利殖ってどうなんだろう / 2007年1月31日
10年くらい前、株をやっていました。
通常、株取引を行うには1000株単位での購入になり、例えばA社1株額面560円だとしたら、560,000円で1単位株だったかな?そんな感じが普通でした。要するに最初の資金が結構必要で、しかもそれなりに儲けようと思ったら、デイトレーディングと言って1日中保有株の動きを監視してタイミングに応じて売り買いを繰り返して増やしていくものでした。大抵は信用取引といって証券会社の資金を借りて行うようになるらしいのですが、10年ほど前に野村證券からミニ株という商品の登場で敷居がぐぐっと低くなり10分の1からの購入が可能になり、額面によっては数万円からでも取引ができるようになりました。デイトレーディングなんて面倒ですし、長期保有して少しでも利益が生まれればいいという程度の考えでやっていたので10万円くらいの資金で、半年くらいやって17万くらいになったので銀行よりゃマシだね、という程度です。
去年はライブドアの株で世間が踊りましたが、例えばデイトレーディングを真剣にやって数千万儲かったとしたとしても、あまり気持ちの良い気はしません。潔癖といえば潔癖なのですが、マネーゲームに近いものがありますし、実際にそれをやっている人の話ではやはり「ゲーム感覚」のほうが強いといいます。デイトレーディングになれば、株式市場が開く時間から仕事です。そして今は午後3時に取引終了だったかな?それまで株価を監視しながら情報収集です。一瞬の売買タイミングの差で数十万から数百万の損益に繋がります。そのシビアさがゲーム感覚を生み出しているとも言えます。
ライブドア株の際には多くの人が「被害を被った」と言いますが、それは株なのですからリスクがあって当たり前ですし、まるまる信用して株を購入して損したといったところで、やはり株です。決算報告書は信用すべきことですが、ライブドアの経営を外から客観的に観察していたら、経営実態と名前の一人歩きがよく見えていましたし、ITバブルではないですが異常なまでのメディアの露出と面白可笑しく煽動とまで言えそうなあの喧噪は、疑問でしたしそれが表に出ただけの話で、その責任を元経営陣にだけ追求するのは、スケープゴートにされている気がしないでもありません。
マスコミは話題性があれば飛びつきますので、元経営陣が良かろうが悪かろうがなんでもいいもので、手のひらを返したような応対には鼻白むばかりです。そうして恒例の街頭インタビューでは「貯金全部をつぎ込んだのに騙された」とか「信頼していたのに」とか、自分自身の情報判断能力のなさを棚に上げて、責任を転嫁する素人投資家にはそれこそ嫌悪感です。銀行に預けるより効率よく儲けたいから株を買ったわけですし、判断したのは自分自身だったはずです。
ところで、私のところには利殖関係の営業関係の電話が良くかかってきます。去年は株取引についての商品営業が多かったのですが、今年に入ってからトウキビやトウモロコシの先物取引商品の電話が既に3回ほどかかって来ました。そんなもん営業されなくてもよくわかっています。いずれもエタノールの原料になりますので、ガソリンからエタノールに代替えが進むとすれば、エタノールの原料になる商品は高騰することでしょう。ですが、これこそ絵に描いた餅です。エタノール(メチルアルコール)はアルコール燃料と呼ばれ、ガソリン代替え燃料として水素などとも同様に検討が進められているエネルギー源ですが、これは恐らくは不可能でしょう。原油が枯渇するとか、もう他に手段がないほどにまで追いつめられないと、先に進むことはまずありません。問題の根本は国内だけでなく各国の思惑が複雑に絡み合い過ぎています。したがって、トウキビやらトウモロコシの営業に来られても「そんなもんに金を使うなら自分のために使うわボケ」と追い返すのが常ですし、そう思うなら「自分で買って自分で儲けて楽しんでくださいね」と丁寧にお断りするまでです。
そもそも、そうした不労所得で得た金は、個人的にどうしても釈然としません。マネーゲームで手に入れた金は、なんだか泡銭的な気持ちになり、お天道様にもご先祖様にも顔向けできるような金ではない気がしてなりません。自分が潔癖なのかな、という気もしますし、博打的要素によって手に入れた金だからなのかもしれませんし、そもそも不労所得で金を得るというところに潔さを感じません。儲かれば良しと割り切るのもいいですが、釈然としないものは釈然としません。
ゲーム感覚でデイトレーディングして、もう何億あるかわからないくらい儲けた若者が居ましたが、両親に家を買い与え金はありあまり、もういらないけれどもゲーム感覚なので抜け出せないとのたまってました。一ヶ月働いて手に入れる15万円と、数秒の取引で手に入れる15万円は同じお金ですし効率で考えれば後者のほうが圧倒的に合理的で、資本主義としては正解です。ですが、そのお金を手にした人の気持ちの中では前者の方法で手に入れた15万円の価値は、雲泥の差があります。
きっとこういうところに利殖に対する抵抗感があるのかもしれません。
10年前に全て売却した後、二度とやろうとは思いません。
最近、本当の大金持ち達の話を又聞きする機会が増えたのですが、金や土地があっても人生は潤っていないようで、金では手に入らない楽しいことというのを渇望しているようです。そういう話を聞くにつけ、お金は食うに困らぬ程度が一番いいのかもしれないなと改めて思います。
昨今は、にわか個人投資家が急増していますがそれで損をしても得をしても、火中に紙を投じるようなものだと、私は思います。
きっと打ち合わせ済み / 2007年1月30日

いろんな用事が妙なタイミングで合うことがあります。
今朝など、見事でした。
始業時間が過ぎて、作業に取りかかったら「ピンポーン」と来客です。はいはい、と応対して上がってもらい打ち合わせをし出したら、電話が鳴って私宛です。客にはちょっと待ってもらい電話応対したら、ちょっとややこしい内容で、データをチェックしながら「これはいけますね、あこっちは無理かな」などと喋っていたら別の電話が鳴って、他の人が応対したらこれまた私宛ですが電話中なので折り返しと切ってもらって、最初の電話の話を続けようとしたら、「ぴんぽーん」と今度は郵便屋さんです。それは別の物に応対してもらい、私は電話を終えて最初の打ち合わせに戻りました。こちらはすぐに終了。
そしてまた会社は静かになったのですが、この間たったの10分間。
みんなで示し合わせたとしか思えないタイミングです。
月に1回はこういうことがあります。酷いときはこの上さらに携帯が鳴ってFAXが飛んで来てなど、笑っちゃうこともあります。それも、そういう日に限ってずーっと電話もFAXもメールもなく、その一瞬のタイミングだけを狙って来るかのように集中するのです。分散してくれたら、一つずつ順番にできるのですが、短時間一極集中はキリで突かれるようなもんです。
それが仕事の電話ならまだしも、間違い電話だったり営業だったりした日にはねぇ、もう、あなた、そりゃ大変ですよ。
金にもならない小難しい文章 / 2007年1月29日

このブログを指して「金にもならない小難しい文章」と言われ、言い返せず悔しい思いをしたものですがおかげで方向性としていろいろ模索するきっかけと、物事の捉え方の違いを教えてもらいました。実は今は多少お金になってます。この一ヶ月ほどで、20ドルばかり。金になるのを待つのではなく、いくばくかでも金にする方法を模索して、googleAdsenceを活用するようにしました。それでこうして更新するだけで、たった20ドルとはいえ塵も積もればなんとやらで、金にもならないこともなくなったのです。
ただ悔しかったから、金にする方法を模索してAdsenceを使っているわけで、基本的に悔しさを解消するためにやっただけに過ぎません。
皮肉などではなく、「金にもならない」という言葉を聞いたときに、その裏には「社会的に認められていない」という思いがあるのではないかなと想像しました。「金になる=社会的に認知される」というのはよくわかりますが社会的に認知されたところで、それがどうというものでもありません。目的は、衣食住を得られるかではないでしょうか。金になるならないで考えてしまったら、「こんなことしても一銭にもならないし、やめよう」という結論に繋がりかねません。そういう発想ならば、時間給のバイトをしていたほうがよっぽど自身の考え方に合っていると言えます。また、広く社会的に認知された結果、やりたいことができなくなっていった人々というのは今までも数多く居ます。
順を追って考えていきます。
まず、なぜ金が要るのか。生活するためです。
生活するのは生きるためです。
生きるのは自分のためです。
では、なぜ自分は生きているのか。
やりたいことやるべきことがあるからです。
それが金を稼ぐことかもしれません。人を殺すことかもしれません。人を愛することかもしれません。人それぞれがそれぞれのために生きているはずです。誰かのために生きているなどというのは、思い上がりですし、誰かのために生きているということはその誰かに必要とされなくなった時、自分の存在意義を失ってしまう依存した考え方で、とても危険です。モチベーションとして利用する分にはいいですが、依存は違うので要注意です。
さて、自分がやりたいことをやるべく生活しているわけですので、金は要ります。金というのは定量化されていて解りやすいぶん、見失いがちになってしまいますが金が評価を表すものではなく、報酬でしかないのです。
悲惨なのは投機対象にされてしまった芸術家です。
芸術家が資本家の食い物にされる好例とも言えます。作品が気に入って購入するのではなく、この画家の作品は今後値が上がるだろうから買っておこう、という発想ですので、その金は評価でも報酬でもなく、ただの投資です。その作品を作った人にとってみれば、金は慰みにしかなりません。無ければ困る金ですが、そういう金は納得がいかないことでしょう。
先日、なんだかの病気で亡くなった若い画家の絵がNHKか何かテレビで放送されたらしく、画集がバカ売れだそうです。生きている時には見向きもされなかったものの、亡くなってからそうした放送によって絵なり画集が売れ、遺族に金が入るというのはこれまた慰み程度で亡くなったご本人としてはどうなんだろうかなと考え込んでしまいます。
「金にもならない落書きみたいな絵」でも「金にもならない雑音みたいな音楽」でも金になるかならないかを評価基準にしていますし、そのように考えてしまうと与えられた仕事以外は全て金になりません。言われた側はもちろん落ち込みますが、そうした言葉も自分を育てる言葉ですあります。堪えて一生懸命消化しようとしますが、消化不良もおこしてしまいますし時間もかかります。そうしたことを器用にこなせれば、周りに迷惑もかけずに済むことでしょうし、要領よく立ち回ればさらに周りを幸せに自分も幸せになれるのだと思いますが、それは舟で潜水しろというようなものです。同じ海を渡っていますが、根本的に別のものなのです。できる限りギリギリまで潜水してみたものの、高波うけて潜水じゃなくて沈没してしまいました。
自分の活動とそのための場所と時間をどれだけ確保していくことができるかはわかりませんが、金になるならないという評価基準に囚われず、資本家の食い物にならず、自分のため自分のため自分のために作品を作る気骨と忍耐が必要だと思っています。
芸術と称してビンを投げるのなどは、愚の骨頂です。
ラブ&ピースならなんでも良いというのも本質を見失った好例です。
ブロろ〜ぐ / 2007年1月29日

年明けにブロろ〜ぐというブログ紹介サイトて紹介してもらいました。
なんでも、オススメ!ブログの達人と題して自己紹介をする企画のようで、ブロろ〜ぐに登録したら企画に参加できるようです。
登録も参加も簡単なので、お試しあれ。
http://www.hihyoukaya.com/
なんかこう / 2007年1月26日
ぱぁっと遊びたいなぁとここ数日感じてます。鬱々と仕事をしているのですが、そろそろキツイ感じです。こういうときはパッとお金を使ってストレスを発散していたのですが、そういうわけにもいきませんので、違う方法で気晴らしになることを考えています。
打ち合わせの度にカメラを持ち歩いてはいるのですが、しばらく撮る気力すら起きません。差し当たってはバカでかい音でクラシックが心地良いことに気付いたので、それで気晴らししてますが、飽きます。どっかライブでも行って楽しもうかなと思ったのですが、思った瞬間にやーめたという有様ですから、これまたこまったものです。
楽しい映画観たりゲームしたりして、土日を過ごして気を晴らしたいと思います。このままだと毒ばかりまき散らしてよくありません。
昔の日記 / 2007年1月25日
10年前の日記を読書代わりに少しずつ読んでみました。
このところ、読書する集中力もなく、映画を観る気力もなにもありません。正月ボケのあとなんだかんだとあって無気力です。仕事のように「しなければならないこと」以外は手に付きませんので、適当に読める過去の日記を読んでいるわけです。他人の日記を読んでいる気分ですが、起きた時間と就寝時間を書いているがなかなか面白くて、実に滅茶苦茶な生活ぶりがうかがい知れます。
二日徹夜一日就寝で、見事に仕事以外何もしていません。
同時期のスケジュールも一緒にファイルされているので、それも見てみると毎日が締め切りと打ち合わせで真っ黒です。よく働くなぁと思ったのですが、いやいやこれ自分の過去の記録です。こんなに働いていた記憶はありません。この頃の作ったものや打ち合わせについて具体的に日記には記してあるのですが、自分の記憶には仕事以外のことしか残っていません。年齢的には十代後半です。
それを見て今を見たら、随分人間らしい生活をしているじゃないか、すこしソワソワしてしまいます。
日記の中で、二十歳前後になるとやっていることに疑問を持ち出して、自身の作品作りを少しずつしていく方向を目指すようになっていました。最終的に帰結している部分は、今と同じなわけで環境が変わっただけでそもそもの疑問は解消されずそのまま現在まで成長せずに来ているのだな、と感じました。イメージとしては、泥沼の中で必死にもがいているようなもんです。沼から上がることもできず、もがいてギリギリのところで息が出来ているから同じ場所にずっといるだけです。もがいているうちに、もがくコツなどを覚えてしまい、生ぬるい泥沼も心地よくなってしまい、時間だけが経過しているのです。でも、泥沼の淵に生えている植物は日々代わり、美しい花が咲いたり立派な気が葉を生い茂らせたり、大きな蝶が飛んできたり、立派な鳥が巣作りを始めたりと、環境は変わっていき、それなりに目を楽しませてくれたり、気持ちを和らげたりしてくれます。これはこれで心地良いので、今はそれでいいな、と納得できるのです。
納得しながらも疑問はあるので、忍耐強く少しずつ疑問を解いて行くことでしょう。
そして、死ぬ間際にでもその疑問が全て解ければ、それは幸せと言えると思います。例えそれが死んでから解ける疑問だとしても、そうして疑問と対峙して模索することができるのが幸せとも言えるかもしれません。
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
欲しいものリスト / 2007年1月24日
・T-Racks(マスタリングソフトウエア)50,000円
・オーディオインタフェース2in以上の。50,000円くらい
・各種整理用ケーブル類。20,000円くらい
・接点回復剤等。数千円。
・ハンダゴテ。5,000円
・仮組用キット。15,000円
・細々したパーツ。不明
・MacBookPro15inch。HDD換装を考えると330,000円くらい
・ChinemaDisplay23inch。130,000円くらい
・ジェッソ。1,000円
・いくつかの筆。5,000円くらい
・黒板とチョーク。5,000円くらい
・イーゼル。2,000円くらい
・作業場。不明。
具体的に欲しい物を列挙することでモチベーションを上げる手段にしています。
納豆は大好きです / 2007年1月23日

納豆でダイエットだとかなんとか捏造して番組が打ち切りになったようです。確かあの番組はマイナスイオン流行も起こしたきっかけを作ったはずです。納豆が店頭からなくなってオークションにかけられているのを見て「平和な国だなぁ」と思っていたら、今度は「騙された」と被害者面して抗議の電話が殺到したとか。
あの番組、マイナスイオンブームの火付け役もしてましたし、眉唾ギリギリをずっと行ってる番組なのでそういうものだと思っていたのですが、素直に信じていた人はご愁傷様ですといったところです。食べて痩せようなんて都合のいい発想がおかしいですし、そもそも自分が食べているもののこと自体あまりよく知らないことでしょうし、表に出ることもありません。
ただ、身体も心も、食があってこそ成り立っているものですので、意識として知っておくことは必要です。試しに七日間三食コンビニ弁当を食べることを試してみれば、実感としてよくわかります。マクドナルドなどのファーストフードでもいいのですが、身体も心もおかしくなります。一度やってみたのですが、おかしくなりました。おかしくならない人もいますが、その場合は身体の抵抗力が異常に強いか、逆に幼少から慣れ親しんでいて、おかしくなっていることに気付かないかのいずれかです。
問題なのは、コンビニやファーストフードが急速に普及したために、これらの食で育った人間が年齢と共にどういった疾病や障害が発生するのか、わかっていないということです。
コンビニが二十四時間営業を始めたのは1975年だそうです。それから全国的に普及していったのが1980年代初頭と考え、当時最もコンビニをよく利用したであろう世代を大学生だとすると、現在四十歳前後より若い世代はコンビニが食の主軸を担っている可能性があります。コンビニが当たり前であれば、自分の子どもにも同様に食べさせていると考えられます。もっとも、そういう可能性も極めて一部であると思いますが。
もう三十年程時間が経ってから、精神疾患、自殺率、犯罪などの統計と食生活の統計を照らし合わせてみると、興味深い結論が見えるかもしれません。全く関係ないこともあるいは証明されるかもしれませんが、どこかの大学の教授や助教授がテーマにして研究しているかもしれません。食と身体の関係は自明ですし、同様に身体と心の関係もずいぶんわかってきた時代です。従って、根本にある食と心の相関関係は無視できません。
それにしても、複雑な時代ですね。
賢人は歴史に学び、愚人は経験に従う / 2007年1月22日

ドイツ統一帝国初代首相のビスマルクの言葉です。鉄血宰相と呼ばれ、伊藤博文が尊敬したとして日本では古い人なら知ってる言葉だと思います。
政治家としての言葉と考えれば、歴史から学べることは多く、もっともなのですが普通の人間として考えると歴史から学ぶという言葉は大げさです。歴史ではなく、他の人の個人的経験やエッセイなどから学ぶと言い換えた方がすんなり飲み込めそうです。歴史というのは捏造が当たり前ですが、他人の話やエッセイの場合、多少の誇張はあれど大筋は真実がそのまま出ていることが多くあります。
経験に従うというのも、動物と同じで一度やって痛い目を見たから次はしない、という次元の話です。犬のしつけをしたことがある方なら、天罰方法といえばわかると思いますが、やってはいけないことをやった場合に勝手に痛い目を見る仕掛けをしておき、飼い主の目が届いていないところでも悪いことをしたら痛い目を見る、ということを学ばせる方法です。
賢人は、歴史や記録から学んで吸収して実践できる人のことを言うのでしょう。そして愚人は同じ過ちを何度も繰り返してようやくカラダで学ぶ人のことと言えるでしょう。お酒による失敗などは愚人と言えます。酒の勢いでああしたこうしたそうしたという「やってしまった」という話が多いのは、それを体現していますし、男女間でもありがちな話です。ただ寂しいだけというのを恋愛感情と勘違いして、それを勘違いとわかっていながら恋愛感情だと自分に言い聞かせて、結果的に情が移りそのままずるずると結婚して家庭ができてしまい、夫や妻の愚痴をブツブツいいながら、簡単に手を出せそうな相手に次から次に声をかけていくというケースはかなり良く見ることができます。
そうしたありがたい反面教師達を見てきて、原因がお酒に寄るものが極端に多いことと、異性にだらしがない人間は同じことを繰り返すということを教えてもらいました。具体的にはお酒でテンションをあげないと、楽しく過ごせないという場合や、風俗が好きで良く行くんです、と平気な顔で言う場合です。こういう人を素直に信じて付き合いをしていた頃もありましたが、他人との付き合いよりも「お酒」や「性」が重要なようで、追い込まれたとき確実に仁義を欠き、裏切って行きます。何度かそういうことがあった結果、こういう人たちとの付き合いは極力控えよう、という自己防御の方向になっていました。
いちじき「お酒が大好き風俗大好き」という人と付き合いが生まれ、次第に深くなっていき「あぁ人は変われるのかもしれないな」と少し希望を抱き、少しずつ信頼していくようになったことがあったのですが、このときも最終的には動物的発想になり、どこかへ行ってしまいました。
衝撃は大きかったものの、やっぱりそういう人種だった、と自分の中で結論づけることで平穏を保つことはできます。ですが怒りは収まりません。しかしこれとて時間という心強い味方がいますので、時が経てばいずれ忘れます。
そして、この経験に再び従い、酒や風俗、博打が好きな人とは一定以上の距離を保った付き合いをしていくことでしょう。歴史を顧みれば「金で落ちない男は女で落とす」のが常套手段ですしその結果は推して知るべしと言うべきでしょう。それすらもわからないのであれば、一生を通じて後悔して伴侶の愚痴をぶつぶつと垂れ流しながら自己嫌悪にまみれて生き恥を晒し、そうした姿を客観的に観ることすら出来ない、本当の愚人になっていくだけです。これも人類の多様性の一つにすぎませんし、そうして体現して客観的に見せてくれる人がいるからこそ我が身を振り返り、自身に対して打ち込んでいた楔をさらに強固なものにしてくれるのです。そういう側面では感謝すべき存在であったのです。ただもう少し時間が経ってくれないと、素直に感謝はできませんがいずれそうなることでしょう。あの信頼関係はそのときは本物だったはずですが、二度と取り戻すことはできません。悲しいことと思いますが、その感情は「あったと思っていたものがなかった」悲しさに過ぎず、それ自体が思い込みという幻想だと言ってしまえます。
いずれにしても、酒や異性にだらしがなさすぎる人は要注意です。
お酒は嗜み程度、異性は楽しみ程度、博打も楽しみ程度です。
私の場合、お酒はカラダが受け付けないので嗜むことすらできません。
女性は喋って楽しくない人とは付き合いしません。
お酒を呑む女性は、危険なので敬遠しています。
博打は、せいぜいたまにやる家族麻雀程度。
パチンコや競馬、性風俗お水産業は経営側の話を多く聞いていますので、客の立場で行くということは一生無いと言い切れます。
あれれ、こうしてみると、見事な堅物ですね。
続いています夢日記 / 2007年1月19日

夢日記をつけるようになって、三ヶ月経ちました。思えば、昔からちょいちょい書いていたものの、夢日記と言うにはほど遠く、三日坊主になっていたものが、今度は三ヶ月続きました。三ヶ月続けば三年続くと言いますので、習慣付いたのかなと感じます。日記も同じく続いています。
人が一つのことに対して興味が持続する期間は、概ね三ヶ月と言われています。テレビのワンクールなどはそれに則っていますし、昨今のブログブームにおいても、統計によるとブログの生存期間(更新され続ける期間)は三ヶ月以内ということです。恋愛でも三ヶ月が一区切りになってる方もいることでしょう。ブログや恋愛などは我が身を振り返れば「そうかも」と身に覚えがある方は多いことでしょう。恋愛は外からはなかなかわかりませんが、ブログなどは見ていて実際に3ヶ月近くなってくると更新がまばらになり、やがて全く更新されなくなるところは多く見かけます。
さて、三ヶ月経って習慣付いた夢日記ですが、見事に毎日夢を見ています。具体的な夢からとりとめのない夢ですし、内容もそのボリュームもバラバラです。二、三行であったり、二、三ページであったりとその差は驚くほどですし、後から読み返して見て、その文章から夢の記憶が引きずり出される場合と「こんな夢見たっけか」というものもあったりして、興味深いものになっています。興味深いと言っても私個人的に興味深いだけのものなので、どうっていうものでもありません。文字だけではなく、印象的な風景があったりした場合は、そのスケッチも入れてありますので、より具体的に思い出させる手助けをしてくれます。
三ヶ月分の夢を、その日の日記などと照らし合わせて主観的に分析してみましたが、意味があったりなかったりしますし、「あ、これは」ということが後から解ったりすることもあります。数年経ってもまだきちんと夢日記を続けていれば、さらに興味深いことが浮かび上がってくるかもしれません。今年に入ってから、いつも近くに居るのに夢に全く出てこなかった人がやたらと出てくるようになり、代わりに良く出てきていた人がチラリと出てくるものの極端に影が薄くなるようになりました。これは後日になってから合点が行く出来事が起こったのですが、あくまで恣意的に結果論を元に解釈した結論なので、これが論理的かと言われたら、そうではありませんので、主観的な話でしかありません。夢は、どれだけ突き詰めても夢でしかありません。それ以上でもそれ以下でもないので、それを現実の話に持ってくるということは極めて非合理的なことで、無意味と切り捨てても良いほどですが、感覚的な仕事をしているので夢からの示唆により、創作することが多々あるためにそういった側面において重宝しています。何しろ、目覚めて枕元のメモを見たら数枚に渡る書き込みが残っているわけです。労せずしてちょっとした文章の種があるわけです。これは助かる。
こうして夢から出来た作品というのは、過去にたくさんあります。
日本では夢野久作の「ドグラマグラ」がそうですし、海外ではパガニーニの「悪魔のトリル」という曲が夢の中で悪魔に教えられた曲として発表されています。他にも私が知らないだけやあるいは本人がそれと言っていないだけで、夢を元にしたものは数多くありそうです。筒井康隆も「夢の木坂分岐点」や「パプリカ」を書くにあたって自身の夢を引き出しにしたと本人のエッセイで書いていました。この場合は夢から着想を得たのではなく、夢を題材にしたといったほうが正しいですが、夢は利用価値があるものであるということを示してくれています。
基本的な立場としては夢分析そのものに懐疑的なので、具体的な解釈や分析はしませんし、それをして仮に正しかったとしても、占い的な要素が強くなんとも言えないのが本当の気持ちです。むしろ、夢を見ているときの脳波に興味がそそります。最近ではパソコンでログを取れるポータブル脳波モニタも手頃な価格で販売されていますので、余裕ができたら購入しようかなと半ば本気で考えています。
懐疑的とはいえ、分析や解釈はしたくなるもので、実際にやってみて「おお、本当だ」と得心することもしばしばです。
例えば、私はクルマの免許を持っていないのですが運転している夢を見ることがしばしばあります。そうしたとき、私の運転しているクルマのブレーキは非常に甘くて止まるまでにかなり前から踏み込まなければなりませんでした。これは「ブレーキ」が「お金の使い方」に当てはまるとかで、実際にお金に非常にルーズでした。ところがお金の管理方法を変えて、再びクルマの運転をしている夢を見たときにはハンドルさばきに不安があるもののブレーキはしっかりきいていましたので、安心して運転していました。なんともシンプルな解りやすい例です。これは私の例ですので、誰にでも当てはまるものでもありませんし、たまたまそういう夢を見ただけなのかもしれませんが、興味をそそるには十分な例です。
もう少し分量が溜まったら、データ化して特徴毎に分類して、単語の出現頻度などから解析するのも面白いかもしれません。しかし、毎日夢に出てくる人がいるのですが、この人は既に別格です。私の中でアニマと同化した存在になっているようで、昔からもともと出てきていたアニマの姿になったり、現実の姿になったり臨機応変に変化します。この辺、心理状態と合わせて分析するのも興味深いですが、こういった分野は自己探求になってきますので内省としてすべきことで、特にこういったところに書くようなことではありませんので、割愛します。
ちなみに、悪夢らしい悪夢というのはあまり見たことがありません。
極めてグロテスクで激しい夢でも、夢の中ではそれをグロテスクとか気持ち悪いとか思うこともなく、じっくり観察していたりしますし、誰かに追いかけられたり襲いかかられたりしても、最後には逆襲しているのが常です。悪夢ではありませんが、目覚めてから恐怖を覚えるのは現実なのか夢なのか解らなくなるような夢の場合です。「あれ、ここはどこだ?なんだ?今っていつだ?」と記憶が混乱するような微妙な現実感を伴った夢は恐怖です。夢の中で怖いことや気持ち悪いことなどは、所詮夢ですので後から思い返して気持ち悪かったなぁ怖かったなぁと、過去の記憶の中のことに過ぎませんが、目覚めてもなお記憶が夢に引きずられる場合は、現実的な恐怖感を伴っていて居心地が悪い思いをします。悪夢はその人にとって悪夢ですので、他の人にはなかなか理解してもらえないものです。
それにしても、夢は面白いです。
だから、三ヶ月続いたわけですし、機械的に夢を書き留める習慣が身に付きつつあるからこそ、さらに夢って面白いなぁとつくづく思えるわけです。
こうなってくると、精神異常を来した患者の夢がどんな夢なのかという興味が頭をもたげます。筒井康隆の「パプリカ」はまさにそこに焦点を当てたものではあるのですが、現実問題として他人の夢を客観的に観ることは不可能です。従って想像の範疇を出ないわけで、そうなるといくらでも想像が膨らんで行くだけです。でも凡人の夢からは想像もつかないような夢を見ているのでしょう。
もしかしたら、狂人が見る夢と胎児が見る夢はそんなに違いがないかもしれないなと思ったりします。
しまったしまった / 2007年1月18日
今日、歯医者の予約していたのすっかり忘れてすっぽかしてしまいました。それに気付いたのは今さっきという始末。あいやぁ、仕事でバタバタもいいですが自分自身の予定を飛ばしてしまってはいけません。明日早速お詫びの電話をして再予約をしなくては。
とりあえずは落ち着くまで息を殺して頭の上を嵐が通り過ぎていくが如く、静かに過ごすのです。早く通り過ぎないかなとチラチラ見ているうちに、遠くの方に次の嵐が見えて来ていて少しゲンナリしてしまいましたが、この際見なかったことにしたいと思います。
さて、何書こう。
一日やっていたことなんて仕事ばかりなので、書いても面白くありません。ううん、ううん、あ、大阪の国立国際美術館で大阪コレクションズもう始まってる!
1月16日からです。マグリットも展示されているので、行くつもりでいたものです。場所が中之島なので仕事の打ち合わせの途中などにちょっと立ち寄れる場所にあるので、折りを見て行ってきます。3月末までやってるので、ちょっと余裕。
神戸のオルセー展は結局行けなくて、悔しい思いをしたので、今回はサクッと行ってきます。ああくそ、オルセー展悔しい。まぁいいや。
今年はまだ始まったばかりなので、焦らず腰を落ち着けてじっくり少しずつことを進めて行くぞと自分に言い聞かせている次第です。思いついたらすぐ動かないと気が済まない質なので、周りに迷惑をかけっぱなしでしたから、今年はその辺を自戒して諫めつつ、ゆっくりゆっくり風雨が花崗岩を浸食するが如く、じわじわと粘り腰でいくのです。
それには忍耐力が要ります。
いい修行になりそうです。はい。
寒いぞ / 2007年1月17日
今日、寒いです。
さっきまで外に居たのですが、この寒さはなんだか足に来ます。関節に来ます。膝ですね、主に。はい。
先日、知り合いからブランケットをいただきまして、これを重宝してます。いやー、デスクワークに必須かもしれませんね、これ。暖かい暖かい。足は、ふっかふかのスリッパで防護です。
冷えるのは指先です。
こればかりはどうしようもない。
だけど、ノートパソコンだと暖かくてナイスですよ。夏場は汗ばむんですけど、冬場はありがたいものです。
冷え性ではありませんが、年齢と共に冷えが節々に来るなぁというのは実感します。昔骨折したところも、なんとなく痛いような痒いような感じになったりして、昔骨折したということを思い出させます。
今日は、事務所の新年会でご飯を食べて眠いのです。
だから、こんなにどうでもいい内容なのです。
眠い。
眠いぞ。
ぐったり / 2007年1月16日
なんだかんだでヘトヘトヘロヘロなので、今日は小さな写真だけ。
えべっさん。
並んでいる人の頭の上を小銭が飛び交う飛び交う。でも小さいので、わからない。。。。
しまった / 2007年1月15日

ばたばたしてたらこんな時間だ!
一日早い〜汗
今月いっぱいはちょっとあたふたしそうな雰囲気。各種締め切りが重ならなくてよかった。。
これ以上のキャパはありません。
キャパ越えそうになったら「命に関わりますので」と言って譲歩してもらおうと思ってます。
仕事以外にやらなければならないこと、やりたいこととバランスを取るのは自分の能力次第ですので、忙殺されるのは困ります。
忙しくても、いっぱい仕事ができても、どれだけ稼いでも、社会的には便利な人になりますし、頼られますし、人が寄って来ますが、偉くなんぞありません。
自分がやりたいことをきちんとやれている人の方が、尊敬に値します。
忙しくしている人は社会が必要としてくれていることに安心感と、誇りと喜びを感じているふしがあるように感じます。社会はあっさり裏切り居なくなりますので、そんな風に感じてはいけません。
社会なぞ、自分達が作り出した常識という現実の夢でしかありません。
一日は / 2007年1月13日

あっというまに過ぎました。
一日、パソコンをばらして組んでとATAのケーブルやボードと戯れて、いや、格闘してました。
続きは明日です。
写真は猫が集まるバー。
三匹写ってます。
年々歳々 / 2007年1月12日
私は、よく上町台地という、大阪市内でも急激に地形が隆起している界隈をウロウロしています。で、今日も例によってウロウロしていたのですが、大阪城がほど近く大阪府の中央官庁街もあり、難波宮まであるので古くから人が集まっていた場所です。何かと「発掘調査中」などという看板を見ることも、珍しくありません。中でも空堀商店街から十二軒屋あたりなどは、戦前からの建物を思わせる造りのものも多く、好んで歩いていました。
建築様式など全くわかりませんが、和洋折衷のようなモダニズムというのか。日本に欧米の文化が入ってきて、日本人がそれを消化しようとしていた時期の物だと思って見ています。
見ていたのですが、今日歩いていたら更地だらけになってました。
え!
と思う程の早さです。つい先日は普通にあったあのモダンな家が更地です。「あ〜ぁ」と思わず声を漏らしましたが、どうやら一区画をまるごと買い上げて一つの土地にしてマンションを建てるようです。まるでバブルの頃のようです。細かい土地を順番に買い上げて行って、まとまった土地になったところで、不動産屋に売ったり一緒にビルを建てたりするのです。このあたり一体をぐるっと回ってみたところ、同様に買い上げられて既に更地になっているところ、解体中のところ、撤去中のところ三区画ありました。いずれも高層マンションが建つ模様です。
最近、このあたり異常な速度でマンションが林立していっています。それもだいたいが10階建て以上です。
もともと台地の上にあるので、地盤が頑強ということと高いので見晴らしがよく、そこに更に高層マンションを建てるわけですから、分譲マンションにした場合、景観が付加価値になっていわゆる「億ション」として売り出されています。実はこの台地には、活断層が走っています。あまり知られていないのか、それとも頑強な地盤と免震構造で安心なのか、建てれば飛ぶように売れるようです。だからこれだけおかしい速さで建物が建っていくのでしょう。
土地の持ち主の気持ちもある程度は理解できます。相続税払うくらいなら買い手があるうちに売ってしまった方がいいのかもしれないという心情はなんとなく想像つきます。この辺よく知りませんけれど古くから住んでいた家ですから、それなりの事情があることでしょう。取り壊し中の家屋を見れば、防空壕の跡もありました。古くて厳めしい煉瓦の壁もまだ残っています。なんだかさっきまで生きていた人間の死体を見ている気がして、写真は撮れませんでした。あまりにもむごい。
とはいえ、人ごとは人ごとですしこうして景観も住んでいる人も移ろい行きそれが後世の人たちによって一つの歴史区分にされるわけです。そうした歴史に纏められる自分に対して、一瞬の感傷はあるもののそれ以上に思うことはありません。
でも、そうやって移り変わっていく街の中で、今でも残されているご神木があります。なぜこんなところに?という坂の上に小さなお社を抱えて、巨体をビルとビルの谷間にうずくまらせています。昔は遠くからでも見えて、目印になっていたことでしょう。この木を切るときに事故が相次いだ結果、残されていると小さなお社の小さな説明に書いてありました。良くある話ですが、そういうワケありで残されているご神木は他の場所でもビルとビルの間に時々見かけます。
これは、私には日本人の誇りに見えます。
ほんの少し昔は仲良く一緒に暮らしていた八百万の神々を大事に抱え込んだ巨木は、古くさくて虫食いや経年で痛々しく傷ついているように見えますが、息をひそめてジッとその存在だけを残しています。
こうしたご神木も簡単に切り払われるような世の中にはなって欲しくないなと、願うばかりです。
昨日今日明日 / 2007年1月12日
あ、くそっ、しまった。また更新を忘れていた。なんだかんだやってるうちに一日が終わっているので、忘れてしまうのです。というのは言い訳ですはい。続けることを前提に始めるわけですから、続けられないのならば何かをやり始めても意味がないことはないですが、そのくらい極端に思いこませてひたすら続ける努力をすべきで、それを故意に怠っていたのではなく、忘れていて結果的に怠ってしまったのはいけません。というのもただの理屈です。だから忘れていて「あ、くそっ、しまった」という言葉に集約されます。
しかし理屈っぽいな。
まぁいいや。
本日は徹夜で仕事していたところで、気分転換でもしようかなと思った頭にこのブログのことを思い出してこうして書き始めているのですが、いい気分転換になりそうです。今日の夜になってから、徹夜の覚悟を決めて十日戎の残り福に行ってきたのも、気分転換のうちです。このところの無気力(正月ボケ)でリズムもガタガタだったので、この徹夜を機にもう一度リズムを取り戻すつもりです。明けて金曜日は何かとバタバタ忙しい予定ですので、その勢いで昼間を乗り切って夜も早々に眠りに入ろうという作戦ですね。これは、気を抜くと撃沈されますので覚悟が要ります。
何も考えずにふと後ろを振り向くと、睡魔が真っ赤な大きな口を開けて飲み込もうとしているところだったりします。
「た、隊長!我々はもう駄目です!隊長だけでもどうか逃げ延びてください!」
「ば、馬鹿なことをいうな!おまえらだけを犬死にはさせんぞ!」
「いけません!隊長は本隊に戻ってこの事態を報告してください!」
「ならん!!諦めるな!くそっ!この睡魔め!」
「駄目です隊長!奴の目を見てはだ。。め。。。で。。ガク」
「おい!沢木!沢木!!返事をせんか!!さわきいいいい!!」
沢木って誰だよ、おい。
敵前に散った沢木伍長は名誉の戦士(先に寝ただけ)を遂げたわけですが、実際は一人です。自分との戦いです。
いや、ただ大げさにしていっただけの話ですが、盛り上げることも必要なのです。って誰に言い訳をしているのだ、私は。
黙々と粛々と / 2007年1月10日
正月ぼけなのか、ちょっと無気力です。
あー。。。
って雰囲気。
ぱっとしません。寝たら寝たで変な時間に目覚めてこれ困ったものです。こういうときは、何も考えずに黙々と仕事をするに限ります。そういうわけで、しこしことカタログからスキャニングです。そして、夜になったら寝る。
どこかでまとまった時間を作りたいところです。
生駒山から大阪を望む / 2007年1月9日
夕方、生駒山中腹から大阪市街方面を撮ったものです。生駒山上は、以前は車で普通に入れたそうなのですが、治安悪化のため夜中は封鎖されているそうです。山上から眺める夜景は、高速道路の光が真っ直ぐに西にのびていて、それはそれは美しい物でした。
これは車に限った話で、徒歩では登れます。
徒歩で登るのは酔狂かもしれませんが、暗闇峠をテクテク歩くのも乙な物です。でも、女性一人では絶対に行ってはいけないです。かなり危険です。
生駒山は古くから様々な伝説や信仰を生んできた場所で、今でも神社仏閣は異常に集中していますし、各種伝説も揃っていますし、大阪と奈良の県境ということもあって山越えの道は多様です。神武天皇がナガスネヒコの抵抗に合ったという伝説が残っているのも、この場所ですし、ニギハヤヒノミコトが天磐船で降りたといわれているのも、この山です。
今では都会の山ですので、電波塔に山上遊園地、ゴルフ場やらアスレチックなど完備されていますし、西に降りれば大阪、東に降りれば奈良なので遭難しようがない山でもあります。こんな山の中腹に家が欲しいな、と思いながら山をウロウロしていたのですが「売り家」という看板を見つけました。見ればその家はちょっとした窪地に建っています。
一目見て、湿気が酷い場所というのが見て取れます。
な、なぜこんなところに一軒家を建てたのだ、と持ち主に聞きたくなるような立地です。これは酷い。こういう窪地に建てられた家を皿屋敷と言って、湿気が多く水が溜まりやすいと揶揄されるのです。水が溜まりやすい=悪い気が溜まりやすい=悪いモノが寄ってくる、という理屈も昔はありました。
こんな家はごめんですが、二十年後くらいに都会の夜景を眺めながらのんびりできるアトリエが持てたらなと妄想します。倉庫とか安くで貸してくれたら、それを利用できるんだけど、こういうのは縁ですので、いずれそのうちそういうときがくればと思っています。
やってることも考えていることも、我ながら酔狂ですね。
正月は帰省 / 2007年1月8日
お正月は帰省していました。
盆暮れ正月くらいしか帰省できないし、それだけの時間が作れないのが現実なのでこれでいいのですが、バタバタと行って帰ってくるのは余計に疲れるものでなんだか帰省したという実感がないな、というのが毎回のことになっています。忙しいのは景気がいいのではなく、余裕がないのだという事実を思い知らされます。
景気がいいことなど今まで一度もなかったので、みんながどういう基準で「景気がいい」「景気が悪い」といっているのか、いまいちピンと来ません。感覚的なものなのでしょうね。景気の良し悪しを感じるのは、極端に良いときと悪いときがあってそれを相対的に表した感覚ではないかな、と思えます。私の場合、極端に良いときも悪いときもないので、従って景気の良し悪しを判断する相対的な基準がないのです。自社の業績の良し悪しと景気の良し悪しは業種的にあんまり比例しません。そんな景気に振り回されるような会社では問題がありますが、この辺は業種によるので一概には言えません。
帰省していたとき、雪は全く無かったのですが、大阪に戻って来てから実家の方では激しい雪が降ったようで、写真が送られてきました。ちょっと前まで居た場所とは思えないほど景色が一変していて、すこし羨ましいものの、居る時に降られたら帰り大変だったなという思いもあり、複雑な心境になりました。
しんしんと降り積もる雪の音が大好きで、夜中など窓を開けてずっと外を見ていたりしたこともありました。都会に出てからはそういうこともなくなりましたが、未だに雪が降ると少しテンションが上がります。
暖冬予報が出ているものの、カマキリの卵は高い位置に産まれているので、きっとドカ雪が降ることでしょう。ニューヨークなどは20度を記録しているらしいので、気候まで狂いつつあるのは自明のようです。いったいこの先どこまで狂っていくのか、楽しみでなりません。
それを是正しようと真剣に考えると、信じられないくらいにお先真っ暗ですので楽天的に行った方が健全です。
チムニー / 2007年1月6日
昔から煙突が好きです。
具体的には小学校三年頃からです。煙突の煙の動きで、おおまかに天気を予測できる、ということを知って注目するようになったのが、煙突好きへの第一歩でした。
煙が出ていない煙突でも好きですが、煙が出ていた方が絵になります。ダイオキシン? 環境に悪い?
だったらまずクルマに乗らないでください。まったく昨今は環境保護を大義名分と勘違いしている無粋で過激な人たちも居るので困ったものです。嫌煙など流行でしかありません。煙草と肺癌の因果関係と、国内自動車販売台数と肺癌の因果関係を見て、国民一人あたりの煙草販売による税収と、自動車所有にかかる各種税収を考えれば、立場による腹が見えてきませんかね。
煙草の税率は一箱あたり消費税込み63%ほどです。煙草を購入すると、その金額の半分以上は税金ですが、買った時にだけかかります。クルマの場合、ガソリン税があります。これは56%程。クルマにガソリンは必須ですので定期的に払います。さらに、自動車税があります。排気量に応じて三万円〜十一万円程度、毎年払わなければいけません。自動車重量税も別にあります。所有しているだけで支払い義務が生じます。クルマの購入時にも消費税と別に自動車取得税を払います。
これだけでも、煙草より車の方が国として収益率が断然高いので、クルマの公害についてはあまり声高に言われることはありません。これからの少子化を考えれば、税収は多いに越したことはありません。さらに政治的発言力のある経団連の前会長にはトヨタの前会長が居ました。痛くない腹だとしても、探ってしまいます。
テレビを見れば、クルマのCM、酒のCM、消費者金融のCMが多く、これらのスポンサーがつくということは、スポンサーの悪い面の報道は民放ではされにくいという決まりがあります。そんなことしてスポンサーに降りられたら、営業的に大変困ります。
結果的に、スポンサーあってのマスコミは牙も爪も抜かれて馬鹿騒ぎをするしかなく、センセーショナルな事件があれば喜び勇んで報道するのです。ジャーナリズムがどうとか言うのも茶番になってしまい、結局ジャーナリズムとか言論の自由とかって建前という幻想でしかないよね、という現場の声が押しつぶされて呟きのように聞こえてくるだけになってしまっています。
そんなテレビや社会や世間や国に優しく飼いならされて従順に生きるのも幸せな道だと思っていましたが、いい加減我慢がならなくなってきているというのが本音です。かといって国を良くしたいなどとは毛頭思いません。自分にとっていい国と、多くの人にとっていい国というのは、また全然違います。従って、自分の周囲だけ自分の生き易いようにすればいいだけの話で、そう言う人達がいっぱい増えれば結果的にいい国になるはずではないかなと、浅はかな考えに至るわけです。
クルマは便利です。
煙草もおいしいです。
煙突も美しいです。
でも、クルマは凶器になります。
即死します。
煙草やアルコールは緩慢な自殺と言えます。
アルコールを飲んでクルマに乗るのは、ただの自殺です。
煙突も緩慢な自殺の一役を買っているはずです。
煙突を見て「綺麗だな」と感じる人
「環境を破壊してけしからんな」と感じる人
煙草を吸う人を見て「粋に吸ってるな」と感じる人
「緩慢な自殺をする馬鹿なやつ」と感じる人
クルマを見て「排気ガスをマキチラス鉄くずめ」と感じる人
「お、カッコいいな、あれ」と感じる人
様々な意見がありますし、どれも間違いではありませんが了見が広く、豊かな人生を送れるのはいずれも後者の様な気がします。でも、どの意見も「人類の多様性の一つ」でしかありません。
どんな人も、聖人君子も極悪人も、死んで塵になって煙のように消えて行くのは平等です。それならば、私は緩慢な自殺をしようとも、環境を破壊しようとも、自分のために豊かな人生を送って、死んでから後悔なり懺悔なりしたいと感じています。生きているのは死んだあとのことを考えるためではありません。
風の手引きでフラフラしながらも、確固たる芯を持って主張をしている煙のような人生を全うできれば、それに勝る幸せはきっとないだろうなと、思います。
人生は知識で知っているよりも、遥かに長く険しく楽しいものです。
だから、生きていられる限り生き続けて、次へ次へととにかく進んで行きたいと思えるものではないかなと感じています。
はっと気付けば / 2007年1月5日

またもや更新を忘れていました。
忘れていた理由は簡単です。余裕がまったくなかったからです。更新する環境が携帯のみだったので、書くのに妙に集中力がいる上に、携帯での入力は非常に面倒です。そして推敲するのにも行ったり来たりとこれまた大変です。そんなこんなで、更新しなければと頭の片隅にあったものの、気がついたら日が変わっていたので、まぁ今日はいいかという結論に落ち着いたというわけです。
三が日も早くも終わり、すでに五日です。
平日です。早いものです。
カレンダーの関係上、今日から仕事始めというところは多く、挨拶やらなにやらで今日も終わりそうな予感ですが、事務処理的なことに時間を多く取られることでしょう。この年末年始で生活のリズムはがたがたになりましたが、習慣とは大したもので帰ってきていつものベッドで眠ると、朝7時半には目が覚めるようになりました。これは嬉しい。
いつまでもつ習慣なのかは、不透明ですしこれまでも何度も繰り返していますので、信用も安心もできませんが、嬉しいなぁと思うくらいにしておきます。
それにしても一昨日に昨日と、嘘みたいに透き通った夜空にお月様が楽しげに光っていました。月明かりに照らされる雲は幻想的でとても大好きです。
更新忘れ / 2007年1月3日

更新しようと思い出したら、すでに日が変わっていたので、二日はお休みしました。一年の計が本当に元旦にあるのだとしたら、なかなかに壮絶な一年になってしまいますので、勘弁願いたいところです。
正月は得てしてそんな感じで、気が付いたら三日になっていたというのが常です。
2007年。平成19年。平成になって19年かぁ。昭和の異常な程の長さを実感させてくれます。
時間は光隠の矢の如しですが、その中に居るときは長くも短くも感じます。そう改めて自分に言い聞かせることで、その瞬間瞬間に意味があろうとなかろうと、感じるだけで良いと納得させることができます。嫌な時間でも楽しい時間でも、客観的には時間は時間でしかなく、どう過ごすかは主観的な感覚でしかありませんし、その感覚を共有することはできません。
それでも共有感と一体感を感じることができたのならば、勘違いであったとしても、それは嬉しいことですし、貴重な時間になります。だから、無為に時間を過ごしてもそれを無為とするか有意とするかは、主観的なものでしかなく、後から振り返って過ぎ去った時間を見ても、それは客観的な時間に変化しています。
従って、その時々にその時間を大切に感じていくのが、自分の人生という時間に対する向き合い方かな、と考えています。
そんな平成19年の正月は、あっと言う間に過ぎ去ってしまいました。時間というやつは、残酷ですが律儀で愛情に溢れています。
2007 / 2007年1月1日

明けました。
フと外を見たら、東の空が明るくなって来てましたので、せっかくなので、そのまま御来光。
太陽って暖かい!
日が昇る前までの、張りつめた冷たい空気が、緩んでいくのがわかります。
清々しいーね。