この日記 / 2007年3月31日
とても日記的な内容ではありません。
基本的に長い。
だらだら書いている随筆的です。ただ、随筆というには推敲もしてないお粗末な文章ですので、恥ずかしくなります。自分がそのとき思ったことをなるべく分析して記しているので、日記といえば日記です。移動時間の暇つぶしになっていれば幸いですし、ひつまぶしは美味しいです。
さて、大阪的駄洒落エッセンス(と思ってる)をちょっとまぶしたところで、話をさくさく進めます。
原則として平日連日更新を心がけていますが、心がけているだけでたまに週末に更新していたり、更新を忘れてブッ飛ばして言い訳していたりするこの日記ですが、書きたいように書きたいことを書いているのでネタには事欠きませんし、なかなか楽しい場所です。こういうのって総会です。いや違う。爽快です。総会といえば決算の次は株主総会ですので、関係者の皆様は身体も心も壊さないように気をつけて頑張ってください。私は株主総会関連の仕事は基本的にBダッシュで逃げてますので、ギリギリセーフです。今日も危ないところでした。
昨日の陽気で一気に桜が花開いていって、ちょっと焦りを覚えている今日この頃ですが、週明けに思い切ってさっくりと京都に桜を撮りに行こうと思っています。すさまじい人混みを覚悟の上で、一回ぐらいそういうことがあってもいいかなと、気が向いたわけです。せっかく京都近いのに、近くなったら近くなったで行かないのももったいない話しです。そう思って奈良も行くようにしたのですし、ちょっと南へ行けば大鳥神社もありますし、難波宮などすぐそこです。難波宮はただの公園になってしまっていますが、たまに発掘説明会があるところを見ると、まだ発掘はされているようです。近畿圏は掘れば何か出てきて、出てきたら申告義務があって、発掘調査が入ります。その調査の間、工事は止まりますので、工事発注側からしたら迷惑極まりないので、申告しないケースはよくあるらしいです。なんともったいない、と思うのは私が部外者だからですが、現実としてそうやって工期が遅れたらホテルであればオープンが遅れますし、マンションであれば販売が遅れて、経費ばかりかかって困ります。
このごろの陽気で私の頭も春になりつつありますが、ああいかんいかんと自戒しつつ春に浸るのです。わかっちゃいるけどやめられない。植木等もついにお亡くなりになってしまいましたし、赤塚不二夫はもう植物人間状態ということです。暴飲暴食で癌になってそれでもおれはタバコも酒もやめないと貫いて周囲には随分迷惑かけたようですが、虚無の淵にいる当のご本人はきっと幸せを感じていることでしょう。看病中に無くなった奥さんは不憫だなと思いますが、これも客観的な意見なのでご本人は幸せを感じていたのかもしれません。だとすれば幸せのさなかにスッと亡くなられたのは無常の幸せと言えそうです。勝手な話ですが。過去より現在未来の方が大事ですが、現在未来を培ってきた過去はなるべく大切にして、糧にしていけるゆとりは、個々人レベルであるといいなと感じます。
過去より現在未来の方が大事ですが、現在未来を培ってきた過去はなるべく大切にして、糧にしていけるゆとりは、個々人レベルであるといいなと感じます。
人の生き死に関係なく巡っていく季節のうつろいを見ながら、先人たちの人生を客観的に見せてもらい、若い人達の形振り構わない感情を話に聞き、自身を省みて、来年の春もまた桜を見ることができるのだろうかと、次の春へ向かうためにまた冬が来ることを心待ちにしている自分が居ます。
生きている状態を知っているから死んでいる状態を知っているだけのことで、それは状態の変化でしかなく、水や氷や水蒸気のように究極的にはやっぱり本質は同じなんだろうなと教えてくれているように思えます。
今を感じて幸せを感じることができるのがこれまた幸せです。
こういう人を指して「頭が春な人」と言うのですか。
そうですか。
異常行動 / 2007年3月30日
タミフルでの異常行動がやたら報道されている割に、その効能はいまいちピンと来てない私は、長いことインフルエンザにかかった記憶がございません。インフルエンザにかかった記憶はございませんが、異常行動の記憶がございます。
中学生頃だったはずですが、なんとなく覚えてございます。
夜中に目覚めて、外のクルマに向かったのです。
両親に止められてもなお、怒鳴り散らしながらクルマに向かっていったのですが、その先は記憶にございません。直前に夢を見ていて、クルマの中に置き忘れた物をどうしても取りにいかなくてはならない衝動に駆られていたのは覚えています。取りに行かなくてはいけないのに、なぜ止める!と思ったのも覚えています。
これ、本人的に脈絡がある気がしていますが、明らかに異常行動です。
きっとタミフル飲んでたんですね(嘘)
これより少し前、小学校高学年の頃には癲癇の発作を起こしました。朦朧とした意識の中で救急車で運ばれているところまでは記憶があるのですが、その後は病院でした。ストーブが熱くて気がついたので、冬だったようです。後日、脳外科へ精密検査をしに行きました。CTスキャンやりました。脳波計で脳波も取られました。今はヘッドギアのような脳波計になっていると思いますが、当時は粘土のようなもので電極を頭皮に貼り付けるもので、気持ち悪かったのを覚えています。
CTスキャンで見た自分の脳みそはしっかり詰まっていたので、その点は安心しましたが、お医者さんの話によると「脳波に若干異状が出ている」ということでした。「頭部切開手術をしないといけないかもしれない」と脅されもしましたが、やってもらいたいものだと当時本気で思いました。
さて、この脳波異常。
成長期に稀に見られる異状なのですが、癲癇患者と同様のものだったと考えられます。クスリを処方されしばらく飲み続けていましたが、発作はたまにやってきました。寝入り端に起きるようで、呼吸が止まり左半身が麻痺したように、まるで無感覚になるのです。やがて成長と共に発作は無くなりました。一時的なものだったようですが、認識として癲癇持ちだと思っておくことにしています。
癲癇患者は自身が癲癇持ちということを知らないケースが非常に多いというのが、お医者さんの一般的な認識です。発作を起こして病院に来るのはまだマシなほうで、実際は収まってしまえばなんでもないので、そのまま日常生活を続け、クルマを運転し、運転中に発作が出て事故を起こすこともあるといいます。仮に運転手が癲癇持ちでも死亡していたら居眠り運転ということになりますので、わからないのが実情ということです。それと私が運転免許を持っていないのは別問題ですが、クルマあったら便利だなぁとは思いますが自分で運転したいとか、必要だなとか思えないのです。移動は電車、タク、テク、バス、チャリ。
ただのアマノジャクなのですが、免許証の更新って必ず本人が行かなくてはいけませんので、各警察署で実はこっそり免許交付時に写真を撮影していたりして、個人情報データベースとか作られていたら怖いな、と想像したことがあります。やろうと思ったらできますし、18歳以上であれば免許を持っているのが普通なので、国家形成のための管理社会の根幹作りにはこうした大規模な情報整理が必要になります。国民背番号制がどうのという議論もありましたが、いつの間にかそれは成立していましたので、実はすでに国家公安委員会ではデータベースが存在しているのかもしれません。
もちろん、ただの妄想ですがそうやって考えていくと携帯電話にも空恐ろしさを感じます。
携帯電話はその仕組み上、常に基地局を探し、交信しています。なので圏外の場所などでは基地局を探しまくるため電池の保ちが極端に悪くなるのですが、要するに常にどこにいるのかが把握できるような仕組みがそもそも仕様上に存在しているのです。これを活用したのが「ココセコム」なのですが、まぁ何事も使い方次第です。今は想像を飛躍させ妄想の域にもっていき、極端な発想を楽しんでいるのです。
「いや、私まったくの下戸なんですよ」
というと
「えぇぇえ!?」
と凄いリアクションで驚かれます。すごい呑むように見えるらしいです。
「いや、私クルマの免許持ってないんですよ」
というと
「え?マジで!?」
とこれまた驚かれます。スポーツカーとか好きそうと言われたこともあります。
「いや、私、携帯電話ほとんど使わないんですよ」
というと
「えぇ!考えられない!」
と驚く人と
「うわ、羨ましい」
という二つの返事がありました。
この返事は世代で変わるようで、若い人にとっては「考えられない」で、概ね30代以降は「羨ましい」ということがあるようです。
先日は
「東京生まれなんです」
と言ったら
「うぇえええぇぇ!!!??」
と激しいリアクションで驚かれました。いやいや、そんなに驚かなくても。
そして「そ、そうだったんですか。。。」とまるで裏切られたかのような衝撃を受けてはりました。イントネーションはすっかり大阪弁寄りになってますので、分からなくなってきているようです。どうせなら大阪弁が英語だったら良かったなと思います。そしたら私は今頃バイリンガルだったはずです。
ちぇ。
クスクスクスクス / 2007年3月29日
恋愛ごっこをしている話を聞いて、クスクス笑うことが多いのですが、本当に人それぞれです。いろいろな人達からいろいろな話を聞いてそれを糧にさせてもらっていますので、ありがたいことです。
なかなか壮絶なのから、単純に面白いことであったり、感動的なことであったり、様々です。
ときどき
「おいおいその立場同士ではヤバ過ぎるだろ」
なんていう恋愛も耳にしますが、他人事なので気楽なものです。
そういえば、週に二回は告白されるというメチャモテ極上美人女性から面白い話を聞きました。最近の若い子はメールで告白するというのです。ほう、メールで告白と。そりゃ楽なもんだ。で、彼女はメールで告白してくる人はその時点で却下ということです。最低でも電話、会って言うのが普通。それはそうでしょう。順序が逆になったとしても「会っては言えないけどメールなら言える」というのは、言っているとは次元が違います。
「恥ずかしいから言えない」とか「照れくさい」とか「わざわざ言うまでも」とか言い出したら、おしまいです。
さて彼女に告白した男性は、そのあと下駄を彼女に預けるということです。「好き」とだけ伝えてきて、しばらくしてから「あの、好きなんですけど・・・」みたいな。好きだからどうしたいと言えないようなのです。彼女は下駄を預けられたのをしっかり認識していますので、その様子を楽しみながら観察して、私に教えてくれるわけです。この手の男性は、感情的になったときなどに「前から言いたかったんだけど」とか「ボクの意見を無視して」などという言葉を吐きます。それも、まるで最後のカードであるかのように、ここぞというときに出してくるといいます。これって卑怯です。意見を述べずしてその意見に耳を傾けることはできませんし、言いたいことがあるならその場でその時に言うのが筋です。まるで今まで我慢してきてやったんだぞ的な物言いは、カチンときちゃいます。
ところで、そうやって下駄を女性に託す男性を、最近はマグロ男って言うらしいです。女に主導権を握ってもらってノコノコついていくだけ。
そして、雑誌が早速特集を組んでいました。
「今、マグロ男がモテル」的な見出しで。よくコンビニに並んでる「マニュアル本」の見出しに、そういう字が躍り、マグロ男が増えていくのです。まさかそんなことはないとはないとは思いますが、マニュアル頼りのデートコースやマニュアル頼りのファッションの人には、マニュアル頼りの恋愛になってしまうことでしょう。もうね、ほんとに雑誌は必死必誌なんです。部数が伸びないので、広告主は減っていきます。それで苦肉の策として各分野の細分化を行ったり、他のメディアと連動したり様々な企画をぶち上げて誌面を埋めて、とにかく出版部数の横ばいでもいいから維持を図らなければいけないのです。雑誌もテレビもなくなることはありませんが、市場の縮小に伴って淘汰が進んで先鋭化されていくことでしょう。ある種、黎明期と言えそうです。
昔はアエラやニューズウィークを購読してましたが、今や買っていません。パソコン関連の雑誌の講読も久しくしていません。本も、古本ばかりです。好きな作家さん以外のは新しく買うことはありません。たとえそこに話題性があっても、それは作られた話題という芝居なので、手に取りますが買うことはありません。
一世を風靡したガンダム世代やパトレーバー世代、エヴァンゲリオン世代が自由にできるお金を持ちつつある時代ですので、これから関連商品やリメイク商品はガンガン出てくるようです。エヴァなどは既にパチンコ台になってますので、幻滅です。
石原都知事が都知事で居られたのも、石原裕次郎世代のおかげというのと同じようなものです。作家の石原(名前失念)はまったく知りませんので、根本的にずれてます。
閑話休題。
いえ、題なんてありませんが。
まぁともかく、マグロ男がもてるかどうかは知りませんが、天然マグロ男が多いのは事実の様です。養殖モノではありません。天然モノです。いやー、親の顔が見てみたいとまでは言いませんが、全く理解不能です。
理解不能で思い出しましたが、私の「同志戦友伴侶」と私の関係も他人には理解不能と言われます。はじめは、他人に対して一生懸命に説明をしていたのですが、最近はそれもバカバカしくなって他人に理解を求めることをやめました。そもそも二人の関係は二人の問題なので、他人に理解できるわけがないと割り切ったのです。普通の人たちに理解できる関係では絶対にありませんし、理解されてたまるものかという反骨的な気持ちすらあります。
こういう関係はなかなかに爽快です。
マグロ男もマグロ男で爽快なのかも知れませんが、同じ男としては唾棄すべき嫌悪の対象にしかなりません。可愛い女性が優柔不断なのは可愛らしくていいのですが、男性で優柔不断なのは例え男前であっても、イライラしてしまい「これにしろ」と勝手に決めたりもします。
たまに、男らしいと乱暴を混同している人も居ますのでその点は要注意です。言葉遣いが荒っぽい場合は、その混同が見られるケースです。男なんて放っておいても男なのですから、いざというときだけ男らしければそれで十分です。普段から男男した男らしい男は男臭くてかないません。スポーツや格闘技なども男臭くて大嫌いです。遊びでやれるスポーツ(テニスとか水泳とか)ならともかく、ボクシングとか空手とかちょっと無理です。
私は潔癖なので、臭そうな人や本当に臭い人は苦手です。
夜の繁華街なんて呼吸できないほどです。
いやほんと。
そういう男の人と恋愛ごっこをしている女性の話は別世界別次元別価値観を教えてくれるので、興味深いものです。
ゴールデンウィークの過ごし方 / 2007年3月28日
海外にいこーっと、と気楽に考えて探してみたら、さすがゴールデンウィーク。繁忙期だけあって金額が跳ね上がっています。それも、通常の3倍〜5倍。3泊4日で5万のところが15万です。行き先は気にしないで探しまわりましたが、いずれも似たようなものです。
というわけで、海外却下。
国内となると、計画はあまり立てたくなくなります。
大雑把に、そうだなぁ京都を通り抜けて比叡山から日枝神社行って、その辺で一泊してから、琵琶湖を回って多賀大社までいって、あとはそのときの気分でどうするか考えようかな、と適当です。岩手からフェリーで2時間ほど行ったところに妙な島と神社があるらしいという話も聞きましたので、興味をそそられます。
ていうか、ゴールデンウィークですもんね、知られているところはどこに行っても混んでるんでしょう。
なので、誰にも知られていないようなところに行ってくることにします。宿や足の心配や手配もせずに行ってみることにします。
おお、想像したらわくわくしてきました。
ありえねぇありえねぇ / 2007年3月27日

学校を卒業しても何もせず家に引きこもっている人をニートと呼称して区別するようになって結構立ちます。アルバイトを転々とする人をフリーターと呼んで区別するようになったのはもうずいぶん前のことです。
「一般常識的」には、義務教育を終えたら就職するか高校、専門、大学、大学院などを経て「職業」につくのがあたりまえですので、そういった普通のことから外れるのを、反社会的といいます。親には親の親に対する立場や、世間に対する体面もありますので、自分の子供が反社会的といわれるのは具合が悪いので、基本的に進学させ就職させようとします。
なんでフリーターやニートが反社会的と言われるのかというと、税収源にならないからです。国民が労働して賃金を得てくれなければ、税金が徴収できません。安定的な税収が確保できなければ国家運営は見通しが立てられず、予算案なども作ることができません。アルバイトの場合、雇用側で勝手に源泉徴収などの名目で支払い金額を目減りさせていたりしますが、実際にはそのまま申告しているケースは少ないようです。ニートにいたっては、家族にとっては扶養控除の対象にはなりますが、国にとっては労働力にならないものは損でしかありません。アーティストもしっかり管理している人は青色申告して還付金が出るように調整していますが、それが面倒な場合は、役所に行って無所得申告します。
「無所得申告したいんですけど」
と窓口で言うと
「えっと、どうやって生活なさってるんですか?」
と聞かれますので
「ヒモです」とか「愛人です」
と言えば役所は深く追求しません。ややこしいですから。
この場合はなるべくそれっぽい格好で行ったほうが効果的です。
さて、確立された義務教育に一定の教養基準ができあがった昨今だからこそ、社会が成り立ち、社会が成り立っているからこそ反社会的な存在がある程度許容されるようになってきたのですが、社会は反社会的なものを糾弾することで一定の連帯感を生み出します。他者への優位性を持たせることで、現在の環境に満足させるという、いわゆる士農工商と同様の枠組みでもあります。差別の根源がここにあります。
「こうするのが一般的」
「これがあたりまえ」
という無難で普通で平坦であることが美徳だと思わされているのです。そういう一般常識の上に成り立っている社会というのはとても儚くて脆くて砂上の楼閣のようなものです。おとなしくて従順で人畜無害な社会です。牙も爪もあるように見せかけているだけのお芝居です。
そういう世の中がしっかり出来上がってから成長してきた若い人たちを見ると、夢の塊に見えます。その夢は自分で見ている夢ではなく、社会に見せられている夢です。その夢や行動、考え方に主体性がないのです。AだからBということしか考えていません。
面白いなと思ったのは、セックスの話です。
随分前になりますが、ある女性が「最近の若い子のセックスはみんな同じ」といいました。意味がわからなかったのでどういうことなのかを聞くと「アダルトビデオの見過ぎで、おんなじようなセックスをする」というのです。決まりきったデートコースに決まりきった台詞にわかり切った成り行きだそうです。
どうやら、一律の社会は教育基準だけでなく、そうした衝動的方面まで一律にしていっているようです。その話を聞いて大爆笑したのですが、どこまでも従順で勤勉な馬鹿を生み出していっているんだなというのを違う側面からも証明してくれています。
社会において「こうあるべき」「一般常識にのっとって」というのは社会性という意味で必要な場合はありますが、男女間において「こうあるべき」「一般常識にのっとって」という考えを持つのは、ただの恋愛ごっこをしているだけです。それに気づかず、そのまま進んで結婚して子供を生んで家庭という単位で社会の枠組みに取り入れられ、自分はそうじゃないと思いながらも歯車の一つになっていくのです。これは、一見とても幸せですが更なる幸せを知らないから、これで幸せと思っている幸せです。主観的に幸せを感じられるのならばそれで結構ですが、とても普通で当たり前で何の変哲も無い人生です。生まれ生きて来て、へぇ、それでよかったんだと客観的に勝手に思ったりはしますが、他人の人生なので深く言いません。私にとっては反面教師となってくれますので、むしろ感謝すべきですし、そうした一般的な人々がいるおかげで、反社会的な私でも生活していくことができるわけです。
これは私の大いなる自己矛盾でもありますが、人類の多様性であると一言で片付けることができる些細な話です。
何もかもマニュアル通りの社会や人生なので、操作も修理も捨てるのも簡単です。
頭だけで知った気になって、社会生活も恋愛もマニュアルどおりにやってりゃ誰にも嫌われずに済むでしょう。
私はマニュアルの存在は知っていますが、そんなものは遥か昔に焼き捨ててしまっていますので、マニュアルどおりにはいきませんので、悪しからずご了承ください。
夢の美術館 / 2007年3月26日
大阪コレクションズということで、国立国際美術館に行ってきました。平日に行こう行こうと1月から思っていたのに、結局時間もなく、最終日前日に慌てて行ってきたわけです。かなり混み合っていました。そりゃピカソやモディリアーニ、ダリにウォーホールと、聞いた名前が多いので混むだろうなと思っていたので、だから平日に行きたかったのです。しかし、なんかあれもこれもとしっちゃかめっちゃかに展示してありますので、無茶苦茶でした。
お目当てはマグリットです。マグリットなんてなかなか見られませんので、1点しか来てないことを承知で、これは行かねばというわけで雨の中でもとにかく行ったのです。キリコの作品も一点来ていたのは知りませんでしたので、行って正解でした。
行った甲斐がありました。
こういう美術展の常として、出口に画集やらグッズの販売があるので、キリコやマグリットもあるいは画集があるかも、と多少期待して行ったのですが、残念ながら全くありませんでした。ピカソやモディリアーニやらダリダリダリダリダリなんかはずらっと並んでいましたが、マグリットはポストカードが数点。キリコに至っては触れられてすらいません。
キリコはシュルレアリズムに大きな影響を与え、マグリットはシュルレアリズムを代表する画家です。キリコは形而上絵画と呼ばれる手法を確立させ絵画的シュルレアリズムに大きな影響を与えたのですが、本人は後にこれを否定していきました。また、マグリットはキリコの作品を見て強く感動し、シュルレアリズム的な方向に進んでいきますが、論理的シュルレアリズム運動のの指導者アンドレ・ブルトンは馬が合わなかったようで、シュルレアリズムというより自己探求的な方向に進んていったようです。シュルレアリズムやダダイスムなんて、今から見ると「へぇ」の一言で終わってしまいそうな観念的思想でしかありませんが、絵画で見るとまた違った印象です。
キリコはシュルレアリズムに影響を与え、マグリットがそれを発展させ、ダリがシュルレアリズムを商業的に活用した、という流れで理解しています。ダリは晩年に「私は拝金主義」と宣言していました。グラフィックデザインと芸術の境が曖昧になっていって「わけわからないよ」というのが率直な感想です。感覚的に、ウォーホールはアートではなくてグラフィックデザインです。あとは好きか嫌いかだけの問題なので、お金になるならないはこれまた別問題です。
マグリットだけの美術展を開いても、まず作品手配や会場手配のコストと来場者数でのあがりで計算したら、およそ黒字になるとは思えません。そこに話題性がないからです。ダリは知名度がある程度ありますし、話題性もありましたので来場者数は蓋を開けて見なければわかりませんが、最悪でもギリギリ黒になるだろうという見通しが立てられました。キリコとなればまず無理です。なのでこういうチャンポン展覧会でなんとか見ることができたのでしょう。
主催側としても頭が痛いところだと思います。
扱うものが美術品なので、保管や運搬はシビアです。そしてわかりやすい話題性が無ければ協賛もつきません。協賛がつかなければなかなか開催は難しいところです。
そういう現実的な話は、置いといて、マグリットはすごい人生を送っています。1898年生まれで1967年に無くなっていますが、生涯は極めて平凡でいわば小市民的な生活を送っています。本人が意識してそうした平凡な小市民を演じきったという生涯です。自身の変人性や変態性、嗜虐性などをよく熟知していたのでしょう。つつましいアパートに暮らし、幼馴染の妻と生涯を連れ添い、犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れることなく、夜10時には寝て、制作のときもスーツにネクタイ姿でイーゼルに立ち、専用のアトリエは持たずに台所の片隅で作業をしたといいます。また絵の具をこぼしたり、服を汚したりすることもなかったそうです。その人生と作品の対照がシュルレアリズム的を感じさせてくれます。ダリとは対照的です。
「シュルレアリズムとは何ですか?」
とインタビューアがダリに尋ねます。
「それは私自身のことだ、私がシュルレアリズムだ」
とのたまったダリとは実に対照的です。
マグリットが常識を知り尽くして、理解したうえでの静かなシュルレアリズムとしたら、ダリの場合は衝動的情熱的の勢いのシュルレアリズムと言えそうです。
きっと、そういうところでダリの作品は見ていて暑苦しくて飽きてきますが、マグリットのは飽くことなく眺めていられます。
もっとも、マグリットはベルギー人、ダリはスペイン人ですから、単純にこの辺の文化的な違いが生んだ差異と言えそうです。
やっぱマグリットの画集欲しいなぁとアマゾンで探しましたが、国内にはありませんでした。古書としてアメリカの書店がドイツから取り寄せて購入できるのがありましたが、49,800円ですって。。
なんと。。
薫風 / 2007年3月23日
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもんです。
外の匂いがすっかり春めいてきました。春です。桜です。毎年、桜が咲たびに狂うのが常です。目白通りをタクシーで通りながら、桜に目を奪われたものです。中学のときは桜を見上げて佇んだものです。家の裏の春日神社で、桜の木にもたれて読書をしたものです。大阪では我孫子にある某所の桜にあっけにとられました。事務所の近所の公園は素朴な桜を楽しませてくれます。
この時期は、牡丹に梅に桃に桜と花々が美しく目も気持ちも楽しませてくれます。
牡丹はあんまりこれといったイメージはありませんが、梅と言えば菅原道真です。太宰府に流され、祟り神として畏れられたり勉学の神として敬われたりしてます。大阪にも天満宮があります。桃は定番、邪気を祓う木です。イザナギが黄泉の国から逃げ帰る際に桃を投げつけたのが始まりです。そして桜。富士の頂からコノハナノサクヤビメが種をまき花を咲かせたから桜という伝説がありますが、なかなか素敵です。
桜の木の下には女性の亡骸が埋まっているいうのが頷けるほど、夜の桜は妖しく艶やかに光ってさえいます。
ただの妄想ですが、夜に見て妖しい花は桜ぐらいです。
先だって、夜の桃や梅を見にいきましたが静かでした。ところが桜は生き生きしてみえます。
そして、そうやって季節の移ろいに応じて花見だ焼き肉だと楽しみを見つけてワイワイやっている人たちを見ると微笑ましく思います。
呑めないので、見ているだけです。
社会に出て、春休みや夏休みなどの区切りがなくなってからは、こうした季節の特徴的な花が、時間の流れとそれに伴う変化を一番感じさせてくれます。年々歳々花相似たりです。
夢のための糧、糧のため夢 / 2007年3月22日
毎晩毎晩、飽きもせずに眠って、これまた毎晩毎晩、飽きもせず夢を観ています。観ているときもあれば見ているときもあります。自分でも呆れるほど、実に様々な夢を観ることまぁびっくり。
そういえば夢日記を書き慣れたころから、夢を現実を混同する様なことはなくなりました。あれは夢でのできごと、これは現実でのできごと、と確固たる自信を持って整理することができるようになりました。それまでは結構「あれは夢で約束したんだっけ?」「あれ、そんな約束してたっけ?」なんていうことがよくありましたが、最近は減ってきたような気がしないでもないです。客観的な評価はないので、自分でそう思っているだけなのかもしれません。
さて、それはともかく毎夜見る夢からいろいろもらってます。作品づくりの糧のために夢を見ているような気持ちになってきます。そう考えると、夢の糧のために現実があるような気がしてきます。現実で起こったことが糧になり、夢を見ています。現実という覚醒している状態があるから夢を見る状態があるわけです。
ある種、これもバランスです。
光と陰、生と死、陽と陰の太極的なバランスの考え方をすれば、覚醒と睡眠は同位と言えるような気がしてきました。
同位と捉えると、違う見え方が浮かび上がってきます。
それはともかく、現実も夢もそれぞれのための糧としてあるのならば、利用しない手はありません。こんなに手軽な糧はなかなかないです。夢を観るのは毎日のことです。その良し悪しは別にして、引き出しが増えるという意味では有意です。
わくわくわくわくわくわくわくわく / 2007年3月21日
今年のゴールデンウィークは4月28日から5月6日までです。
凄い長いです。
4月30日まで予定があるので、それ以降が実質的な休みとして利用できるわけなのですが、それでも6日間は休みです。久しぶりにまとまった本気の休みです。想像しただけで嬉しくて仕方ありません。ウキウキワクワクウキウキワクワです。
さーぁどこいこっかな!
3泊4日くらいを目処に東京に撮影旅行に行って、上田をまわるつもりでいたのですが、電車で多賀大社を詣でて日本海側の各神社や史跡を巡り、新潟から長野に入るのも、これなかなかオツです。そうしたら生島足島神社を経由して上田によって諏訪大社にお参りという道もあります。これはこれで魅力的です。東京はいつ行っても東京ですが、神社や史跡はともすれば無くなります。
困ったなぁ、悩むなぁ。ニコニコ。
大阪港からフェリーで九州入りしてい国東半島巡りも頭にちらつきます。
ほんとに困っちゃうなぁ。ニコニコ。
荷物持ち兼ドライバー(クルマ持ち)なんていうアシスタントが居たら、そりゃもう大変です。出たまま休みもお構いなしに、たまに帰ってくるようになってしまいます。日本は広いなぁ。
国外に目を向けてみましょう。
アイルランド。フランス。ブルガリア。チベット。あ、チベットは今は危険か。賄賂をいっぱい持って行かないとすぐに国外退去されてしまうそうです。
ああ、どうしよ、どこに行こうかな。そろそろ大雑把に計画立てないとなぁ。
と、考えているうちにゴールデンウィークが終わっていたりして。。
奇人変人常識人 / 2007年3月20日
紳士的、物静かな感じ、優しそう、とよく言われます。
人は見た目で判断するものです。
私は常識を知っているから自分の非常識さを誰よりも熟知して、それをひた隠しにしていますし、誰かに見せようとも思いません。自分の狂暴性をよく知っているから、それもひたすらに隠しています。喋るのが好きですが、口は災いの元と痛感しているからなるべく喋らないようにしています。
これを社会性と言います。
知らずに全部出したら、普通の変人ですし、ただの馬鹿です。
本当の変人は、それと悟られないように極めて慎重に社会にとけこむ努力をします。だから世間体も良く知っていて、細かいことを気にします。
他人から見て、すぐにそれとわかる変人では具合が悪いです。如何にどれだけ人目を欺けるかが重要です。己を知り社会を知り常識を知った結果、この方が非常に具合がいいことを身を以て知っているからです。
そうして世間を欺いていると、自分で思っているだけで、実は優しい世間が騙されたフリをしてくれているだけなのかもしれません。そうだとしたら、「いじわるだな」と少し思いますが、優しくてちょっと嬉しいなとも思います。
私は正道を行く常識人です。
あ、近しい人は上の限りに非ずです。いつも迷惑かけてごめんなさい。
思い遣りとエゴ / 2007年3月19日
相手の都合を考えて云々
相手の気持ちを考えて云々
言われた人の気持ちを云々
一般的には思い遣りと言います。
でもこれ、本当はただのエゴです。
「今は忙しいだろうから、電話しないでおこう」
という思い遣りを装った行為には「忙しいときにしつこく電話したら嫌われてしまうかもしれない」という気持ちがあります。それは、嫌われて自分が傷つきたくないという思いから生まれたものです。
全部そう。
自分を欺し、他人に対しても「自分は思い遣りのある善人」と思わせたい、ただのエゴです。それを一般的には思い遣りと言います。
会いたいなら会いたいと相手に伝えるのが誠意です。声が聴きたいなら声が聴きたいと言うのが誠意です。愛しているなら愛していると伝えるのが誠意です。欲しいなら欲しいと言うのが誠意です。それを受け取るか受け取らないかは、伝えられた相手次第です。相手が拒絶の意思を示せば、傷付くことでしょう。それが怖いから言わないで「思い遣り」という嘘で塗り固めた箱の中に気持ちを押し込めて、悩んでいるのです。
電話しても取れなければ取りませんし、取れるなら取ります。メールも同様です。それを勝手に解釈して不安になり自分の中で疑心を育て、思いこんで壊れていくのは、相手を信じていない証になります。
「そういうものだから」
「それが大人だから」
というのはいつのまにか勝手に作り出された「一般的な常識」でしかありません。人はもっともっと自由です。その目の前にある自由から目を逸らせて、大多数に合わせてぬくぬくと「そういうもの」「それが大人」と知った顔してスマートに生きている様を見ると、ニタニタと嫌らしく笑いたくなります。
そうやって時間だけ消費していって、あとで思い返して後悔するか、ただ思い出に耽るか、先の見えきった分かり切った人生です。もちろんそれも人生。そこで幸せを感じられる程度ならば、それは結構なことです。今はそういう人の方が多いようで、私の考え方を開陳すると「全然わからない」という反応が大体です。
エゴをエゴと知らずに持っていることは罪です。
エゴをエゴと知って持っていることは糧です。
分かってまき散らすエゴは、私のアイデンティティです。
キミのアイデンティティは何?
何がキミをキミらしくしているの?
キミって何?
キミはどうして生きているの?
八方丸くおめて、波風立てないのもいいのでしょうけど、そんな人なら居なくても同じです。人に嫌われ疎まれ、傷つけられ傷つけて、ドロドロになりながらもエゴを失わず直向きに自分の人生を盲目的に愚鈍に進んでいくのが、私の人生です。
大人になるというのは、死と同意です。
思い遣りと気遣いは全く別物なのでお間違えのないように。
法務局とか税務署とか区役所とか / 2007年3月16日
俗に、役所行脚と呼ばれる(嘘)やつをやってきました。
普段、縁が無い場所ですので、面白いです。
ちょっと前までは机の上にはデスクトップパソコンがあったのに、今は全部ノートパソコンになっているようです。一昔前のドラマとか見ると、机の上にはパソコンありません。普及の速さを物語っている気がします。
しかし、窓口からモニタが丸見えというのは扱っているデータ上、うるさくいう人も出てきそうですが、見えたところでどうってものでもないので、そんなもんなのでしょう。
お役所は未知の世界です。
お役所の仕事を昔していましたが、プログラムは「印刷して紙で納品」と言われ、仰天したことがありました。
「印刷したプログラムを見てもどうしようもないですよ」
と言ったのですが
「紙で無いと駄目なんです」
ということで、数千行に及ぶプログラムを印刷して納品しました。
まさしく未知の世界です。
友人が配管屋をやっていたのですが、東京の某区では区役所の隣の喫茶店で毎回談合するのが常だといってました。「こないだはおたくだったから、今回はうちで」みたいに。談合をして満遍なく仕事を振り分けるのも本当は大切なのですが、談合して自分のところばかりに仕事を取っていったり、他者を排除する動きになるケースが多かったので、問題になってきたのです。
あと、税金の無駄遣いに繋がってます。
年度末の工事などは予算の消費です。役所などは初年度の予算を使い切らなければ翌年度の予算は削減されますので、使い切る必要があると言われたことがあります。
いやーほんと、未知の世界です。
税務署の窓口前には、申し訳程度の病院みたいなベンチがおかれていて、そこで待たされます。しきりに貧乏揺すりをしている帽子をかぶった若者に、完全に待ちくたびれて放心しきって居るおじいさん。手続きがわけわからんと署員に当たり散らす作業着のおじさんと多種多様です。
どれもこれも未知の世界で、少しワクワクしました。
固い固い / 2007年3月15日
最近の若者に限らず、頭が固いなと感じることが多くあります。
10年以上前になりますが、私に彼女がいたとき、その彼女とは別の女性と喫茶店に居るときに電話がなりました。
電話の相手は男の友人です。
「今なにしてるの?」と聞かれ
「喫茶店でのんびりしてるよ」
「あぁ、彼女と?」
「いや、女友達と」
と答えたら、
「え?それって浮気じゃん」
と言われましたので
「わははははは、おまえバカか!」
と一笑に付したのですが、それ以来ずっと引っかかっている会話です。
その時、「浮気って言われたわ」と同席してた女性に言ったら、自分の彼氏が別の女性と遊びに行っていても気にしないという人でしたので、人によるんじゃないかということでした。
この件、極めて簡単なことです。
電話してきた彼は自分自身の行動を振り返って、私の行為を浮気と見なしたと考えられます。きっと彼はそういう経験があったのでしょう。愛も恋も一人にだけいつまでもと思いこんでいるのは、メルヘンでロマンチックで結構ですが、頭が固いと言えます。愛も恋も沢山あって楽しくあった方が、人生豊かです。
以前に書きましたが、恋は数が増えればそれだけ傷が付きますが人間に深みが生まれます。愛は一方的なので傷は付きません。でも数が増えればそれだけ人生が豊かになります。
さて問題は嫉妬という気持ちです。
たまに「嫉妬されないと愛されている気がしない」という話も聞きますし、嫉妬から生まれた犯罪も数多くあります。嫉妬というのは疑心です。目に見えない恐怖と同じで、勝手に想像して膨らんでいく感情です。その想像の元になっているのは、テレビや雑誌などの影響もありますが、多くは自分自身の経験から生まれていきます。従って、嫉妬心が強い人は、それだけ自分自身に対して疑心暗鬼になっていて、逆に嫉妬されることで安心感を得ているという寂しい人とも言えそうです。その嫉妬している側、嫉妬されている側の両方にあるのは信頼関係ではなく、感情の利害関係です。そんな関係は美しくありません。
そして、そんな自分で作り出した感情に振り回されて、犯罪にまで至るのは「愛は盲目」などとは言えません。
「今の電話、誰?」
「メール来てるけど(誰?)」
「昨日どこ行ってたの?」
これらの言葉は、自分への疑心からの言葉です。寛容に受け止めることができるならば、受け止めてあげるべきですが、本人が「自分自身への疑心」に気付くようにしてあげるのが一番です。結局は監視しているのに近い状態でもあります。自分の目の届かないところに行った相手に対して全く信頼をせずに自分自身の行動を省みて、疑心暗鬼になり想像をどんどん膨らませたその感情に「嫉妬」という名前を付けているだけのことです。
彼氏も彼女もペットじゃありません。
「嫉妬」はするもんだと思っている固い固い頭が多いので辟易することはありますが、そういうものなのでしょう。そういう私を考えを指して「究極の嫉妬」と形容した人が居ましたが、なるほどものは言い様です。嫉妬という言葉をどうしても入れないと気が済まないので、考えついた言葉と受け止めておきました。
どこで誰と何をしていようが、私は私であなたはあなた、という基幹がしっかりしていれば、それ以上なにが要るのは私にはわかりません。こういう私を「達観している」とか「あなたは自由だから」とのたまう御仁も居ますが、それは見当はずれです。「自分はあなたと違うから」と本質から目を逸らそうとしているだけに見えます。違う価値観を見せられたときに良くある反応なので、慣れましたがそう言われるとちょっとだけ悲しくなります。
ただ生きてそこにいて、会いたいときに会えればそれで十分です。他者との違いは、私は絶対的な味方だということです。
愛も恋も嫉妬も家族も常識も社会も、なんでも人が勝手に名前を付けてそういうものだと思いこんだ頭で接している事象に過ぎません。
頭が固いというのは、まさにこれです。
柔らかすぎるのも困ったことになりますが。。。
プチスピ / 2007年3月14日
最近のスピリチュアルブームをプチスピと言うらしいです。
それを知ったときは失笑したのですが、細い霊能者や演歌歌手志望だったカウンセラーとかがテレビに出ていて、スポンサーが結構ついているのを見るとどうやらそう言う風潮のようです。車内吊りの広告などでも、カウンセラーを叩いているものや霊能者をもてはやしているものなどの見出しが目に入ります。
叩くなら、カウンセラーよりさきに霊能者のほうだろ、と思ったりもしますが、テレビ的にあの判りやすいキャラというのが有用というのと、バックグラウンドの繋がりが見え隠れしていますので、カウンセラーの方が無難な上に、話題性があるというので最近のバッシングに繋がっているようです。
これについて美輪さんが良いこと言ってます。
「出版界というのは、その時目立っている人を叩いて部数を伸ばすもの」
これは美輪さん自身が過去に同じ目にあっているからこそ出る言葉で、説得力があります。あらゆるメディアからバッシングを受け、徹底的にメディアから排除されていた美輪さんにとって、メディアの軽薄さというのは良くも悪くも見透かしているからこそ、こういう騒動が起こったところで全ての利害がわかっているから言わずもがなと言ったところでしょう。そして「(スピリチュアルだろうが霊だろうが)最後に自分を救えるのは自分だけ」と言って、昨今の過熱気味の「プチスピ」にチクリと一言言っています。
ビートたけし曰く「化け物」の美輪さんですから、カウンセラーが本物だとか偽物だとかよりも、そういう視点に立って考えることができる切っ掛け作りが目的のようです。それが傾倒しすぎて寄りかかり、敬愛が信仰に変わって行くのを懸念しているのでしょう。プチスピも結構だけど、自分は自分以外で救えないと美輪さんが言うのは重みがあります。
三島由紀夫をもって「キミはボクに惚れないことが唯一の欠点だ」と言わしめた男です。いや、女か。あ、両方か。昭和の表の顔は美空ひばり、裏の顔は美輪明宏というイメージです。現代よりも遙かに保守的だった日本で早くも同性愛をカミングアウトし、激しいバッシングにあい「ヨイトマケの唄」は近年まで民放では放送自主規制対象にされていました。「土方」が差別用語ですって。最近は「差別問題」という言葉が差別的だから「人権問題」への言い換えが進んでいますが、アホらしくて筒井康隆曰く「失われていく豊かな日本語表現」の一つです。「おし」や「つんぼ」「めくら」「かたわ」などという言葉は、変換すらできません。筒井康隆氏は「てんかん」という言葉で揉めて、自主規制に走る出版社と臭いモノに蓋をする世の中に嫌気がさして断筆宣言に至ったのですが(現在は特定出版社と覚え書きを交わして執筆している)、差別的であるかないかは主観に寄るものが強いので、客観的な視点での単純な批判は論点がずれます。筒井氏が揉めた際に批判したのは人権保護団体でしたが、実際のてんかん患者は筒井氏を支持しました。
「おし」が駄目で「おし黙る」はいいというのは釈然としません。ハゲやデブも差別的用語だと言えますが、マイノリティとは言えないので、とりわけその言葉の侮蔑性が取り上げられることがないのは、差別の根源が他者より優位に立ちたいという卑しい気持ちにあるからではないかなと感じます。女性に対して何を言ってもセクハラになるんじゃないかという懸念と同じレベルで何を言っても差別になるんじゃないか、という懸念が生まれ、自主規制自主規制自主規制で無難に行く世の中でみんな平等よかったね、というわけです。
閑話休題。
美輪さんは浮き沈みの激しい人のようですが、今またこうして表舞台にカウンセラーを連れ出して出てきて、それをバッシングしたり持ち上げたりしているメディアを冷笑気味に見ているのが想像できます。
私が美輪さんを知ったのは13年くらい前、テレビCMに出演して、CMソングを歌っているのを見たときでした。その後、たまたま本屋で装丁買いしたのが美輪さんの本で、凄い人がいるんだなぁと思っていたのですが、最近は近しい人が美輪さんにずっぽりハマっていて、何かと耳に飛び込んできます。おかげさまで演奏会にも行きましたし、ビデオも見せてもらいました。シャンソンも蝶よ花よの「おシャンソン」を原語の意味に近いもっと泥臭い感情的なものであるというのをしっかりと見せてもらいました。
しかし、71歳であのバイタリティは恐れ入ります。
美輪さんのように浮沈激しい人生を送っている方を見ると、人生とはかくも長く険しく楽しく美しいものなのだなということを、全身で見せられている気がします。そしてそれをどう料理するのかは自分次第だということも、突きつけてくれます。
スピリチュアルも霊能も結構だけど、何事も自分次第です。
言い換えれば、宗教や絶対者、救世主に救いを求めるのは自分の人生を放棄していることと同意であるとやんわりと示してくれているのです。
こういうことを浸透させる地盤作りのために、分かり易い形でわざわざ江原さんをテレビに連れ出してバッシングされながらも続けていこうとしているのかなと感じます。
それならば、プチスピという言葉が生まれたのは一定の成果と言えそうです。
ていうか、目に見えない電子が行き来しているパソコンや目に見えない電波でやりとりしている携帯は使っているから信じられて、使ってない触れないものは信じられないというのは、ただ了見が狭いだけ頭が固いだけという気がしないでもないですが。そういう人の方が多いので、目に見えないものの話をするのは本当に慎重に相手を選びます。
それを、恐らくはバッシング覚悟で番組をやるのには、括られた腹を見せられる思いです。
しまった! / 2007年3月13日
と、昨日のブログを書き忘れていたことに気付いたのは、ベッドに入った午前1時過ぎ。しまったなぁ、すっかり忘れていたなーぐーぐー、で現在に至ります。
昨日は久しぶりに落ち着いた一日だったのですが、夜から夢中で作業をしてしまい、その勢いで日を越えていたわけです。とにもかくにもじっくりジワジワと物事を進めて行っています。すぐに結果に結びつかないと、モチベーションを失い辞めてしまうというのは良くある話です。まぁまぁ、そんなに焦らず、ローマは一日にしてならずです。千里の道も一歩からです。大げさに聞こえますが、何事も巨視的に考えることでモチベーションを失わないように防御することができます。これは、問題の先送りではなくて、物事考え方一つということです。
もっとも、人間関係は別です。
あ、こいつ駄目だわ、と思ったらさっさと見切るに限ります。その人を良くしようなどというのは、おこがましい考えですし、親でもありませんので、見切って次に行くに限ります。もっとも、それまでの信頼関係などがあればこれはまた別の視点になりますが、自分でずるずる行ってるなぁと感じる関係は無関係と同意です。建設的ではありません。建設的でない関係なら、そこに意味はありません。あとは他人との距離感です。
曇った目で見ていては、何も見えません。
見えていると思っているものは、全て輪郭が曖昧で判然としません。
とはいえ、そう簡単にいかないのもまた人間関係です。そこには情がありますし、人間同士です。そう思って翻意を促したり、様々な言葉を使って説いたりしたこともありましたが、結果としてなにかになったかというと、結局は何にもならず、あぁそういうものなんだな、と失望して諦めての繰り返しなわけです。渦中のときは辛いものですが、過ぎて思い返せばそのときに見えていなかったことも見えて、前後の脈絡と考え合わせて得心して、成長を得ます。いずれもそのための過程なんだろうなと自分を納得させることで、また次に踏み出して積極性を取り戻していきます。
あれこれといろいろ考えて、実行してみて頭を打って迷惑掛けて恥をかいて罵られて嫌悪され、それでもやっぱりその一瞬一瞬が自分にとって糧になっていて、瞬間瞬間が楽しいと感じられて、充実しているので、これでいいんだと思い直すことができます。
ようするに何が言いたいのかというと、昨日のブログを飛ばしたところで、それも脈々と自分という一連の繋がりの中の一瞬に過ぎないということです。
言い訳です。。
見つけたぞ / 2007年3月9日
悪夢の種類は人によると思っていましたが、これぞ悪夢という悪夢を見ました。その夢で目覚めたので寝起きは最悪でした。。
直接的な表現は差し控えますが、太郎(隠語)がいーっぱいでてきましたので、太郎の隠語の意味を知っている人なら、すぐに共感してもらえそうです。あー、おぞましい。
そんな夢以外にも、素敵な夢や楽しい夢も見ていましたので、いいのですがこの夢は無しです。
気持ち悪ぃょ。。
忙しいとどうなるのか / 2007年3月8日
忙しくてばたばたしてます。
広告デザインなどは、わかりやすさが求められます。この商品は何がどう良くて、という説明的なわかりやすさだったり、みんなも持っているから私も持ちたいと思わせるような訴求的なわかりやすさであったり、ものによりますが、もういう方向性です。
そして、世の中には「わかりやすい広告」というのが溢れかえっていき、わかりやすいのが当たり前になっています。
芸術は違います。わかりやすいものもあれば、わかりにくいものもあります。
広告は人に伝えるための手段ですが、芸術は自分の表現の手段です。従って、わかりやすい芸術は芸術的ではなく、広告的と言い換えることもできます。
さて、忙しくしてわかりやすいものばかり作っていると、自ずと自分自身の作品もわかりやすくしようとしてしまいがちです。ここで、頭を切り換えなければなりません。わかりやすいかどうかはともかく、出そうという猪突猛進的な発想に立ち返り、落ち着きます。
忙しくなくなったら、自分のやりたいことだけができるのかといえばそういうものでもありません。社会の歯車の一つになっている以上は、仕事をとってこなければいけません。そうして仕事が増えたら増えたで、忙しくて作品を作る時間も余裕もなく、あれれと気付けばもう60歳!なんてことにはならないように、気をつけつつ、少しずつジワジワと前進していくのが今年の目標、と年頭に書いた気がしますが、まさしくその通りに今のところは動けています。
先日、友人の知り合いに「親の臑をかじりながら絵ばかりを描いてる」という人の話を聞きましたが、素直に羨ましいなと思ってしまいました。いけないいけない、私は私、その人はその人、と羨むことをやめましたが、そういう環境があることは素晴らしいことです。そして、「親の臑をかじる売れない画家」と周りから見られていても、決して卑屈にならずにぶれることなく真っ直ぐ進めている姿勢は羨むものでなく、凄いと言うものです。
幸も不幸も、物事の良し悪しも、人の良し悪しも、わかりやすい比較対象があればこそ、より実感できるものですので、そういう環境の人の話を聞いて我が身を省みれば、私には手段が幾つも用意されています。ジワジワ前進すると言うのは、忙しいということを口実にしているだけなのかもしれないな、とも考えさせられます。
忙しいと余計なことは考えなくて済みます。
余計なことを考えなくて時間が進んでいくのは幸せなことなのか、それとも不幸せなことなのか、はたまたそんな幸とか不幸とかではなく、なんでもなく当たり前のことなのか、今はわかりません。きっと死んでからわかる類の問いなので、考えるだけ不毛という結論になりますが、いずれにしてもきっとこうして人のためにわかりやすい広告を作りながら、その不満をモチベーションに作品を作り続けていくのかもしれません。でも不満をモチベーションにした作品って、なんだかちょっと嫌な気がします。
それなら「失恋でできた作品」とかの方が、色っぽいじゃん。
「失恋をする度に良い詞ができる」
と何人ものアーティストが言ってますが、色っぽいじゃないですか。
これは、そう思っているうちが花なのでしょう。
スットコドッコイ / 2007年3月7日
温暖化もいよいよだなぁと騒がしいようですが、この温暖化現象はどうやら周期的にやってくる現象の一環のようでもあります。エコエコも結構ですが、エコエコ言って作っているハイブリッドカー、実は生産段階での二酸化炭素排出量が結構なもので、総合的にみたら、ハイブリッドカーに乗っていようが通常のカーに乗っていようが、結果は変わらないという統計があります。
「エコロジー」や「環境に優しい」をキーワードは「美容」「健康」と同様の煽り文句になりつつありますのでご用心を。どこぞの環境保護団体ではありませんが、大義名分があれば何をしてもいいということはありません。
地球が汚れて困るのは地球じゃなくてボク達ですしボク達の子孫なので、そういう視点で考えていきたいです。経済成長が正義だった時代は終わりましたし、力が正義の時代も終わりました。一昔前から考えたら、今はなんともシュールな世の中です。街中を見れば老若男女問わずに携帯と睨めっこをしながらら、耳にはヘッドホン。
さて、先日およそ8年ぶりの約束を果たし、およそ10年の時間の経過とその変化を改めて痛感しました。8年前に約束した場所は既に無く、別の場所でそれを果たした訳ですが、感慨深くもあり振り返るきっかけにもなりました。10年前、街中に携帯電話は溢れていませんでしたし、耳にヘッドホンというのも数は少なく、MDプレーヤーやCDプレーヤーでした。IT関係は1年が7年分に匹敵すると言われて、ドッグイヤーなどという呼ばれ方もしますが、実際は10年経った今でも根本的なテクノロジは大きく変わっていません。せいぜいCPUが早くなったり、HDやメモリが大容量になった程度です。いや、パソコンの話はどうでもいいです。そうして長い時間を経てようやく果たせた約束には意味があり、区切りであり、約束した相手とそれを果たせた私との間で、次へのステップになっているはずです。二人で、夢を見るように8年前のことを思い返し、お互いに良く変わったことにお互い感謝しつつ、どんな間柄でもこういう気持ちが持てるような人生であれば、それはとても幸せなんだろうなと感じた次第です。
8年前も、8年経った今も、変わらず充実していて満足を感じていますが、8年前よりも今の方が建設的で破壊的で創造的です。そして様々な手段を持ち、目的がハッキリとしています。従ってぶれること無く、寄り道はしつつも愚鈍な牛のようにひたすらその目的に向かって突き進むことができるようになってきました。
それが成長なのかはさておいて、そうして移り変わっていく様々な環境や関係を含めて、全てが私に有形無形の何かをくれているわけです。自分も相手も環境も、それと意識することはなくとも、結果として残っていく何かは時間が静かに堆積していくかのように、自分の中に確実に存在しています。そしてこれは誰しもにあるはずですが、それに気付いて活用できるかどうかは人それぞれですし、その良し悪しも人それぞれなのでしょう。8年前にはあったものが無くなっていたり、あるいはずっとそこにあったのに気付かずにいたり、見えなかったものが見えてきたり、世の中の見通しが良くなり世間を知り清々した気持ちになれるのは、いずれも時間の経過とその間の経験と、様々な出会いと別れの結果でもあります。その結果を改めて噛み締める区切りになったのが、今回の約束を果たしたときだったのです。
したり顔で偉そうになんだかんだと言うスットコドッコイの私ですが、きっと8年前からこうだったのでしょう。二人とも芯は真で変わることなく、一定の距離を置き、レールのようにどこまでも同じ方角に続いている関係です。
この清々しさというのは、きっと誰にも理解できないことでしょう。
しかし私は世の中が楽しくて楽しくて仕方がありません。
恋をする / 2007年3月6日
恋は下心で愛は真心とはサザンの歌詞ですが、良く言ったものです。
失恋の味をスキヤキの味とのたまった私に「失恋をしてみては?」と先の女性からアドバイスをいただきましたが、残念ながらそれはできない相談です。
さて、その彼女からいろいろ話を聞きました。
恋とは50%50%で、報酬を求めるものであり、愛は一方的で与え続けるものという説明をしてくれました。確かに、恋には失うという字が付きますが、愛には付きません。調べてみましたが、愛を失うことになる漢字は、辞書にはありません。
恋が報酬を求めるものなのであれば、恋には目的があるわけです。それが下心なのかはさておき、目的があるものが恋で、目的無く盲目的に一方的に与え続けるのが愛なのでしょう。そう考えると納得が行きます。恋愛とひとまとめにしたり、愛を題材にしたものが多くてゴッチャにしがちですが、恋は恋、愛は愛です。
随分前にシングルマザーから恋愛の相談を受けたときに「その男の人のこと愛してるの?」と聞いたら「好き」と返事が返ってきましたので、試しに「子どもは愛してる?」と聞いてみたら「愛してる」と即答しました。さてそれで今回のことと考え合わせてみるとわかります。子どもに対して彼女は何も求めていません。ただ健康であって欲しい、ただ居てほしいという気持ちしかありません。ところが男性に対してはあれこれと求めていました。
これを恋としましょう。
そして子どもに対した気持ちを愛とします。
明確に言葉の定義ができたところで更に考えてみます。
異性間であれ同性間であれ、どっちでもいいですがいずれも利害が生まれます。
「私はあなたにこれだけしたのだから云々」
「あの人は私のことを何も考えてくれない云々」
「ああして欲しいこうして欲しい云々」
そういう気持ちが少しでもあれば、それは恋と言えます。恋は恋した数だけいずれ失うのが摂理とも言えます。報酬を求めるにはそれなりの行為なり代償が必要ですが、それらはいずれも摩耗していき無くなります。飽きたり疲れたり無くなったり、と形は様々ですが、相手が応える前提のものは失うのが常です。
愛は、親が子に対して「愛している」と即答するように、そこに下心や報酬はありません。ただその気持ちがあるだけです。願わくばその気持ちを相手も同じように感じて、愛されていることを知ってくれさえすれば、満足という感覚ではないでしょうか。極めてシンプルですし、相手が応えようが応えまいが、そんなものは関係ないものなので、失うことはないわけです。
さて、そこまで考えていけば、私が失恋をしたことがない理由が見えてきます。
私は人にして欲しいことがありません。自分のことは自分でしたいですし、周りの人が自然で、全てが流れに乗って揺らぎながら動いていれば、満ち足りた気持ちになれます。悲しいことや辛いことがあっても、それも流れの一つと考えて吸収して次の揺らぎにうつっていきます。
従って、やっぱり失恋の味はスキヤキなんだな、という認識に落ち着くのです。
私が目指すのは、完璧な球体です。
多すぎず少なすぎず、ただコロコロと地球の上で転がっているだけの、完璧な球体です。なので、周囲はなるべく起伏が少なく、平らであることが望ましいのです。
たまの波も、過ぎてしまえば楽しいものです。
昨今の若者 / 2007年3月5日
昨今は体罰を暴力と同列に扱っているようで、やばいっすね、これ。おまけに大学は株式会社化されますので生徒=お客様などという扱いになります。これもやばいっすね。いやー、やばいことだらけでわらっちゃうっすよ、ええ。
なにがやばいのかがわからないあなたは、その時点で社会に従順に飼い慣らされているわけですのでそれはそれで幸せなのかもしれません。平等という名のもとに行われた義務教育は、悲惨な結果を露呈しつつあります。教育は最終的に国家の根本に繋がっていく重要な分野です。今のような状態を晒しつつ目を背けて「美しい国」などとのたまう坊やな首相には困ったものですが、坊やだから仕方ありません。とりあえず花を持たせて次の首相を、という思惑もあちらさんとこちらさんはお持ちなのでしょう。
殴られもせずに一人前面下げて新卒で採用されて、上司から怒鳴られて泣くなどというのは呆れかえるばかり。叱られるだけまだましなもので、叱りもせずに放置されていればいずれはクビです。社会に出たら皆一律に社会人です。他人のことをいちいち叱る義理もなければ責任もありません。上司は自分の部下に対して叱りはしますが、使えないなと思ったら叱って面倒なことになるよりも、入れ替えてしまった方が楽ですし効率的でもあります。会社とは全体で利益を追求する組織ですので、そういうものでもあります。
従って、叱られることがあるのは、学生のうちがせいぜいです。
ところが最近では小学生がご飯をおもちゃにしたからという理由でお尻をひっぱたいた校長が、その子どもの両親に謝罪させられるという珍事が起きていたり、これまた悪いことをして叩いたら、厳戒注意を受けたりと異常な事態が起きています。ご飯をおもちゃにするような子どもを育て両親は恥ずかしくないのかな?と疑問ですし、悪いことをしたら怒られるのは当たり前ですし、悪いことをしたから体罰を受けているわけです。私のときなどは何度殴られたかわかりません。殴られた側にしても、殴られるほど悪いことをしたから殴られることに覚悟はあるわけですから、そのときは腹が立っても反省はします。
まずいことに、教師のストレスの捌け口=体罰ということも実際にありましたし閉鎖的空間の教師業界というのは、そういう実態は事実としてあります。そういう温床があったうえで、体罰と暴力が同列に扱われてしまったのは、自業自得とも言えますが、最終的にそのツケが回ってくるのは子どもであり親であり家庭です。家庭での教育と社会性を養う学校教育の両方のバランスで成り立っていた一般常識的な教育が欠落していき、上司に対してタメ口を聞いたり正しい敬語が使えなかったり、言葉遣いが異常に悪かったりするわけです。「わかりにくいから、わかるように説明してくれ」と生徒が言いますがそれはその生徒の頭が悪いだけです。わからないから勉強に来ているのに、わかるように説明してくれというのは愚の骨頂で、その言いぐさが自分の愚かさを垂れ流しているということにすら気付いていないのです。何がわからないかもきちんと認識できていないのに、勉強はしたいというのは暇つぶしでしかありません。
某大学医学部教授の話では「学生の質が著しく落ちた」とのことです。
「ノートに取りたいのに、白板に言ったことを書いてくれない不親切な先生」「つまらない講義」「早口でわからない」
勉強をするための場所と環境を用意されて勉強をするものだ、講義に出席してやってるんだ、という気持ちがあるようです。信じがたいですが、当世の若者の姿勢というのはこれが普通のようですので、そういうものかと受け入れていくことになるのでしょう。
これはジェネレーションギャップとして、そういうものと割り切って考えていけばいいのですが、体罰と暴力を混同して曰く野蛮は危険です。暴力は理不尽なものです。その暴力が発生する理由がわかりません。しかし体罰は悪いことをした結果の応報です。これは自明ですし、その応報があるからこそ悪いことをしたんだということを知れます。体罰を野蛮と短絡的に結びつけている人は、自身を省みて、そういうことをしたことがある経験が実はあるのではないかなと想像できます。体罰は教育的指導ですが暴力は野蛮な行為です。この二者の違いを認識していないからこその体罰=野蛮という、それこそ野蛮な発想に繋がっているように思えます。そしてそういう人たちが教育者や親になっている世代です。
恐ろしい世の中です。
最低限の礼儀がなく、人間性を疑い、親の顔が見てみたくなるような、そういう人たちが増えました。悪気がなくてやっているなら、ただの非常識です。今時の子は甘やかされて育った結果、自分が一番でその場に合った言葉遣いができず、語彙も少なく、幼稚になっている、とは先の先生の話ですが、そういう人たちがこれから増えてくるのでしょう。
そして私たちは「最近の若者は」などと昔聞いたような愚痴が口をついて出てくるようになるのでしょう。
失恋の味 / 2007年3月2日
小島麻由美の歌で
「甘辛い〜想いが〜♪」
という歌詞があって「スキヤキかよ!」とツッコんだところ、横にいた女性がチラリとこちらを見てから
「そういえばあなた失恋らしい失恋ってしたことないわよね」
と言われました。
「そそそそそそそんなことはないよ」
と動揺を隠しながら答えましたが(隠せてない)、考えてみたら仰る通りでございました。失恋は恋をすることから始まりますので、常に恋をしている私にとってはそれは至難の業です。
失恋の話などはゴロゴロしてますので、そういう感覚をいまいちよく知らないままというのも、この際いいんじゃないかなと自己弁護しておきます。
だから、甘辛いのはスキヤキであって、失恋の味ではありません。
いろいろな人の失恋話を聞いて、想像をたくましくしているのも楽しいものです。
鋭い指摘には参りましたが。
楽しく、そして気持ちよく / 2007年3月1日
最近、音楽に対してストイックです。
と、今日思いました。
なんだかんだでら毎日1、2時間は練習して、音作りにスタジオにこもったりしています。これって結構ストイックじゃね?と気付いたのが今日なわけです。本当はもっと時間を使いたいところですが、睡眠時間、仕事の時間、食事の時間を除いた時間が練習時間、という感じです。
気持よくライブしたいし、楽しく音楽やりたいわ〜と思った結果、こうなったので、頑張ってるぜ感はありません。昔はあんなに辛かったチェロだって、なにこれ、楽しい!
あ、音楽をやる基本的な姿勢ってこれなのかも、と思えます。メトロノームと仲良くしながら、その音がスネアに聴こえてきて、楽しいのです。人に聴かせたり、技巧を磨く以前に、自分が楽しく気持よくできるかが重要なようです。
で、自分的に楽しく気持よくなれるには、基礎的な部分をキッチリ押さえて、そこから少し外れるその微妙な外れ具合いが心地いいので、結局、練習は基礎の繰り返しになります。
プレイして、その音を録音して客観的に聴くことで、弾いているときには気付かない粗や、ここはこうした方がいいかもというのに気付きますし、歌を入れることで、こっちのコードの方が歌いやすいとか、この音を入れた方が響きが気持ちいいとか、細かい部分に目が行ったりします。また、ギターじゃなくてベースを持って打ち込みのドラムと合わせてみると、自動的にベースの立場になって音を聴くようになりますので、視点が変わってとても面白いものです。
一つの楽器をやっていると、その楽器の立場からの視点でみてしまいがちですが、それぞれの楽器やボーカルなどを実際にやってみると、プレイするために聴いているその場所が各々少しずつ違うのがよくわかります。
例えば、ギターですとハイハットやスネアの音に耳が行きます。
ベースだとバスドラとスネア。チェロだと和音。ボーカルの場合は、和音のルート音を基準にします。これは多分プレイヤーによって大きく変わってくるのだと思いますが、ドラムとベースはリズムセクションと呼ばれ、全体の屋台骨になります。ここがしっかりしていると、上物と言われるギターやキーボード、そしてボーカルは非常に楽です。何も考えないで乗っかれば、勝手に合うのです。これがきっとビート感なのでしょう。
まだ若い頃ですが、昔々ものすごいストイックなドラマーとベーシストと一緒にバンドをやっていたことがありました。この二人のリズムは息がぴったりで、タイトなドラムにどっしりしたベースは安定していました。このタイトさの中に生まれる揺らぎがビートなのでしょう。今となっては美化された記憶なのかもしれませんが、その快感は覚えています。
チェロなどでアンサンブルをやる場合、楽譜が基本です。指揮者が居て、譜面をみながらその通りにきちんと音符を意識して演奏することで、指揮者がそれをまとめてリズム感を生み出していました。大人数でも不思議なことにきっちりと息が合うその感触を感じたときの快感は、今でも覚えています。「息を合わせる」と言いますが、チェロやバイオリンなどは弾き出す前に息を吸うのです。すっと息を吸い、はきながら弾くのが基本です。息を合わすのはまさしく文字通りです。
今でこそ頭で理解できますが、そのときは感覚でこういうものなのだなと理解していました。
バイオリンやギターは超絶技巧があって、それがわかりやすいので巧いと言われがちですが、超絶技巧の技というのは日々の鍛錬で習得できます。ギターだとスウィープピッキングなど、動きは地味ですがバッチリ決めたらカッコイイものです。こういう技は某スーパーギタリストに言わせたら「よう練習したなぁ」という次元だそうです。また、タッピングハーモニクスやライトハンドは「こけおどし」として効果的というわけで、飛び道具的な扱いというわけです。表現の手段として用いるのと、飛び道具として用いるのは別物ですので、エフェクタによる音色もそこは同様です。また、ボーカルにしても正しい音程や声の出し方などはどうでもいいものです。気持ちよければそれで良しです。音痴は気持ち悪いので駄目ですが。
正しい歌い方は、身体に負担をかけない歌い方です。最近はカラオケのおかげでポリープ患者が急増して注意を呼びかけているらしいですが、声帯に負担をかけた歌い方をすると、声帯が炎症を起こしてポリープを作ってしまいます。余計な力が入っていると、喉がしまって声帯に負担をかけるのです。余計な力が入っているかどうかは、座って歌うより立って歌うとわかります。気持ちよく楽しく歌うには、そういう基礎的な部分は大切になってきます。そうして歌えたら、自ずと気持ちも乗りますし、歌詞も届くことでしょう。
ところで、楽器をバックに歌って上手い人でも、カラオケで歌うとヘタなことは良くあります。カラオケは誰でもある程度歌えるように音がアレンジしてあるので、その音が邪魔して自分の音が取りにくくなってしまうようです。カラオケで歌って歌い慣れていても、楽器をバックに歌ったら歌えなくなることもままあります。音圧も違いますし、音色も違うので、カラオケとボーカルは別物と言えます。音を取るために基準として聴く音が違いますからね。
最近は、もっと楽しくという気持ちが嵩じて、なるべく譜面を起こすようにしています。バッハの無伴奏やヴィヴァルディの調和の幻想など、録音機器がなかったにも関わらず現代まで、その音楽を遺してきた楽譜のすごさを感じたのです。チェロのおかげでヘ音記号は読めますし、音符の意味は小学校などで普通に教わるものです。へ音が読めればト音でも読めます。あとはちょっと考えれば楽譜にできます。バッハ直筆のチェロ無伴奏組曲の楽譜があるのですが、かなり汚いです。でもこれが現代までこの曲を遺してきたわけですから、やっぱり楽譜は凄いです。
「楽譜が読めるとそれにこだわってしまって幅が狭くなる」というのは某主席チェリストの言葉ですが、確かに楽譜にこだわってしまいますが、それを知った上で記録的に利用するのならば、これはありかなと思えます。「楽譜が読める」というのは初見で弾けることを言いますが、私の場合は初見では弾けませんので読めません。でも書けたら便利だな〜ということで、自分の曲を少しずつオタマジャクシに書き換えて言っています。頭のトレーニングにもなってこれが以外と面白いですし、音を拾うには鍵盤の方が便利なので、ついでにキーボードも練習しながらです。
CDEFGABCとスラスラ言えても、この逆はちょっとすぐには言えません。ドレミファソラシドで教わってますので、CBAGFEDCとスラスラ出てきたら、これまたキーチェンジのときとか便利だなと、自分が楽できる様にしていっているわけです。勉強というよりも環境の整備といった感じです。
上手いとか下手といった基準や評価は、他人に求めるものではなく、自分で客観的にその音を聴いたときにどう感じるかになるものです。自分で評価できないようでは、ある人から下手だと言われて辞めようかなと思ったり、他の人からカッコイイと言われ続けてみたり、不安定になり、それが音にも出てきます。結局、自分の中にきちんとした評価基準を持てるようになるのが重要で、そのためにはいろいろな音楽を聴いたり、様々な人の価値観に触れたりして、自己評価基準を磨くことになるのかなと思います。というのは以前に書きました。
声はみんな出せますし、その声はみんな違います。響き方は十人十色で、「似てる」声はあれど節回しが違ったりニュアンスが違ったり、とても個性的です。そして日常的に使っていますが、楽器にもなるのです。どうせギターやってるなら歌えたらもっと楽しいじゃん、ということで最近は歌っていますが(一人で)、おかげで腹筋や背筋が鍛えられて腰回りが引き締まりました。いろんなボーカリストに話を聞く機会は幸いにもあちこちでありましたので、コツは知っていますし身近なボーカリストにアドバイスを求めることもできます。環境は整っています。そりゃ歌って楽しいしどうせ歌うなら人の曲より自分の曲です。その整った環境を最大限に有効活用させてもらって、音を楽しむスタンスを貫いて行きたいものです。
そうはいっても、音楽だけで食べていく度胸はありませんので、仕事はします。