いですし、キャラクターの行動によって人種がわかったりします。一人でどんどん進んで無茶するなーと思って話しかけたら、アメリカ人の12歳の男の子だったり、自分の目の前でキャラが死んでいたので一緒にキャラ作ろうよと誘ったら「あなたとても親切ですね」と言ってきたのはカナダ人32歳の男性でした。また、何人かでプレーしているときに仲間の一人が死んだとたんにそのキャラからお金を取っていったのは中国人でした。低レベルでとんでもないところにいて死にそうになっていたのは韓国人でした。
いろんな人種がいましたが、ゲームという枠組みのなかで共通の目的をもってプレイしているので一定の連帯感があり、それはとても興味深くゲームそのものより、次第にそっちにはまっていったのです。そのとき知り合った人たちとは、今でもメッセなどでやりとりすることはありますが、ゲームから離れたら自然と付き合いも疎遠になっていきました。
そういうDIABLO2ですが、強烈なのはPlayerKillといって一定の条件下においてキャラクターを殺すことができるのです。ハードコアでは殺されたらおしまいです。ゲームとはいえシビアです。
そのうちにチートと呼ばれるいわゆる違法行為が蔓延して、ゲームバランスが崩れ面白くなくなっていったのです。
FFXIやラグナログ、リネージュ、タントラと今やMMORPGは多種多様ですしあちこちが参入してきています。DIABLO2のよかったのは、ソフトさえ購入すればあとは無料でプレイできることでしたが、昨今のMMORPGは月額費用がかかります。企業の論理としては良く理解できますが、残念ながら個人としてはまったく理解不能です。そしていずれのゲームも馴れ合い色が濃く、ログインして1ヶ月はプレイしてみるのですが、うんざりします。ゲームの顔をした出会い系か!という次元ですので、プレイするに値しませんしそれに月額費用をかける気も起きないわけです。
そういうわけで、MMORPGで廃人になっている人たちに一定の理解は示しますが、プレイする動機の80%は惰性であると言い切ることができます。
MMORGPが原因で大学を辞めた人や会社を辞めた人、離婚した人など実際に見てきましたが、ろくなもんじゃありません。
確実に言えるのは、アジア系の人たちがつくるMMORPGは概ね面白くありませんので手を出さないことです。
雷がどうとか / 2006年11月9日

のんきに書いていましたが、北海道では激しい竜巻で多数の死傷者がでて痛ましい限りです。身内を失った家族の叫びが耳に残っています。天災でしかも竜巻とはやるせない限りです。奥尻でも竜巻が発生したとか、なんだか信じられませんが日本でもそんなに続けて竜巻が発生するようになったんですね。もはや人ごとでない気がしてなりません。
土砂災害や地震に対する気持ちの備えはあってもそもそも竜巻は念頭にありませんので、ピンとこないのが正直なところです。外国のニュースや映画などブラウン管越しでしか見たこと無いものですからなおさらです。また竜巻は被害が極端に局地的になりますので、寄りによってなんで身内を巻き込んで、という気持ちにもなって天災とわかっていながらもどうしようもなく途方もない気持ちになってしまうことが、想像できましたのでいたたまれなくなりました。
八百万の神々 / 2006年11月8日

日本にはいろーんな神様がいます。悪い神様も善い神様もいて、一神教のような神様=善という一元的なことはありません。そもそも自然信仰という山や木、大地に空、雨に雪に雷に太陽に月にと身の回りにある自然には神が宿っているというものが根本にありますので、結果的にそういう方向の信仰になったわけです。従って、恵みをもたらす自然であり、災害をもたらす自然でありそれに対抗する術を持たない人間は自然の一部として恵みには感謝し、災害は感謝が足りないがために起こる祟りと考えたのです。言霊信仰も同様です。自然信仰がある地域には同様に言霊信仰があったようです。喋る音一つ一つにはそれぞれ神が宿るというのが言霊で、一つ一つの音にはそれぞれ意味があり、それを組み合わせたものが言葉という考え方のようでした。
その自然信仰と言霊信仰と仏教とキリスト教が混じって今日の日本の宗教観になっていると考えています。
神域には見たことや聞いたことを言ってはならない御言わず様という場所もありますし、詔の奏上の際には誤読は禁忌です。神に対して言葉にする際にはその音一つ一つに細心の注意を払っていたようです。
こういった日本人の宗教観は宮崎アニメで良く出てきます。千と千尋の神隠しで湯屋にやってくる神々は多種多様で妖怪と呼ばれた神や中国の神や野菜、川などいろいろな神々が来ていますが全て並列で扱われていました。もののけ姫では良い神が祟り神にもなりますし神が特別な存在ではなく恵みも祟りももたらすということを描いていました。となりのトトロにおいては、自然に宿る神々をユニークな形で描き神の気紛れを見せています。
宮崎アニメを引き合いに出しましたが、要するに信仰に関してよく言えばおおらかでこだわりがなく、悪く言えば適当なわけです。クリスマスを祝って正月に鳥居をくぐるわけですから、海外からみたら変わった国なのでしょう。あまつさえ祟り神と恐れられた大物主と大国主と大黒天を一緒にしているわけです。
そういう民族的なおおらかさ、適当さは今回の一部で起こった核武装論にも言えます。片方では核廃絶の音頭を取ってアメリカの核の傘の下とはいえ、先陣切って核廃絶を訴えていながら原発は作りまくってついには隣国の脅威に対抗するために議論をするぐらいは必要じゃないかと言い出すしまつです。宗教観などは国民的なものなので一貫性がなくても問題はありませんし、文化と言ってしまえますが、国際社会において核廃絶を声高に言っていた国家として見ると、核武装論には言動の一貫性がありません。金だけ出していれば償ったことになるわけでもありませんし、行動で信頼が得られなければ常任理事国入りなどは無理です。国務を預かる人間からそういう発言が出てくること自体が由々しき問題だと思うのですが、マスコミはマスゴミでしかありませんので、それなりに糾弾はするものの騒ぎ立てるニュースがなければ困りますので、話になりません。まさかと思いますが北朝鮮のねらいが日本の核武装論にあって、これによって国際社会からの信頼失墜を狙っていたのだとしたら、舌を巻きます。
そういう世の中を目に見えない神々は鳥居の影からクスクス笑いながら見ていることでしょう。
楽しいことだけをやるということ / 2006年11月7日

楽しいだけのことではいけない、という人が居ます。「楽しいこと」というのは主観的なことなので言葉に食い違いがあります。楽しいことは馬鹿みたいに楽しいだけのことではなく、大変なこともあるから楽しいことが余計に楽しいという楽しいことです。楽しいということの評価は絶対的な基準だけではなく相対的な基準を持っているように思います。
基本的に世の中には楽しいことだけのことなんてありません。どんなことでも大変な苦労や苦痛、困難があります。物事の二面性として当然のことです。そんななかで楽しいことだけをやる、楽しいからやっていると言い切るのは、辛いことも楽しいこととして捉える考え方を養います。愚痴や苦労話などはいくらでも出てきますし、考え方一つ話し方一つで全て変わります。
苦労を大変なこと辛いことと思ってやっていたら、実は楽しいこともただの苦労であり辛いことになってしまいますし、そういうことを言い出すとキリがなくなっていきます。なぜなら生活するということが既に苦労であり生きているだけで死ぬというリスクを負っているわけです。従ってどんな人でも苦労や苦痛は持っています。そしてそれらは比べることはできません。苦労や苦痛はあくまで主観的な物差しでしか語られませんので、第三者には分かりません。
だから、楽しいことだけをやるのです。楽しいことはたとえそれが大変なことであったとしても、その大変さは第三者にはわからないわけです。大変でも考え方をちょっと変えて楽しい楽しいと言っていれば、他の人にも楽しく見えてきます。周りの人への精神的負担も減ります。楽しいことというのはそうごろごろ転がっているものでもありません。全て考え方一つです。
客観的に見ても悲惨なことや苦難などはまた別問題です。そんな中で楽しい楽しいといっていたら、それは精神状態を疑われますね。
ただ私は基本的に良くないことは口にしません。それを言うと言霊として生きてくる気がしておそろしくて口にできないのです。ただ、頭の中では最悪な事態というのを幾つも想定し、どんどんどんどん悪い方向に物事を考えていってしまいます。でも絶対にそれを口にしないで来ました。不安や最悪の事態を口にしたところで、それに対する打開策が無ければ言うだけ不安を煽り事態をもっと悪い方向に持って行ってしまいます。そうしているうちに、楽天家といわれるようになりましたが、これはとても幸せなことなのです。
物事を楽しくするのも辛くするのも良くするのも悪くするのも、全て解釈と考え方と行動です。それに関わっている人間次第なのです。
iPod shuffle / 2006年11月6日

新しいiPod shuffleが届きました。三日に。九月末に発表になってすぐに予約しておいたので、発売日にばっちり届いたわけです。60Gのビデオもいいなと思ったのですが、絶対に私は液晶を壊します。落とします。だからnanoであろうとビデオであろうと、持ってはいけないのです。モバイルストレージも必要ありませんので、結局今回出たshuffleは私のニーズに応えてくれているのです。細長いのも折ってしまうことがありますので、駄目なのです。
さて、iPod shuffleは何も考えることもなく使いだし、容量もまだ300M程度しか使っていないので、まさしくちょうど良かったというわけです。これならば落としてもそんなに簡単には壊れません。
ヘッドホンには贅沢にもshureのE2cです。インナーイヤータイプので低音もばっちり出るのはさすがのshureといったところです。インナーイヤーは不潔感があるのであんまり好みではないのですが、手元にあるいいヘッドホンがこれしかないのと、場所を取らないのとで結果的にE2cになったのですが満足です。
と、書いていたら季節はずれの雷が鳴り始めました。雷レーダーを確認してみると全国的に落雷が散発している模様で、大気がずいぶん不安定の様相です。ここ三日間の乾燥した空気に南からの湿った大気でこんな不安定になったのでしょう。ごろごろ鳴る度に近所の小学校からはキャーキャーと声が上がっていてなかなか微笑ましいです。ていうか、前線が通過中みたいですね。これから雨は強くなるようです。
うつしよと夢の区別 / 2006年11月3日

夢が荒唐無稽である程度の雰囲気があれば、ああ、あれは夢だったとか判断が付くのですが、たまに夢の中で約束をしていたり夢の中で電話で打ち合わせをしていたりします。目覚めたときになんとなく薄ぼんやり覚えているのですが、それから日が経って「あれあの約束は夢だったかな、ほんとだったかな」と考え込むことがままあります。
夢を見る理由というのはまだハッキリ分かっていませんが、昼間受け取った情報を脳が整理して取捨選択するときに夢を見ているというのが今の考えのようです。ただ、夢にもいろいろな種類があるのでその考え方だと説明が付かない物も多く、これといった答えは今のところ出ていません。
夢の特筆すべき部分は、自我の抑圧から解放された思考が出てくることです。これにより、実際の問題などを夢の中で解決あるいは解決するためのヒントを提示してくれていることもあります。夢の中において存在感を持っている他人の多くは自分の影で、その人なりものと対峙したときに持った感情というのは客観的に自分を見たときに受け取る感情に近い物があるといいます。だから、夢を見ながら分析していき、自身の内面について自分と対話する手段の一つと考えることもできます。明晰夢を見慣れるようなれば、夢に身を任せてそれを分析していくこともできます。目覚めてからメモに書き込んでいけば、また思い出します。
夢は面白いです。
面白いですが、約束事や話したこと、打ち合わせなど微妙に現実味があったりすると、記憶の中で曖昧になりがちです。私の頭の中にとっては、夢であろうと現実であろうと刺激は刺激で同一の次元で捉えています。脳とはそういうものです。
ただ、現実では「あー、これが夢だったらなぁ」と願うことはありますが、夢では「あー、これは夢なんだよなぁ」と落胆することの方が多いので、理性としてはきちんと認識していることがわかります。
一番つらいのは、夢の中で仕事をしていることです。
できたーと思って目覚めて何一つ進んでいない現実。
ちなみに、女性はカラーの夢を多く見て男性はモノクロの夢を多く見るという統計があります。
カラーテレビの普及など時代的なものもあると思いますが、私の夢はいつも総天然色です。
ジュリアナとアデージョ / 2006年11月2日

根拠はありませんが、ジュリアナ世代とアデージョとかアデオスとかセレブとか言っている世代がかぶってっているように思えてなりません。同じ匂いがします。マハラジャやジュリアナの頃に大学を卒業して社会人になった世代というイメージがあります。
いずれの共通点も、動物的な雄雌を前に出してきています。出し過ぎて下品になってきていますが、エスカレートするのはどんな物事にもつきものなので、まだまだエスカレートしそうです。たくさんのお金や物に囲まれるというのも、資本主義においては強さの象徴でもありますので、やはり同様の雰囲気が出てきてしまっています。世の中には雄と雌しかいないので、こういうのは当たり前のことなのでだからどうということではないのですが、個人的にはあまり好きではありません。
男らしい男や女らしい女は苦手です。
むしろ、男っぽい女性や女々しい男の方が興味そそられますし中性的な雰囲気の方が際だって見えてきます。
狂躁的かつ攻撃的な雰囲気のものは、理性的でなく下品な傾向が強いので、好きにはなれません。見苦しく、嫌悪感すら覚える場合もあります。男も女も艶っぽさというのは、見た目のことではなく自らの中から醸成される雰囲気そのものを指すと思っています。中身は一朝一夕には作れませんが、外見はすぐにでもできます。だから結果的に見た目は艶っぽい感じがするけどなんか下品だね、という人が増えたのかもしれません。
艶っぽさは年と共に纏っていく空気です。
一朝一夕では成り立ちませんし仮にそれでできたとしても、裸足でいるのに堂々としているように滑稽なものです。
そういう意味でも女は30から、男は40からだと思っているのですが最近のその世代がバブル世代にかぶっているので、大丈夫なのかなと思ってしまいます。
一番いいのは、性別に関わらず独特の雰囲気と品を醸し出せるようになることだと思っています。中性的であることを目指すと、畢竟そういう方向になっていくわけです。
そう信じて道を歩くのです。
左利き / 2006年11月1日

文字を書くときだけ左利きです。野球や食事は右手を使っています。でもスノーボードは左にしました。自分的にはどっちでもいいので、かっこよく見える方にしたわけです。なので、左で滑っています。もうしばらく滑っていないので、忘れていますが滑り出せば思い出します。
要するに適当なわけです。文字を書くときも、習字なら右手を使います。これは授業でそうしろと言われたのでそうなっただけで、左でも書けます。
右から左に横書きで文章を書く場合、右手だと手が汚れなくて良いのですが、縦書きの場合だと左から右に書きますので左手だと手が汚れません。
さらに、マウスを右手で持ちながら左手でメモを取ったりできます。臨機応変に使えると考えれば便利です。
文字を書くにしても、どうやら右でも左でも同じ程度に書けるようで、寝起きにメモをするときなど右で書いていたり左で書いていたりと滅茶苦茶です。書ける道具を持った方の手で書いてるという感じです。
で、最近は利き手で脳をトレーニングなんていうゲームもありますが脳自体のことが漠然としかわかっていないので、果たしてその効果のほどや如何にという感じではありますが、興味深くはあります。
やりませんが。