おしまい / 2006年12月31日

今年も今日でおしまいです。
今年は長い年でした。とっても長く感じた年でした。そう感じただけなんですけどね。毎年「今年は早かった」と言っていたような気がするので、長かったという感想を持つのは新鮮です。
世間にも自分にもいろいろありましたが、今年のスケジュール帳を出してきて記憶を掘り返してみると、何も出てきません。スケジュール帳は真っ黒、記憶は真っ白という有り様です。自ずと目標も見えてきますので、来年がどうなるか早速楽しみです。
今年は、今までを振り返って考える時間をもらえた年でした。
いずれにしても、幸も不幸もあり、楽しく悲しく充実した一年でした。来年も喜怒哀楽に富んだ充実した一年にします。
また来年。
赤玉 / 2006年12月30日

何かが写りこんで、赤い玉がでてます。
夜景はいろいろ見たくないものを隠してくれるので、好きです。
はっしまった / 2006年12月29日
総括して、はやくも更新忘れてやんの汗
気楽になりすぎ。
総括 / 2006年12月28日

今年の総括です。
一定のボリュームで文章を書けるようになろう、と11月中頃から「毎日更新」を目標にして続けていきましたが、金にもならない小難しい文章という結果になりました。また、こうして1ヶ月弱続けて行くとだんだんと更新しなければという思いの方が強くなり、文章そのものの質も下がっていっています。練習にはなりましたが、それ以上にはなりませんでしたし、続けることの難しさを痛感する結果に終わりました。
得るものもありましたが、現時点での限界というものも知りましたので、今後の課題を明確にすることができました。課題はいきなり解消できるものでもありませんので、それを解消するためにまた時間をかけて切磋琢磨して行く次第です。
また、テーマによるアクセス数の差というのも興味深いデータです。そういうデータなど踏まえて、ゆっくり時間をかけて検討して行動をしていくのが、来年の目標になりそうです。
文章の書き方としても、時間を見つけて少しずつ書いていたのですが、そういう書き方よりもテーマを一つ決めたらその時点で骨格だけでもざっくりと書いてから、それをベースに膨らますなり削るなりしていった方が、きちんとした文章に仕上がっています。
現実的な仕事と、趣味レベルの作業とのバランスをきちんと考えてやっていかねばならないな、というのが雑感です。
そういうわけで、来年からは極めて普通の日記的ブログになります。ボリュームは少なく、携帯電話から写真付きで投稿して、サクサクと更新する形になります。そもそもブログって日記とは違った種類の自己記録でもあります。そちらの方にウェイトを置いて、更新を続けていきます。
内容はどうあれ、続けることにきっと意味はあるはずです。
その意味の結果がどういったものなのかは、続けていってみないと見ることができません。それが良くも悪くも一つの結果を続けることで得られるのであれば、意味があったということを実感できますし、次の結果を求める動機になっていき、また何かを続けていくことになります。
残念だったのは、編纂済み記録の更新が滞ったことです。
こちらの方は、実際に足を運ばないと更新できません。
また徐々に更新を再開して行くことも、来年の目標になります。
このサイトをご覧になってくださって、本当にありがとうございました。今年は公私ともにいろいろあって、これまでにないほど長い長い1年でしたが、大きな病気や怪我、事故に遭うこともなく、無事に1年を過ごすことができました。来年も健やかに、静かに穏やかに、でも積極的に活動を続けていきます。
良いお年をお過ごしください。
批判と評価(2) / 2006年12月27日

(昨日からの続き)
さて、こうした姿勢を「甘やかしでは」と言われたことがありましたが、甘やかしているというのは主観的な言葉です。褒められた側が「甘やかされてる」と思った場合、それは自分で判断すれば良いことですし、そう感じることができるのならば、天狗のようになることもありません。天狗になる人というのは、根本的にそういったことに気付かない場合が多いですし、仮に天狗になってしまったとしても、あちこちにいる一言居士達が批判を繰り広げますので、ある程度のブレーキになってくれます。
もちろん、褒めて伸ばしてさらに磨くために助言をすることはあります。それでも、助言を求めてきた場合にしかしませんし、助言をするときは言葉を慎重に選んで的確に言えるように心がけています。
甘やかさないでと人に言うのは、逆に甘えているとも言えます。他人に評価を求めるというのは、そもそも自分に自信が無いことを示していますので、評価を求める人は客観的に評価を得て自信に繋げたいという気持ちがあります。それが例えどんな落書きであっても、まずきちんと評価して良い部分を褒めてそこを育てて行くというのは、その人自身の様々な可能性を発展的な方向に向けることになります。若い時であればなおさら褒めるというのは、とても重要です。従って、家庭環境に大きく依存しますし、学校の先生などもその点で大きく関わってきます。
人は、誰にでもどんな才能も可能性もあります。
それが成長過程において、自信喪失を繰り返していくことにより、自らの可能性を消去法的に消していってしまっているように思います。やりたいことは消去法で選ぶものではありません。自分の好きなことだけを選ぶのがまず主体にあり、それを続けてみて飽きたら他の好きなことをやって、というのが基本です。好きこそものの上手なれとは本当に良く言ったもので、好きなことを選び、続けて行くのが大切でそれを見て褒めて磨いてくれる絶対的味方の存在が、自信と確信をもたらしてくれると感じています。
批判されて育った人は、他者に対して批判から入ります。
褒められて育った人は、他者に対して評価から入ります。
どちらが良いか悪いかの短絡的な二元論ではありません。どちらでも好きな方でいいのです。批判されて辛かったら褒めてくれる人に褒めてもらえばいいですし、褒められて甘やかされているなと思えば、一言居士達の言葉に耳を傾ければ良いのです。
批判的な人でも、皮肉的な言葉が多い場合は、自分に自信がないという心理が見え隠れしていますので、他者を貶めることにより精神的均衡を保っているのだろうなとも想像できます。そこまで想像が行くと、今度は家庭環境などを妄想し始め、だんだんと可愛そうになってきて、じっくり聞こうかと思えてきて、許容に至るのです。
安易な批判を甘んじて受けて考え込む愚行より、褒めて広がる方が、のびやかな人生ではないかなと考えます。
(終)
批判と評価(1) / 2006年12月26日

もうずいぶん前のことですが、友だちと話をしていて「あなたは何でもまず肯定的に受け止めてくれるね」と言われました。そう言われたらそうなのかもしれないな、という程度にしか自分ではわかりませんが、いきなり「いやそれは違う」とかいきなり否定をすることが少なかったので、そう感じられたのかもしれません。
誰だって、話をしていていきなりその内容を否定されたら気持ちのいいものではありません。
物の見方のスタンスとして、否定的な部分というのは簡単に目に飛び込んできますので、批判することはとても簡単です。それは喋り方や容姿、立ち居振る舞い、作品その他なんでも、すでにあるものを否定していくというのは、非常に簡単で単純で想像力を必要としない、安易な作業です。それで何かにつけてわざわざ一言言う人のことを一言居士といいます。だいたいの人は一言居士なので、簡単に批判してそれでおしまいです。批判は何も生みませんが、批判された側は考えさせられます。そのようにして考える方向は生産的な方向ではなく、反省的で自分自身の行動に疑問を突きつけ非生産的になります。最悪の場合は、それにより自信を失い行動できなくなることです。
批判は、誰でも彼でもしてくれますので、私はなるべくしないようにしています。
逆にどんなものでも、一生懸命見て感じて良い部分を探してそこを評価していきます。どんなに醜くてもどんなに悪くても良い部分は必ずあります。そして、そこを評価して成長して欲しいと考えています。良い部分を褒めて褒めて伸ばして行くことで、褒められた側は自信を付けて行き、自分自身で自分の悪い部分に気付き自分自身で修正しようと努力を始めます。
人に批判されて修正するのは、言われたから修正するだけのことであり、本質的な修正には繋がりません。自分で気付いて修正しようと努力をしたときから、初めて本質的に修正されるのです。
どんな人でも悪い部分と良い部分を必ず持っています。
両方あるからこそ、人間です。
悪い部分を育てるか、良い部分を育てるかは周りの環境です。
(続)
もっともグロテスクなもの(2) / 2006年12月25日

(前回からの続き)
肉にせよ魚にせよ野菜にせよ、それが生きてきたと思えばこそ、残さず食べるもので感謝して食べて、自らの血となり肉となり生きるのです。切り身になった状態で海を泳いでいると思っていたりする人がいるのには心底驚きましたが、ちょっとした想像力さえあれば、食材が生き物から食材になるまでの過程を簡単に描くことができるはずです。
日本人は体質的に腸がそもそも草食的な造りになっており、肉食には向いていません。そして、高度成長期以降、日本人の平均血圧が上がり続けていっています。それほど極端に食の変化が起こったのですが、あまり知られていません。日本人は地形上、移動型民族ではなく、農耕型の暮らしが主でした。狩猟や漁ももちろんしていましたが、捕獲はそんなに簡単ではありません。従って、稲の伝来と共に定住型に移行していき、結果的に長い年月をかけて草食よりの腸ができていったと考えられています。対照的に大陸型は移動を頻繁に繰り返します。移動する際には一緒に移動できる食料が望ましく、それを養う為にまた移動を繰り返していきます。そうして腸の差違が生まれました。
さて、食の欧米化が進んで行った結果の現在があるわけですが、同時に経済も発達していき、狭い国土で効率よく生産していく必要が出てきました。人口の増加は労働力の増加です。即ちそれは国家の力に結びつきます。労働力と生産能力のバランスから、狭い国土で生産するよりも海外から輸入した食品で賄ったほうが効率がよくなりました。
視野を大きくみても蠕動する国家や人類はグロテスクの一言ですが、個人の視点でもそこは全く一緒です。人間関係においても様々な面で立場とそれによる利害関係が生まれ、言葉に裏が生まれます。その駆け引きたるやグロテスクです。そして自分たちでそれを自覚して尚、行っているわけですからグロテスクの極みとも言えます。平和や正義や自由や愛の名のもとに、様々な議論が行われ様々な結果を生み出していますが、議論している人々も裏で失笑しながら、あるいは自己満足に浸りながら、己の利害と権力と権利を守るために行動しているに過ぎません。
しかし、いずれも人類という種の多様性を守る上で、必要なものです。多様性を失った種は滅びていくだけですし、多様化が進み過ぎれば自然淘汰が起こり、バランスは保たれます。だからこそグロテスクであっても、大きく見ればそれらは全ていじましく、なんとも儚い一個の時間でしかありません。
宗教も愛も平和も神も正義も自由も全て言葉でしかありませんが、グロテスクで儚い人は言葉に頼りすぎるため、惑わされていきます。惑わされる人々は、さながら羊飼いを求める子羊です。身近なところだと、彼女とか彼氏とか妻とか夫とかそれにあたります。彼女と妻の違いは「法的な権利」ですが3年以上の同棲生活実績があれば「みなし妻」として妻と同等の権利が生まれます。その程度の違いでしかありません。要するに言葉に心の拠り所を求めすぎているとも言えます。
言葉はグロテスクなものを隠す手段でもあります。
そこに経済的あるいは恋愛的など人間同士の関係であれば、グロテスクなのは当たり前でそれを隠そうとするのが自然なことですが、その言葉に寄りかかってしまうのは子羊です。子羊は羊飼いを求めてさまよい続け、やがて狼に食べられて他の者たちのエネルギーとして利用されることでしょう。
グロテスクで動物的な自分を認め、嗜虐性残虐性を知って真逆の感情を知ることができるのが人間です。そして想像力をもってそうした感情を具体的に描いて理解しようと努力することができます。
だから、私は人間が好きです。
(終)
もっともグロテスクなもの(1) / 2006年12月22日

主観的な感覚のものですが、グロテスクな物は大好きです。
ただ無意味にグロテスクなのは悪趣味で下品極まりないですが、そこに目的を見出したグロテスクさは大好きです。
私にとって最もグロテスクな物は人間です。まずその造り。皮膚の下にはトウモロコシのような脂肪細胞があり、筋肉組織があり、神経や血管などが走っています。これらは電気で脳幹から制御されて動いています。それぞれ固有機能を持った臓器は、腹部に機能的に収容されていて、黙々と各々の作業を行います。容姿こそ違えど、見方によってはICチップ達と代わりありません。グロテスクですが、各々の臓器が持つ機能は凄いの一言に尽きます。特筆すべきは、各種インタフェースとそれから入ってくる情報を処理し、判断し動くまでの速度の速さです。会話など目と耳から同時に情報を得つつ、処理し分析し、飲み物に手を伸ばしながら返事をしたりするわけです。その間、人間の中で起こっている処理は考えて自動的にやっているわけです。肉体や脳とは凄い造りです。良くできているなんていう次元ではありません。
こうした肉体を維持する仕組みもグロテスクです。食事などその最たるもので、魚や野菜はまだしも動物を殺して食べて肉体を維持するわけです。実家の近所に養豚場があって、ここに居る豚はみんな食べられるんだな、と眺めたことがありますが、豚や牛、鶏など人間に食べられる為だけに生きて死に、私たちに生を与えてくれているのです。魚や野菜も同様です。実際に屠殺され引き上げられ、血を抜き内臓を取り出していく様は凄まじい光景ではありますが、生きていくためです。こういった犠牲により、生かされているわけです。パッケージされ店頭に並んだ状態では、それは食材ですが、生き物そのものの姿でやってきて、少しでも触れ合ったら殺して食べることは難しくなることでしょう。
ある作家の息子が金魚を飼っていたのですが、その金魚が死にました。
作家はその金魚をゴミ箱にポイと捨てたところ、息子は「残酷だ」と責めましたが作家は「死んでしまえば食べる魚と同じだ」と言ったそうです。
どちらの見解も正しいですし、どちらも正論です。残酷な行為と映ったのは、育てていた情があります。情が無ければ店頭に並んでいる魚と同様です。食べられる魚ではないのでゴミ箱に捨てたまでのこと、という理屈になるのでしょう。
(続)
音楽の聴き方(2) / 2006年12月21日

(一昨日からの続き)
人が簡単になじんで楽しんで盛り上がれる音の要素は、リズムです。
小気味いいリズムは、誰でも「お!」という気分になると思います。そのリズムさえ気持ちよく刻まれていれば、ビートが生まれ、それが全体のうねりを作ります。ビートは揺らいでいるもので、その揺らぎは自然の揺らぎと同様です。すなわち、心臓の鼓動であったり雨の落ちる音であり、電車の揺れであり地球の自転速度の揺れなのです。知らずうちにそういった揺らぎの中に身を浸らせることで、本質的な意味で音を楽しみ雰囲気を楽しみ、音楽を聴くことができるのです。
テクニックやリズムキープなどは、練習すれば誰でも巧くなりますし、どんな楽器でも練習すれば誰でもできます。しかしこの揺らぎのあるビート感というのは、自分自身がそれを意識して、意識しながらも呼吸のごとく当たり前に刻むことができないとなかなか生まれてきません。
演者の呼吸を意識しながら聞くと、演者のビートに乗れて、さらに音楽を楽しく聴くことができるようになります。そしてそれが心地よく、一体感を生み出し聴くから感じるに移るのだと思います。
そのようにして音楽を聴ける場が少なくなってきているのは、なかなか悲しいことですし、よく知りもしないインディーズの音楽を聴きに行くのは、思いのほか労力がいるものですし、好みがありますのでどうしても当たりはずれが出てきます。それでもなるべく足を運んで、カラオケやコンサートや発表会とは次元が違うライブというのを知ってください。
気骨溢れるアーティストはまだいっぱいいます。
(終)
音楽の聴き方(1) / 2006年12月19日

音楽は楽しいです。立場的に、演奏する側になったりお客になって聞く側になったり、あるいは音楽を商品として考えて売り方を考えたりしています。音楽の売り方というものは、音楽そのものに直接接しませんので次元が違うため並列には取り扱えませんので、ここでは無視します。
音楽演奏は基本的に演者と聴者の二つの立場になります。同じ音楽でもそれだけで、二つの側面を持ちます。演者には演者の意図があり、それを伝えようと考えながら演奏しています。聴者は、そうして流れてくる音楽を各々の立場で個々に感じて聴きます。知らないインディーズ対聴者となると、聴者側に不安と疑心がありますので真っ直ぐ聴いてもらうことが難しく、注目して聴者に聴く体勢を取ってもらえるように努力する必要が出てきます。これで失敗すると、聴者の心をつかめず離れていくだけです。聴者も緊張しているわけです。
有名なアーティストがコンサートなどを行う場合は、聴者側はすでに聴くぞ観るぞという体勢で期待を持って臨んでいますので、上記のような必要がありません。
さて、そうして聴者を意識するのも大切なのですが、そういうことになれてきたら「客は客で楽しくやっててくれ、おれはおれでこっちで楽しく歌っておくから」というスタンスに向かっていきます。聴く人は聴くし聴かない人は聴かないもので、「聴いてください」といい聴いてもらうものでもありませんから、こういう姿勢で臨むと、聴者の緊張もなく、結果的に演者も気楽に演奏できます。もちろん好みもありますが、音楽は音を楽しんでできるものでなくてはいけませんし、どうせ楽しむなら「おれだけじゃなくてみんなで楽しもう」という気持ちがあるのです。
演者と聴者の間に緊張や気合という壁があると、会場全体の一体感は生まれませんが、ひとたびその壁が取り払われたとき、雰囲気と気分の高揚は「一体感」であり「絶頂」ですらあります。大きい音や巧い音、いいメロディいい歌詞というのも要素としては大切ですが、根本的に必要なのは楽しむことです。これがライブ感です。
(続)
夢日記を続ける(2) / 2006年12月18日

(前回からの続き)
パソコンで言えば、デフラグです。データを整理し直して効率よく取り出せるようにハードディスク内のデータを揃えていき、連続した空き空間を確保して、後から効率よくデータを取り出すための処理です。
だとすると、夢を見ている自分の意識はどうなっているのでしょう。夢を見ている時もだいたい自分の視点で見ています。意識は脳と別にあって、脳が自動デフラグをしている様子を客観的に見ている意識が自分でその意識が感じていることが夢なのでしょうか。それなら夢の内容やそれを見る理由も、ある程度納得できます。
先般公開された筒井康隆原作のSFアニメ映画「パプリカ」は、この夢を見ている状態の意識を観察し干渉する機械が出てきます。そこがSFたる所以ですが、アニメはまだ見てないので知りませんが、原作はかなり面白く読めますのでおすすめです。
さて、夢といえば夢分析です。一般的な夢分析は統計によるものなので平均的な内容になりあまり具体的な示唆はでてきません。それらの統計を元にして主観を交えて分析するのが夢分析です。従って、第三者による夢分析は一定の示唆をもたらしますが、そこに自らの経験と照らし合わせて考える必要があります。ユングにしろフロイトにしろ、その解釈は古典として有意ですが、それ以上ではありません。夢分析は分析すべき夢と看過すべき夢があります。一般的な夢は看過して問題ありませんが、極端な感情を伴う夢は一考の余地があります。極端な恐怖や悲しみなどは、特に何らかの意味を持っている可能性があります。それも繰り返し見る場合は、自分自身の無意識が意識に訴えかけてきているのかもしれません。
覚醒時には自我により抑制されている超自我が声をかけてきているのかもしれません。
十年後、この夢日記を読み返して何か見つけられればそれは良しですし、そうでなくてもきっと読み物としても面白く読めることでしょう。ただの日記でさえ、十年前の日記は他人の日記の気分です。それが夢となれば尚のこと面白いかも知れませんし、読み返している自分と日記の中との自分を比べて変化を楽しむことができます。
そういうことを妄想しながら、楽しくできるので私ですら夢日記が続いているわけです。
(終)
夢日記を続ける(1) / 2006年12月15日

まだまだきちんと続いています、夢日記。
いつの頃からか書かなくなって、今となっては後悔しているわけですが、書かなくなったのではなく、書いても面白くないと思って書かなくなっていた、と言うのが正しいかも知れません。連日連夜夢は見ていますが、起きた直後に持つ夢の感想はだいたい「どうでもいい」というものです。実際そのときはどうでもいいと思っていて、メモするまでもないと感じています。それでもとにかくメモをするように習慣づけました。そうしたところ、後々になって読み返してその夢の興味深さに気付き、メモしておいてよかった、と痛感することが非常に多くて、それが夢日記を続ける強い動機になっているのです。
起床直後の自分の脳に騙されて、夢日記を書かなくなっていたと言うわけです。
夢や夢分析についての考察は何度か書いていますが、夢についてさらに掘り下げてみます。
まず、睡眠そのものですが、これは心身の休息です。
睡眠中は下垂体前葉から成長ホルモンが間欠的に分泌され、成長や傷の治癒、新陳代謝、ストレス物質の除去などを行います。食事を取らずに餓死するまでの日数よりも、睡眠をせず死亡するまでの日数の方が短いそうです。それほど、睡眠とは肉体にとって必要不可欠なものなのです。そして睡眠中には高次脳機能にもなんらかの作用を及ぼしているようですが、具体的にはまだはっきり分かっていません。その作用の一つが夢という現象として現れているわけです。
睡眠時間は肉体の大きさに依存します。肉体が小さな生物ほど、長時間の睡眠が必要で大きな生物ほど短時間の睡眠になるそうです。大型動物ほど代謝率が低い結果、こうなるのではと考えられています。
また、睡眠中の脳波はレム睡眠とノンレム睡眠に分けられていますが、いずれの場合も夢を見ることが最近になってわかってきましたので、以前言われていたようにレム睡眠時にのみ夢を見るというのは誤った考えだったようです。最終的に、夢を見る理由は現在のところ不明、というところに落ち着きます。
しかし、情報の取捨選択現象というのは有力です。
(続)
七人のオタク(2) / 2006年12月14日

(昨日からの続き)
萌えは感嘆詞ではありません。
形容詞です。萌え的要素があればある程度売れるだろう、という元に作られていく萌えのクオリティは極端に落ちていっています。萌えはそれだけでは完結できませんし、またアンダーグラウンドから抜け出した萌えはその時点で萌え要素がなくなっているのです。メイドも同様です。メイドのコスプレしたらメイドという安易なメイドはメイドではありませんし、ゴシックロリータのなんたるかを知らずして、ゴスロリに傾倒するのはただのファッションで中身が伴わなければ形骸だけでしかなく、吹けば飛ぶものです。
しかし、商品として考えた場合、こんなに売りやすいものはありません。
普通の喫茶店でも、店員にメイド服を着させてメイド喫茶にすれば、時間単位で「サービス料」の名目を付け加えられますし、写真撮影費も徴収できます。バイトの女の子の時給を上げずとも、メイドの格好がしたいという動機だけで、バイトしてくれます。
さて、私についてですが、私はオタクです。それも本気オタクですので、ちょっと半端ではありません。漫画オタクですし、パソコンオタクですし、Macオタクですし、アニメオタクで、フィギュアオタクです。フィギュアといっても、パトレイバーやエヴァンゲリオン、ガンダムなどメカ系で、美少女系ではありませんのでその辺りは誤解なきようお願いします。あれはまた別物です。一部で萌えと性的興奮を同一視する傾向にあるのは腹立たしい限りですが、素人から見て区別が付かないのは、仕方のないことだと思います。Macオタクとパソコンオタクの差違が分からないのと同様です。
1992年にウッチャンナンチャン主演で七人のオタクという映画がありました。ミリタリーオタク、ヒーローオタク、Macオタク、レジャーオタク、フィギュアオタク、アイドル・車オタク、無線オタクの七人のオタク達が「ある作戦」を実行する、という映画でした。オタクの幅が広く、時代を感じさせてくれます。今では電車男の一般化によりオタク=優しいなどという馬鹿げたイメージも生まれてしまっているようですが、そんなことは全く一切ありません。元々秋葉原に通っていた私として、オタクや萌えを商業的に利用されるのは質が落ちるて文化衰退に繋がりかねない懸念があります。陽のあたる場所に出てきたサブカルチャーは一般化し、サブカルであったからこそできたことがどんどんできなくなっていくのです。
従って、本当のオタクはやはり未だにアンダーグラウンドにあって、私のようにひっそりと息を潜め自身のオタク性を粛々と磨き続け、満足に浸るのです。
ちなみに、宅八郎という人も居ましたが、この人はオタク評論家として売り出していたため、ああいった独特のキャラ作りをしていただけで、特に取り上げる程のオタク性はもっていません。
80年代以降の特定マニアやコレクターをオタクと呼ぶのがしっくりくるかもしれません。
(終)
七人のオタク(1) / 2006年12月13日

OTAKUは英語としても通じるほど市民権を得た昨今ですが、そもそもは侮蔑と皮肉を込めてオタクという言葉が用いられていました。
そもそも、オタクの定義は広義に渡り一概には言えませんが、主にサブカルチャーに病的な程、没頭している人を指していると思えます。具体的にはアニメ、漫画、アイドル、各種フィギュア、ゲーム、パソコンに没頭し独身男性といえばなるほどと思えるかもしれません。「おたく」という言葉自体は、オタクたちが呼び合うときに「お宅はどう思う?」と二人称にお宅を用いる人が多かったからと言う話もあります。
オタクという言葉に侮蔑と皮肉が込められており、それを偏見であり差別的用語であると批判する向きもありますが、それは見当違いです。オタクという語から「女性にもてない男性」という偏見を感じ、差別用語と批判する人たちはそういう経験をしたから言っているだけであって、オタクがもてないわけではありません。それでも、オタクという語がNHKの放送問題用語に指定されているのは、日本語の豊かな表現の範囲を狭める意味で自らの首を絞めているように見えます。そうして無くなっていった語もたくさんあります。
さて、オタクの歴史を振り返ってみるとアニメブームが根幹に見えてきます。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「ルパン三世」「機動戦士ガンダム」。1970年代後半からバブル期に至るまで、アニメ産業を大きく成長させたアニメ達です。そしてバブル期に至り所得の増大と家電の充実で、それらのアニメを収集して見続ける人たちを「オタク」と呼ぶようになりました。
その頃、東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起きました。
ご記憶のことと思いますが、宮崎務事件です。既に死刑が確定し、執行を待つばかりになっています。この人の部屋からは六千本近いホラー映画のビデオがでてきて、同様の趣味を持つ「オタク」に対して強い偏見が生まれました。報道の仕方が宮崎務の性格と異常性を強調していたため、同傾向を持った独身男性に対して社会的にもあからさまな嫌悪感を抱かせたほどでした。これが尾を引いて、幼女を対象に据えて性的興奮を煽る内容があるアニメ、フィギュアなどを扱った業界にバッシングが始まりました。ひどいのは、それが発展していきTBSのワイドショーでリポーターの東海林のり子が、コミケに来た人々を「未来の宮崎務」という表現までしていました。行き過ぎです。
事実として、宮崎務の六千本のビデオコレクションのうち、幼女関連は44本しかなく、他はドカベンなどきわめて普通のアニメの録画テープだったということです。また、部屋の中を撮影する際も、あまりにも一般的な部屋であったためにわざわざ猥褻雑誌を一番上にして撮影したりなど、意図的な演出があったのは関係者が認めている事実ですし、テレビとはそういうものというフィルタを通して見るべきものです。しかし、社会は素直にテレビの言うことを信じ込み、オタクに対するイメージは著しく悪化しました。昨今はようやく回復しつつありますが、依然として偏見の根は深くあります。これはサブカルチャーの宿命でもありますが、アンダーグラウンド的な部分がなくなると商業的になっていきます。商業的になるということは、作品という視点で見ると、制作側には偏執的な要素よりも効率的な要素が求められますので、明らかに質は落ちていきます。
昨今の「萌え」ブームやメイドブームはその最たるものです。
(続)
ジャンル別けすることの意味(2) / 2006年12月12日

(昨日からの続き)
生物分類は学問上の利便性を考慮したものですが、商品などのカテゴライズは安心感を与えるためのものではないかなと推測します。消費者の中で新製品が落ち着ける場所を、売る側から教えてあげることで、安心感を持って買うことができますので、あれとこれどちらを買おうかと迷った場合、安心感のある商品に手が伸びる心理です。
ということは、カテゴライズしにくい商品というのは売りにくいと言えます。売りにくいのは製造会社としてではなく、小売店として売りにくいのです。新機能がない場合も同様に、小売店にとってみれは売りにくくて扱いに困ります。そして製造会社などは製品の良さを十分に知り尽くしていますので、逆に知りすぎてしまっていて、客観的に見てどこに自社製品の強みや売りどころがあるのか見えなくなります。そこで、広告代理店の登場です。客観的に見てその商品の売りどころを検討し企画し提案してメディアに載せるなり、小売店が売りやすいようなツールを作るなりといった作業を行うわけです。その過程において、商品そのものと、その商品がターゲットになりうる購買層に分けてカテゴライズして絞り込んでいきます。そうして世の中にカテゴライズされた様々な商品が出回るというわけです。
こういったカテゴリ分け、カテゴライズ、分類は客観的にされるもので、自らがそのカテゴリーを名乗り行うものではありません。結果的に「このように分類分けされました」というものだと思います。
最初にカテゴライズしておいたほうが良いケースもあります。
「それって何?」という興味をそそります。
その結果は感心されるか呆れられるかのいずれかで、それが確実に購買に繋がるかはわかりませんが。
(終)
ジャンル別けすることの意味(1) / 2006年12月11日

「あの人って誰某に似てない?」とか「この音楽って某音楽に似てるね」と言ったことや言われたことというのは、何かしらあるかと思います。これは「似ている」という要素を見つけ出して自分自身のこれまでの経験と照らし合わせ、分類した脳の作業結果といえます。それで、分類パターンの中に納まる相手であれば、その似ている第三者の言動をもとに目の前の相手対する気持ちや、振舞い方というのを自然と決定し、実行しています。
基本的に、人間の体は動物ですので動物と同様の反射を示します。そして、初めて遭遇する相手や初めて遭遇する状況に応じて適切に行動できなくなるのは当たり前のことです。これまで蓄積されてきている情報を元に相手や状況を分類し、判断し行動を決定していきます。いわゆる学習能力です。従って、目の前の相手が自分の肉親やテレビでよく見る人に似ていたりすると、自分の脳内では「親近感」を覚え、素早く打ち解けていきます。
男女間ではこういったケースはたまに聞きます。誰某に似ていてカッコいいから付き合ってみたら、見た目だけだったなど。当たり前だっつーの。
さて、この脳内の分類作業ですが、仕分け作業でもいいですし、カテゴライズでもいいですし、ジャンル分けでもいいのですが、つまりそこに自分が既に知っている要素を見出すことで、安心することができるのです。そもそもは危険回避のための脊髄反射でもあります。
現在において、このカテゴライズは大きな意味を持っています。
情報が氾濫している昨今ですので、一通りのことは経験したり聞きかじったり知識として持っていて世間的に一定のカテゴリ定義が成り立っています。
音楽など、その典型といえます。
試しにiTunesMusicStoreから列挙してみると、J-POP、オルタナティブ、ブルース、クラシック、ダンス、エレクトロニック、ヒップホップ・ラップ、ホリデーミュージック、ジャズ、歌謡曲、ポップ、R&B・ソウル、レゲエ、ロック、サウンドトラック、ヴォーカル、ワールド、だそうです。いっぱいありますが、よくわかりません。そしてそれぞれのカテゴリもさらに細分化しています。生物の分類みたいなもんですね。〜界〜門〜網〜目〜亜門〜下目〜科〜属〜種、という具合です。
(続)
アーク伝説とその行方 / 2006年12月8日

ご存知の方は多いと思いますが、アークと言えばあのアークです。
聖櫃です。
モーゼの十戒を納めた箱です。映画インディジョーンズでも題材にされていました。失われたアーク。アークと言っても、ユダヤ教になるとちょっとニュアンスが変わったりするそうですが、ここで言うアークはいわゆる旧約聖書に出てくる契約の箱のことを指しています。モーゼの指示で十戒を収めるために作られた箱は、普通の箱とは違い装飾が施され地面に直接触れないように足がつけられ、すべてを純金で覆い十戒と共にマナの壷やアロンの杖を収めていた言われています。長さ130cm高さ80cmの箱には二本の棒が渡され、それを司祭らが担いで移動させていたようですが、聖書の中からやがてその記述がなくなり、聖櫃そのものがどうなったのかはまったくわからずに、アーク伝説として現在まで残っています。ソロモン王の時代までは出てきますので、紀元前950年前後と推測できます。
モーゼの十戒ですが、名前だけでなく内容についてもよく知られています。宗派によって微妙にニュアンスが違いますが、基本的には唯一神の信仰、殺人や姦淫、窃盗、偽証等犯罪の禁止や安息日を守れといった内容になっています。十ある戒めのうち、四つが神と人との約束で、五から十までが人と人の約束で、刑法の根幹になっています。いわゆる戒律です。
十戒とアークが途中でどこへ行ってしまったのかわかっていないものですから、様々な伝説を生みました。聖櫃はすでに破壊されているとか、まだエルサレムにあるとか、かのテンプル騎士団が発見しているとか。
仮にエルサレムにあったとしても、宗教的政治的に発掘許可が降りることはないようです。そもそもはユダヤ教が元になりキリスト教、イスラム教と生まれたものなので、エルサレムは中東界隈で生まれた宗教の聖地です。ややこしいことになります。
ユダヤ教は紀元前1300年頃、当時エジプト新王国の奴隷だった古代イスラエルの人々と共にエジプトを逃げ出した頃から始まります。集団で脱出し、シナイ山で唯一神ヤハウェ[YHWH](エホバ)と契約を結んだことから始まります。これが十戒です。それからイスラエル民族として、王は唯一神のエホバのみであり、人間の王はおらず、平等な社会を形成したといわれています。しかし、新バビロン帝国に滅ぼされます。旧約聖書の天地創造物語はこのころに記述されたと考えられています。
その後、ナザレでイエスが産まれ、ユダヤ教の改革運動を行ってい、その運動がイエスの使徒パウロによりキリスト教として発展していって今日のキリスト教の元になったということです。パウロ自身は最後の晩餐に連なった十二使徒には入っていませんが、新約聖書を記述したのはこの人です。
ざっと見てみると、一つの宗教観が解釈の違いでいろいろな宗教に分かれていって、現在のようになっているのがわかります。唯一神の宗教観が希薄な私が分類して考えるとなると、ユダヤ教(キリスト教、イスラム教)、仏教、儒教といささか乱暴な分類になってしまいます。インド界隈を中心としたバラモン教やヒンドゥー教は宗教というより、信仰いった方がしっくりくる内容なので、一般的な宗教と並列に扱うことはできません。できませんが、興味深い読み物も多いので、食指が刺激されてなりません。
仏教は仏陀が開祖です。仏教はそもそも唯一神がいるわけではなく、如来や菩薩などは宗教的シンボルの礼拝対象です。仏教の教えは、救いは神のような超越的存在によるものではなく、個々人の実践によるもので、仏陀の実体験に基づいたものとされています。そしてそれがインドから広がって行き、シルクロードを経由して日本に入ってきたのは、飛鳥時代です。
蘇我馬子と物部守屋の対立は、ご承知のとおりです。そして、蘇我馬子と聖徳太子は血縁関係にありましたので、物部氏没落後に聖徳太子は摂津国難波に四天王寺を建立し、推古天皇の時代に入ってから仏教興隆の詔を発し、日本に仏教が根付いていき、現代にまで至っています。
さて、聖徳太子は厩戸皇子とも呼ばれています。厩とは、馬小屋のことなのですが、キリストも馬小屋で生まれています。このことから聖徳太子とキリストは同一だという話もあります。言いすぎで面白い話です。史実としては厩戸という地名があってそこで産まれたから、というのが有力な説とされています。聖徳太子の名は、後世に付けられた尊称です。
また、同様にアーク伝説も日本に結び付けている考え方もあります。話として興味をそそられますが、そういう想像ができるのが古代歴史の面白さでもあります。飛躍した方が聞き甲斐もあるってもんです。
具体的には、アークの形が日本の神輿に酷似していることと、伊勢神宮において神宮式年遷宮という神事を根拠にして、アークは日本にあるというのです。神宮式年遷宮というのは、二十年に一度、伊勢神宮の神殿全てを新造し、御神体をそちらに移動する神事です。記録では690年から始められ、1300年に渡って現代も続いています。そのために神宮内では檜を育て、毎回の遷宮に備えており、国としても非常に重要なお祭りの一つになっています。実際は戦国時代に中断していたりとまちまちだったようですが、一所に置いておくことができない御神体故にそうしなければならない、ということらしいです。青森にはキリストの墓もありますし、古代ヘブライ語で歌われている民謡も残っていますので、興味をそそられます。
私は無神論者ではありませんが、無宗教者です。多くの日本人は恐らくそうであろうと想像しますが、クリスマスは盛り上がりお正月に鳥居をくぐり、お盆にはご先祖様を迎え、お墓参りもします。ごく当たり前のように思えますが、唯一神を信仰している国々から見ると、これが奇異に映るようです。結局、宗教というのは哲学の解釈の違いなわけで、モーゼがエホバと十戒の契約を交わしたからそれを犯さないのではなく、仏陀の言う個々人の実践というのが実に人間的で柔らかい感触を持ちます。そしてそれは「お天道様が見ている」という言葉に繋がります。お天道様というと、天照大神を連想されるかもしれませんが、そうではなくてこのお天道様は自分自身の良心と両親です。自分と御先祖を辱めることをしてはならない、という自分自身の戒律ではないかな、と想像します。そういう意味合いでは、儒教も同様のことを説いています。
アークが本当に現存していようが、伊勢神宮にあろうが、すでに破壊されていようが、そういう事実が全くなかろうが、そういうことは重要なことではなく、昔々の哲学を様々に解釈してに振り回されて殺し合いをしている現在の状況を、宗教者は考えるべきではないでしょうか。
哲学は個人を離れると信仰になり、信仰は宗教を生み教義を作り組織になります。組織になると力を持ち権威となります。権威という影響力を持つと、政治が顔を出し、解釈をいいように捻じ曲げ、体制を作ります。
そうやって考えていくと、宗教も会社も実は一緒に見えてきます。
信仰対象が、さしずめ神か金かの違いかなと感じます。
神は人を救いも殺しもしませんが、金は人を救いも殺しもします。
匂いと記憶と脊髄反射 / 2006年12月7日

香りによる記憶の関連付けというのは強烈なようで、ふとしたときに漂ってくる匂いで小さかったころを思い出したりすることが時々あります。そのときに印象深いことがあったわけでもなく、日常の中の香りでしかないのですが、その日常の中の香りから小さかったころの日常を思い出し、回顧に耽ったりします。
身の回りで多いのは、四季による空気の香りの違いです。これは毎年あるものなので日常ではなく、季節感になりますが、春夏秋冬いずれの季節も独特の香りを持っています。私がとりわけ好きな香りは秋から冬にかけての香りです。乾燥していく空気と、紅葉し枯れていく木々から発せられる香りなのかと思っていたのですが、都会にいても同じ香りがしてくることを考えると、日本の気候そのものに関係している香りなのかもしれません。あるいは、自身の脳が勝手に「秋だから」そういう香りがしている、と作り出している香りかもしれません。
ヒトは350種類の匂いをかぎ分けることができるそうです。そんなにあってもわかりませんが、結局は鼻を通じて感知してそれを脳で判断するものですので、記憶されて行くのは他の感覚と同様です。
成長して大きくなるに従って、様々な匂いと接していくわけなので、結果的に幼少期の香りが印象深く残って匂いによる懐かしい記憶が喚起されるのではないかなと想像します。乾き立ての洗濯物の香りや、赤ん坊の匂い、線香の煙、様々です。やがて、日常生活圏になかった異質の匂いが入ってきます。あぶら粘土の臭いやシンナー臭、排気ガス臭、緑色のスライム集など、化学物質の臭いです。
そして社会に出るころには、排気ガス臭には慣れて悪臭と感じることが少なくなり、タバコを吸わない家庭で育ったのであれば、タバコ臭が気になったり、酒を呑まない家庭で育てば、アルコール臭が気になるのです。動物も同様で、猫のトイレや犬のトイレの臭いも気になるならないというのは、そういった環境に依存しているように思います。
たとえば、私は小さい頃からプラモデルが好きでタミヤのプラカラーをシンナーで溶いて使っていました。なのでシンナー臭には郷愁すら感じてしまいますが、一般的には悪臭であるはずです。巻きタバコの香りも同様で、家にあった巻きタバコの葉の香りが忘れられず、数十年ぶりにその香りに出会ったときには、懐かしかったものです。ところが、嫌いな人には悪臭でしかありません。
男女間においても、香りの方が印象として強く残るように思います。ふとすれ違った女性から仄かに漂う香水の香りで、昔の記憶を掘り起こされたり、自分のシャンプーの香りでそういえばと思い出したりすることがあります。相手の顔や感触などはまったく喚起されませんが、そのときの気持ちや雰囲気などが湧き上がってくるのです。きつい香水そのままの香りを漂わせている人は迷惑ですが。
さて、そういう外部からの刺激によって起こる反応を脊髄反射と呼んでいます。特に考えもなく、短絡的に匂いを感じて記憶がよみがえるわけです。
そういった脊髄反射で呼び起こされる遠い記憶は、淡くて美しくてとても希薄ですが、心地よくあります。でも、その香りを表す言葉を、私は持ちません。自分以外に伝えることができません。
それがまた良いので、そういう瞬間を常に待ち望んでいます。
現実としては、不快な臭いの方が多いので困ったものですが。
携帯電話を持つ動機 / 2006年12月6日

私が個人でデザイン事務所を初めた当初、仕事の必須品として手帳、名刺、携帯電話がありました。学校を卒業したらすぐにPHSを持ち、やがて携帯電話に代わり、現在に至っています。そうして顧みてみると社会に出てから携帯電話を持っていなかった時期というのが、ありません。今の若い人にとって携帯電話は持つものというより、あってあたりまえという感覚だと思いますが、私も気がつけばそうなっていました。
今、事情があって携帯電話を持っていません。
契約自体は続いていますので、解約に行くなり機種変更するなりすればすぐに復活できるのですが、せっかくなのでギリギリまで携帯電話がない生活を楽しんでみようかと思ったのです。
時計がないのには困りましたが、ゼンマイ式の懐中時計をひっぱりだしてきて使うことで解決しました。腕時計は一つだけあったのですが、電池が切れていました。ゼンマイ式は素晴らしいです。数年おきっぱなしにしていても、ゼンマイを巻いたら放置されていた時間を無視して軽やかに動き出してくれます。
普通は腕時計をするものだと思いますが、仕事柄キーボードを一心不乱に打つことが多かったので、腕時計はかなり邪魔になる上に、腕が痛くなります。それで付ける習慣が身に付かなかったようです。外に居ても携帯電話があれば時計は不要です。
携帯電話を持たずに生活しだして一週間ほど経ちましたが、不便はありません。連絡付かなくて困らせてしまっているかもしれないな、と思うことはありますが自分で特に必要性は感じていません。迷惑被らせてしまってる人たちごめんね。パソコンに連絡ください。
さて、否応もなく無携帯携帯電話の日々を送っているのですが、外に出ると携帯電話があふれかえっていることに気付かされます。普段から、気付いていましたが、改めて携帯を眺める人たちの姿が目に付くようになりました。携帯電話は耳に付けて通話をするものだったのが、いつの間にか携帯電話の目的はメールが主体になっていきました。大きな声で通話しているのは、おじさんくらいじゃないでしょうか。
人の振り見てなんとやらと言います。この無携帯の日々をいい機会と捉えて、そのまま携帯離れをしようと目論んでいます。緊急連絡時などには便利なので、いずれ持ちますが移動中などの利用は控えようと思います。人に迷惑をかけるものではないですが、歩きながらや電車の中、信号待ちの車内などでの携帯電話利用がなんだか見苦しく思えてしまい、美しくない絵面だなと感じてしまいました。
次に携帯電話を持つときは、歩きタバコ的な発想を気持ちの上で持って携帯したいと考えています。
暇つぶしが必要ならば、文庫本を持ち歩きましょう。
二十年前に書かれたエッセイを読んでいると「書籍の売り上げが落ちて、印税がガタ落ちした」というくだりがありました。その当時、業界的に売り上げの絶対数が低下して、作家だけではなく企業的に大変だったようですが、現在は似たような現象を音楽業界に見ることができます。音楽と書籍ではメディアが全く違いますが、それらを商品として検討した場合には同様の結論を見いだせると思います。20年前の書籍の売り上げ減は、VHSやゲーム機の普及による娯楽の増加が遠因にあったと想像できます。その後、デジタル化が進み、DVDやCDとネットの普及で娯楽そのものの絶対数が増え、またそれに興じる場所を選ばなくなりました。ところが、一日は二十四時間しかなく、そのうち睡眠時間を八時間と考えると十六時間残りますが、ここからさらに勤労時間を引く必要もあります。それで残った時間は八時間になり、この時間を読書、映画鑑賞、音楽鑑賞、テレビ、ゲーム、食事などに費やすことになります。それぞれの業界毎にこの時間を取り合いしている、とも見ることができます。企業論理としては、購入者がその商品(映画や本、ゲーム)を実際に使用した(読んだり観たり)かどうかは問題ではありません。実質時間をその商品に費やしたか否かではなく、費やそうと働きかけて購買に至ったかどうかが主眼ですので、一般的に多くの時間が費やされているだろうと考えられるテレビを通して広告を行っているわけです。書籍はテレビでCMを行っても費用対効果が極端に薄いと想像できますので、従って書籍のCMは相当な効果が見込まれるドラマの原作であったり、映画の原作、あるいはタイアップ小説などでないと難しいわけです。
問題の視点として「読者数が減った」というのはちょっとずれている気がします。読者数の絶対数は明らかに減っていますが、それだけが原因ではなく、娯楽の種類と幅が増えたことも大きな要因だと感じています。一定規模以上の地方都市であれば、夜でも遊ぶところはいくらでもありますし、iPodでビデオを見ながら携帯でメールをやりとりして、読書や思想に耽ったりという時間が少なくあるように思えます。
これらの傾向を顕著に感じているのはミュージシャンかもしれません。夜でも楽しめる場所は昔は少なく、ライブをやっているバーやミュージシャンを呼ぶ喫茶店など多くあったようですが、現在は夜でも行く場所は他にもいくらでもあるので、その集客数は極端に減っています。従って田舎でライブをすると、きちんとお店自体にお客さんが付いていて、一定数以上のお客さんが必ず集まります。
夜でも公園で一人で座って携帯とにらめっこをしている人をよく見かけますし、家の中で電話ができないのか、外に出て座って電話をしている人も居ます。確かに携帯電話は便利です。ネットも閲覧できますので、程度の差こそはあれ情報の遍在化が進んでいるのは明らかなようです。情報の遍在化は、それが健全なものであれば考え方の多様性を生み出し、新たな発展的かつ建設的な文化を発見させてくれる可能性があります。しかし、それが逆の方向に向いたとき、猜疑心と不信感をばらまく結果になります。
携帯電話に限らず、便利で効率的なものは正しいとか悪いとか、そういった画一的な二元論で考えるのではなく、「道具」に対する一定の知識を身につけてから、自分にとって有益に活用できるようにするのが、現代では大切なのではないかなと感じます。
その判断基準にあるのは、自分自身のモラルと教養と美意識だと思います。
どえらい失敗をしでかした私がそんなことを言うのも僭越極まりない次第でございますが汗
※携帯は近々持つ予定です。
ナルシストなナルキッサス / 2006年12月5日

ナルシズム、ナルチシズムです。ナルシシストというのが正しいらしいのですが、通じればどちらでもいいです。うぬぼれ屋とか、自己愛的なことを指して使います。「あいつナルシストやさかい、気持ち悪いねん(なぜか大阪弁。それもべたな)」みたいに使われますし、うぬぼれ屋ということからも好意的な意味ではあまり使われていません。
極端なナルシシズムは社会生活を送りにくくなりますので、そこまで行ってしまったら病気と診断されてしまうかもしれませんが、実際のところ診断基準は曖昧で発症の原因がわからなければ治療の方法もわからないという現状だということです。基本的には自己防衛機能の一つであろうという見方のようです。
普通、ナルシシズムは成長過程で経験するもので、自分を万能だと感じ、何でも知っていると考え、他の人の感情や期待に鈍感になり、高ぶって偉そうになる傾向があるそうです。そして、サディズムやパラノイアの傾向が現れ、絶対的な尊敬を求め、オカルト的思考と妄想に囚われて他人から搾取したり意味もなく嫉妬をしたり、怒りだしたりするそうです。そうして失敗を繰り返して自分の限界を受け入れ、失望や逆境や失敗に耐えられるようになっていくのですが、それが自分自身で受け入れられない場合、極端にナルシシズムが進行していき、大体の場合、孤立していきます。
精神病なのかというと、人間みんな何らかの精神疾患を持っているもので、それが正常とも言えますので明確な病気ではないと考えられますが、それによって社会生活を送れなくなったり、あるいは他人を傷つけていくことが多くなったり、という状態であれば、専門医の診察を受けた方がいいと思います。根本的にナルシシズムは自己愛により、傷つきやすい自尊心を制御するための原始的防衛機能、というのが精神分析学からの立場なので、自慢話程度などであれば本人が満足したいだけなので、気にしないで聞いておくだけでいいのかもしれません。
さて、ナルシストという言葉への良くないイメージの方が強いわけですが、アーティストにはナルシシズムの傾向が強く出ています。と、いうより、一定以上のナルシストでなければ作ることができません。自分の作った作品は自分が一番好き、というのが大前提にあります。「自分が作った作品が好き」ということは、ただ盲目的に自分が作ったから好きなのではなく「自分自身の美的感覚の基準を超えたクオリティを持った作品だから好き」というのが具体的な表現かもしれません。即ち、その基準自体のレベルが高く、従って一般的に出回っている音楽や絵画が写真や文章では楽しめないから、自分で作ったという動機をよく耳にします。そうしてできたものを聴いたり観たりすると、確かに素晴らしい作品であることが多いのです。
如何なる表現手段を持つ人でも、基準になっているのは自分の感覚であって他人の感覚ではありません。もちろん商品として売り物を作っているのであれば、ターゲットをある程度絞り、その嗜好を検討し消費者向けの商品を作らなければなりませんが、アーティストは自分がターゲットですのでマーケティングは簡単です。大事なのは、その自分自身の美的感覚とその価値基準です。そこを磨き、信念を持って良いもの美しいもの楽しいもの気持ちいいものを作り出していくのがアーティストで、結果的にそれが経済活動に繋がれば良し、という考え方です。
極端なナルシシズムとオカルト的誇大妄想に囚われた芸術家は数多くいます。今の旬で言ったらダリでしょう。ダリの妄想虚言や高慢な態度は当時のテレビでも変わらず放送されていましたので、よく知られていたようです。ある意味では本当の芸術家で、ダリのピンと天に向かった髭と、ぎょろ目を向いた顔のポスターは目にした方もいるかもしれません。ダリそのものがシュルレアリズムそのものでダリ自身が芸術作品である、という認識でもあるようです。
ダリと知らずに冷静にその人を見ると、分裂症の人みたいだなという印象を受けたのですがそれくらい異様な芸術家というのは今は噂を聞くこともありません。文壇でもやはり作家の異常行動も昨今では少なくなっているようです。
どんな善もどんな悪も、いずれも人類という種の多様性の一つでしかありませんので必要なものであり、その結果残ったのが人々の悲しみなのか喜びなのか満足なのかという違いによって、社会的評価や歴史的評価に繋がっていく様な気がします。
ところで、ナルシストの語源はギリシャ神話に登場するナルキッサスに由来します。英和辞典を読んでいて、たまたま見つけたのですが、ナルキッサスという美少年が湖に映った自分の顔に恋をして、見惚れて湖から離れられなくなり死んだという伝説があるそうです。かなり端折りましたが、この話にはアーティストの姿として、自分で自分の作品を愛する前に自分自身の感性を磨き、基準を高めることと、行き過ぎてそれに溺れてはならないという示唆を与えてくれている気がします。
アーティストにとって、ナルシストという言葉は褒め言葉になりますが、評価としてナルシストという言葉を用いられてしまうと「うぬぼれ屋」という皮肉が付いてきています。自分自身で自分を愛して自分の作品を好きになることから芸術ははじまりますが、まとまりすぎてはただの商品ですし、商品であれば会社がどこででもどんな動機でも売れるものであれば買っていってくれます。言いたいことを伝えるための手段として芸術というのは有意ですが、簡単に理解されてしまうような作品であっては、ナルシストな芸術家としては満足を得ることができません。
自分以外に理解されてたまるか、という具合で突き進み、周囲に誰も居なくなってもなお突き進んでいく姿勢をもつ気骨溢れる偏執的自己愛に支配されたダリの道を行くか、一般受けしてしまい芸術活動だったはずが徐々に商業活動になしまっていたという現代風芸術家の道を行くかはその人次第です。
第三者の評価を気にして作った作品は商品です。
商品の向こう側には消費者が居て、企業が居て、国が居ます。まぁるい世の中も結構極まりないことですが、そういう時代にこそ気骨溢れる芸術家の登場が期待されます。
偏執的自己愛に溢れた芸術家の登場を期待します。
高度成長期の幻想 / 2006年12月4日

戦後の代名詞、高度成長期です。
エネルギーが石炭から石油に変わった時代です。急激な経済成長の裏では、水俣病やイタイタイ病、四日市喘息といった公害病も発生し、ゴミ問題なども深刻化していったそうです。そして、都市部への人口集中による過密問題と地方の過疎問題が発生してきました。テレビや洗濯機に冷蔵庫が三種の神器とよばれ、急激に普及したり、大きいことは良いことだという流行語があったそうです。それからオイルショックを迎え、急激な高度成長は終焉を至ったという一つの時代区分です。
東京タワーの完成にベトナム戦争、東京オリンピック、ケネディ暗殺、ビートルズ来日、大阪万博、アポロ11号月面着陸、三島由紀夫割腹自殺、浅間山荘事件と戦後日本を象徴する事象が目白押しです。
この時代、働いて賃金を得て、家電を買いそろえてクルマに乗り、マイホームを得ることがステータスであり夢であり達成すべき目的のようであったイメージがあります。その時代を生きていませんので、あくまで現在から見たイメージですが、たった30年〜40年前のことです。今や家電などは拾ってくることすらできますし、クルマに至っては走るだけのものであれば手数料除いて数万円から入手できます。むしろ無料でもいいから引き取ってくれというものまであります。そして未だにマイホームを欲しいと思っている人が多いことに驚かされました。
完全に感覚の違いなのだと思いますが、私は十数年のローンを組んで家を買うという感覚がありません。投機目的で購入し、手を入れて賃貸に出すのならば立地によりますが気持ちは理解できます。ローンであっても不動産を持っているというのは社会的信用に繋がります。住宅ローンの抵当は、当たり前という前提がそこにあります。
この住宅ローンという制度と、住宅が欲しいという需要の裏に国家的な思索が見え隠れする気がしてなりません。国を運営するにあたって、必要なのは国力としての生産力の確保です。それには人口把握とその人口による生産高を把握していなければならないと思います。ということは、人は一定の集団で一カ所に纏まって村であり町であり都市を構築させておかねばなりません。そして生産活動や消費活動から税金を少しずつ集めていき、国家運営の資金にしていくのが国の考え方の根本にあるように感じます。
人を一所にとどめておくのは命令ではできません。できませんが、マイホームを持つという感覚を植え付けマイホーム=一国一城の主というステータス作りができれば、自ら進んで長期ローンを組んで一カ所に定住します。しかし一戸建てでは効率が悪いので、高層マンションになっていきます。土地の地域区分も徐々に緩和されていき、高層住居誘導地区なども増えて実際高層マンションブームも起きました。そうして、長期ローンを組んだ人々は返済までは確実に働き続けて返済まではその場所に居るというのがある程度確定的になります。そうして購入した住居は現在になって耐震精度の問題や老朽化の問題が出てきていますが、そこで幸せな家庭を築くことができていたのならば、それはそれで幸せなことだと思います。
問題は、数十年のローンを組んでもマイホームは手に入れるものという考えがまだ一部で残っていることです。
時代と共に考え方も激しく変化しています。学業を終え社会に出て、結婚し家を買い子どもを作り家庭を築く、というのは国を運営するための一つの方法論的な感想を抱きます。家という社会の最小単位が崩壊しつつある昨今において、その方法論をそのまま持続させる手段を検討するよりも、柔軟な社会作りを目指すのが国としての方向ではないのかなと思えます。少子高齢化が言われ出して久しいですが、有効な手段は未だに打ち出せているとは思えませんし、むしろ国の暗中模索ぶりが露呈して現場が混乱し、国民に被害が出ている有様です。人口は増えるものという前提での制度が生んだ弊害と言えることでしょう。日本の人口は恐らくはこのまま少しずつ上がったり下がったりしながら横ばいを続ければ良い方で、むしろさらに減少するということを踏まえて、有識者の方々は検討を続けていることと思います。そう信じたいと思います。思いますが、国に頼るつもりは毛頭ありませんし、そもそも自身の老後に日本という国家がまだあるのかという疑問すら感じていますので、お先は真っ暗です。
しかし、制度というものは後から付いて回るもので、結婚もそういった制度の一つですし、家も同様です。大切なのは他人同士の信頼関係なのですが、今その信頼関係が非常に危うい状態になっています。国としてどうするとかいう問題ではなく、個々人の問題です。他人に対して疑心暗鬼になり、監視カメラが街中を舐め回し、連絡が取れないとすぐに不安になるのは、行き過ぎなような気がします。その先に待っているのは不信感という暗闇でしかない思いでいっぱいです。
今まであったはずのレールやルールに綺麗に乗って走るのが人生ではなく、レールやルールを作るのが人生です。マスコミや国家、制度といった枠組みに盲目的に囚われることなく、レールやルールを作るために費やす時間も必要です。その間、労働力にならず消費ばかりをするそういう人たちをニートと呼んで問題視するのは、問題視する側の認識不足と感じます。ただ無気力な人も中にはいますが、多くのニートは考えていますし自分の人生に真剣に悩んでいます。そして純粋無垢で世の中の表面的な付き合いが苦手なだけで、人間としてまったく健全です。ただ、そういう時間が必要なだけで、それを過ぎれば優秀な表現者であったり技能者であったり労働者になったりしていきます。
社会が労働を強制し、強制しなければ運営が成り立たない国家ができあがり、平和だからいいじゃないかと誤魔化してきたつけがこれからやってきます。平和だからこそできることというのを模索し、極東において大きな国家を目指すのではなく、先鋭的で文化的な国家を目指すべきではないかと妄想しています。
今の総理では何も望むべくもなく、あんなに影が薄い総理も珍しいなという感想しか持ち得ません。「課長代理」という肩書きが似合いそうな印象が拭えませんが、せめて悪い方向に行かないことを切望します。もっともこういった評価は後年の歴史家が行えばいいのですが。
数十年前の高度成長期の幻想に囚われたまま、昭和が終わり平成になりバブルが崩壊しようやく回復しつつありますが、まだその幻想が残っている気がしてなりません。
経済成長ばかりが主眼になる時代は終わっています。
表現の手段と方法 / 2006年12月1日

芸術活動というのは、自己表現の種類の一つと考えています。表現するということは、それを受け取る相手が必要になります。その最初はまず自分である場合がほとんどです。対照はまず自分でなくてはいけません。自分に自己表現を見せ続けるのが芸術活動ではないのかなと考えています。しかしそうしていても、腹は減りますし住む場所も要ります。着るものも必要ですのでお金が無くてはなりません。そのために自分の作品を売り、お金にしていくのです。お金にするためには、社会に知ってもらう必要があります。作品を多くの人たちに見てもらうことが、作品の客観的評価とある程度の金銭と創作活動を続ける糧を与えてくれることになります。従って、創作していく次の段階にあるのは自己プロデュースです。
一昔前でしたら、画廊で定期的に個展を開き即売したり、決まったライブハウスを中心にひたすらライブを続けて行き少しずつ広げていったり、あるいは街頭でチケットを売ったりチラシを配ったり、出版社にひたすら持ち込みを繰り返していくなどという手段が中心でしたし、それ以外に個人では方法を持ち得なかったというのが現実でした。要するに不特定多数に一度に情報を伝達するメディアという手段が個人にはなかったわけです。
それがここ10年で様変わりして、その変化は昔をよく知っている人間であればあるほど、瞠目するほどではないかと思えます。根本的な部分や基本的な構造は変わっていませんが、個人が手段を持ち得たということは、根本的な構造すらもこれから収縮の方向に向かわせるのではないかという懸念すら持っているはずです。音楽にせよ絵画にせよ写真にせよ映画や演劇にせよ文学等にせよ、すべて消費化が激しくなり、生産量と消費量が尋常ではありません。ところが、収益がそれに伴わない事態が起きているのは、企業にとってコピーが容易なデジタル化のデメリットの一つになりました。由々しき事態ではありますが、健全な経営をしていなかった、あるいは先を見る目がなかったがためにこういった事態に陥っているのは自明のことですし、さてCDの売り上げが落ちたから音楽を聴かなくなったかというとそういうわけでもありません。
欲しいCDは買います。
欲しい映画も買います。
欲しい本も買います。
消費量は増えているのに売り上げが減少しているのは、お金を出して買うほどの品質のものではない、ということを物語っているように思えます。ドラマやアニメとタイアップさせて大衆に知らしめてとにかく売る、というこれまでの基本的な方法はバブルの終焉と共に終わっているのです。それでもまだそれにしがみつこうとしている企業は、あと10年ももたないような気がします。ただ、企業姿勢として売れるものしか作らない売らないというのは今も昔も同様で、売れそうなものから作り宣伝するものですし、会社運営側の意図も目的もわかるので、とても納得できますし今後もそのまま続いていくのが企業でなくてはなりません。そうして売り上げを得ることで、社員の生活が守られ純益からは税金が支払われ、国が運営されていくのです。
さて、芸術活動を見せる側の立場から見た場合、そうした企業も表現手段の一つになります。ネットというメディアを有効に使うことができれば、すでに一つのメディアを手に入れているとも言うことができますので、ネットで活動を展開しつつこれまでの手段も同様に行っていき、それによって双方の短所を補い合い、さらに発展的に融合させて新たな相乗的な表現手段を模索することも可能です。
iTunesやFlickrやamanaなども活用して、作品を発表していきながら既存の販路も確保していくわけです。
従って、自己プロデュースをする上で、簡単に第三者に自分自身をわかりやすく提供できるツールと、それを補うことができるツールとを持っておき、素早く相手に提示できるようにしておいた方がいいですし、逆に企業としてそうしたツールを受け取った場合に拒否反応を示さずに受け入れて吟味できるだけの知識が必要になってきます。これは企業の企画部の仕事です。企画部関係者が自社製品開拓のためにネタを拾い集め、それを自社の営業的に売りやすい形に編集していき商品にするという努力が必要になっています。これは昔からそうだったはずなのですが、中途半端な作品や中途半端な企画者が増えた結果、売れればなんでもよいという姿勢が表面化してきて、昨今問題になりつつあります。ひたすらコンテンツを集め、制作費は作者持ちで販路を提供するビジネスモデルはインディーズ音楽業界でも出版業界でも、ずいぶん前からあったビジネスモデルです。
ビジネスモデルとしては有効で、効率的な手段ですのでとてもいいと思うのですが、行き過ぎが目立ちはじめて問題になってきているという感があります。
資本経済社会において金儲けは悪いことではありませんが、それを還元する必要があります。澱んだ金は何も生まないただの紙切れです。日本の大金持ちと世界の大金持ちでは、その資産の桁が二つ三つと違います。戦後GHQ統治による財閥解体や富の集中が起こらないような税法などに起因していると考えられますが、基本的に日本全国津々浦々中流家庭という考え方が高度成長期を境に当たり前になって「みんな一緒」というのが良いという時代がありました。
僻みや妬み嫉みなどは昔々からあったものですが、昨今の金持ちに対するマスコミのたたき具合は尋常ではありません。もちろん、悪いことをしたというのもありますが、脱税や儲かった人に対するたたき方というのは、そのまま庶民感情を表しているように思えません。白痴極まりない質問内容をまるで国民の代表であるかのように得意げな口調で投げ掛ける馬鹿げたリポーターや、その答えにしたり顔でコメントするコメンテーター達が面白くて仕方ありません。もちろん、皆さん立場があった上での演出もありますし、報道番組がエンターテイメントしている昨今では、そういう演出くらいあたりまえだろうという無言の諒解も見て取れますが、気の毒なのはマイクを突きつけられた側です。逆にリポーターにマイクを突きつけながら撮影したら、彼らはどういうリアクションを取るのだろうかと想像を逞しくします。家庭もあるでしょうし、見られたくない表情もあることでしょう。生放送などでそういうことをして、したり顔のコメンテーター達がどうコメントするのかをまた妄想しながらテレビを消すのです。
テレビはもはや受像器ではなく、ゲームやDVDプレーヤなどを表示するためのモニターでしかありません。メディアとしての偉力も威力も健在ですが、だからこそ扱いには注意が必要ですし、それと同様の感覚はラジオやネットにもあります。
テレビやラジオは一気に広まる受動的なメディアですので、危険さと爆発力はありますが持続力は短いように感じます。ネットは対照的に能動的なメディアです。人の口に上り、徐々に口コミで広まって行き、定着するか炎上するか閉鎖するかのいずれかですが、どちらも電波よりも息が長く、継続的な提供を考えた場合、コストパフォーマンスに優れています。
芸術活動をしている人間としては、メディアの特性を考えて自分の活動とそれぞれのメディアとの相性を踏まえた上で自己プロデュースを自分自身でしていくことができる良い時代になったとも言えます。
ネットに関しては日本に限る必要はまったくありませんので、さらに有益とも言えますし、これから10年後20年後の社会を担う人々にとってみればネットは日常の一部でしかありませんので、もっともっと幅が広がっているかもしれません。
もっとも、そのときの人々に芸術を理解する文化があるかは、また別の次元の話になりますが。