大阪迷宮物語 / 2007年6月29日
今月は書き散らした感が拭えません。ページのタイトルは日記ですが、リアルタイム性もなければ主観性も曖昧なので結果的に書き散らした感が、こう、ね、醸し出されているわけです。普通のブログ的に書こうにも、毎日同じ場所に座って人に言えない仕事をしていますので(誤解してね)何も書けなくなります。うそ。何でも書けます。いくらでも作れます(作る?)。
多分、五月六月は土日や休日でも書いていたと思いますが、調子は変えずにもうちょい気紛れにします。と、言いつつやたら律儀に一日一回更新しようとしてしまうのは性格かもしれません。大雑把なくせに細かい言わば意地のような部分は頑なに守ろうとするあたりとか。
ところで、先日大阪梅田にある日本屈指の地下迷宮と呼ばれる梅田第一〜第四ビル地下街散策に行ってきました。四つの区画に四棟のビルがあり、その地下一階と地下二階はフロア毎に全て繋がっていて広大な地下街を展開しています。普通、地下街は直線同士の交わりで構成される物です。ところが、この地下街は斜めの道が多用されています。そして、細い。さらに天上が低い。
一応、看板類やビル案内などもあるのですが、多くの店舗が閉まっていて異常な静寂を放っているかと思えば、人は多いくせに人間の声が異常に少ないゲームセンターとか、客引きの声なんかも聞こえては来ます。やたらと多いのはサラリーマン。ゲームセンター居た人は、全員スーツでした。
お店は飲食店と金券屋、パチンコ屋が元気よく、新地という繁華街がすぐという立地からか花屋も点在していました。中古CD屋は幾つかありましたが、品揃えが豊富過ぎるためか、お客さんが異常な集中力でちょっと怖かったです。あとはだいたいシャッターの壁。
ここへ来たそもそもの目的は、古書店が集中しているという話を聞いたからです。
それはどこだ!と探しまわっていたのですが、これが見つけるのに一苦労です。まず北に二百歩、東へ二十歩。そこで「足元を調べる」とすると、「遠くで何かが外れる音がした」と言われますので、そうしておいてから元の場所へ戻ると鍵が開いているわけです。金券屋の裏の細い路地に手作りの段ボール看板がチラリと目の端に見えて、慌ててみてみたら「古書街この奥!」と手書きされていました(これはマジ)。絶対これ気付かないって、という本気で迷宮です。具体的には梅田第二ビルの地下一階。。地下二階。。だったかな。。。自信無しです。もう一度行ける気がしない場所です。行くこともそうなさそうですが。
しかしこの地下街。絶対迷うように作ってるとしか思えない。
点点点天点点点 / 2007年6月28日
ほら、みてごらん
落ちてきたこの時間は点
落ちて同心円を描いて面が見える
これが空間
この連続が今
ほら、もう次の今が来た
さようなら、さっきまでの今
もう過去だ
ほら、みてごらん
ぽたりと落ちる点
落ちて広がる同心円
それが淡々と繰り返される
ただ淡々と
落ちる点は無色
広がる面は透明
過ぎた今は彩り鮮やかにしよう
どんな今も過ぎれば自分がそこに居た証
過去は彩り鮮やかに楽しめた方がいい
ぶよぶよの水風船 / 2007年6月27日

ふらりと梅田からJRの高架沿に東回りに歩いてみる。
汚い。
着飾ったゴテゴテした女や、香水を巻き散らした汚い男。
道に捨てられたゴミ達。
嬌声を上げるカップル。
彼等はおれと逆方向に進んで行っている。
喫茶店があった。入ってみるが客はいない。
三線弾きのおじさんがいう。
「大病を患いましてね、
生死の境をさまよいましてね、
このまま死んでも死にきれないと思いましてね、
全部辞めましてね、
今はこれだけしてましてね」
その過程が必要だったのか。
それが周囲へ納得させるための手段だったのか。
喧噪の中、地下へ降りる。
「ねぇ、みてみて、あたしお手玉うまいねんで!」
五つの水風船を見せられる。ぶよぶよの水風船で器用にお手玉を始める。
一つ割れた。
二つ割れた。
三つ割れた。
四つ目と五つ目はおれが奪って割った。
「ほら、これでもうお手玉をすることもない。できない」
さぁ、涙を見せろよ。
列車に乗った / 2007年6月26日
工場地帯
古い長屋たち
新興住宅地
並走して走る国道
アパート
新しいマンション
公園
こんもりした森
寺
墓
瓦の家
駅
工事現場
壊される集合住宅
白い壁の家
坂
巨大な工場
川
ひらけた空
鉄塔
黒ずんだ橋
大きな赤い広告
山
山
谷
谷
トンネル
笹藪
ショベルカーの群れ
コンクリートで覆われた山肌
あらわになった土
トンネル
綺麗な川
うちすてられた家
苔だらけの壁
空を映すたんぼ
長い長い電線
地面を走る列車
無駄に広い駐車場
選挙のポスター
ひらがなの馬鹿みたいな名前
小さな駅
出発を告げる笛の音
空を大きく飛ぶ鳥
赤い小さな花を沢山つけた木
土蔵が並ぶ家
実り多い畑
お地蔵さま
ひっそりと流れる小川
きっと素敵な駅。
ズガガガガリガリガリドカドカドカ / 2007年6月25日
朝からずっとズガガガガリガリガリドカドカドカベリベリベリベリと外から聞こえてきます。ときどき、カーン、カーン、カーン、カーンと何かを打ち込む音。
上から見てみると、ショベルカーがガクガク動きながら、それでも丁寧にアスファルトを引き剥がしています。引き剥がしては後ろに移動して、アスファルトの山を丁寧に少しずつトラックに乗せて、といった作業を繰り返しています。作業員たちは、瓦礫を集めてトラックに乗せています。
解体撤去作業のあとは、基礎工事が始まります。
ズガガガとかドカドカとかベリベリとかは、窓を閉めればいいのですが、低い重低音が困りものです。低音は音というよりも振動ですので、窓をしめていても響いてきます。これがキツイ。。
ていうか、1年半も工事するんだって!
去年、2年半の工事が終わったところなのに!!
ちょっと本気で自分だけ工事が終わるまでの避難場所を検討中です。
コウジキライ。
コウジキライ。。
日曜日の大阪 / 2007年6月24日
もうマジ本気でやっぱり異文化です。この府は。いや、府というより国です。知れば知るほど違いを知って驚愕しているわけですが、さすがに慣れたとはいえこの特殊さは際立っています。
日曜日の午後、日本一長いらしい天神橋筋商店街を歩いていました。天満宮が近い場所なので金髪の観光客がチラホラ見受けられます。その横を一人で怒鳴り散らしながら歩いて行く極めて普通のおばさん。え!?なに!?と見たら目が合いました。
「山で熊に遭遇した際に生き残るためには、熊と目を合わさないこと」
という言葉が脳裏に蘇りましたが、おばさんの目は焦点が合っておらず、そのまま素通りしてウィンドウショッピングを始めました。な、なんだこいつ。。ラリってるのか。。
驚きながらも歩いていると、比較的交通量の多い四車線道路に出ました。そこを、埴輪顔したおじさんが自転車で横断歩道を渡っています。右に左に信じられないくらいものすごいフラフラしながら渡っています。ていうか、そのまえに歩行者側の信号赤です。車はおかまい無しにガンガン走ってるし、警笛ならしてるし、見てて怖いし。ハラハラしながら見ていたら、横断歩道を渡り終えたら自転車は真っ直ぐに進みだしました。な、何がしたかったんだ。。
こういう商店街では子連れの家族はデフォルトです。基本です。小道具です。子供たちの嬌声というのもSEです。サウンドエフェクトです。効果音です。でも本屋では喧しいなと思います。思っていたらそれに輪をかけて大きな怒号が飛んでました。
「おどれら静かにせんか!もうなんもこうたらんわ!」
え?と思ってみたら、どうやら母親のようです。ひぃ、お母さん怖い。。と感じたのは私だけのようで、子供たちは相変わらず賑やか。
「ええかげんにせぇやじぶんら」
「おかんだけずるいわ!」
ちょっ、それ、まって、なんかちがうと思う(汗
親子の会話じゃない(怖
道ばたで座り込んで、大声で携帯電話と喋っているのはスエットを着たおじさん。
親子とおぼしき二人が、シャッターの閉まった店の前に、明らかに勝手に店を広げてどう見ても拾って来たものを売っています。売っているというより、並べてぼんやりしてます。
喧噪だけは一人前なのに空っぽのゲームセンター。
アダルト専門の中古ビデオショップ。
演歌専門のレコードショップ。。と思ったらカセット。。あれ?楽器も置いてる。ギターにハープに三味線にフルート、バイオリン、タンバリン、サックス、て随分バラバラだな!洋服まである!なんだここ!何屋だ!うわ!レーザーディスクだ!久しぶりに見た!
ここはどこだ!(壊
二ヶ月 / 2007年6月23日
この二ヶ月、春が終り連休があって梅雨が来てやがて夏になります。やたら濃縮された二ヶ月でした。季節だけではなく、身辺も濃縮されています。そういう時期なんだろうな、と焦らないようにしていたらのんびりしすぎてしまいました。
それでもやっぱりできることからコツコツとやっていかないと、いつまでたっても状況は変わることはありません。一ヶ月や二ヶ月で出る結果は一時的なものでしかなく、継続性がなければ意味がありません。
焦っても状況は悪くなるだけです。
落ち着いて、手持ちのカードを整理して一枚ずつ切っていきたいと思います。
クスクスクスクス / 2007年6月22日
赤い部屋でなくしたピアスが笑う。
雨に濡れた道路の先は開かない郵便受け。
郵便受けの中では換気扇が回っている。
コーコーコーコー
今日は全ての音が神経にいちいち障る。
好奇心旺盛な馬鹿は見たがりの盲め。
風呂の家も見えない大きく太った貴婦人は
苦しそうにため息を吐く室外機。
ねぇ、みてみて。
自転車でわざと水たまりを走る婆がいるよ。
コーコーコーコー
覚えの無い記憶で腐った太陽にジュースをこぼした。
巨大化した三人のサラリーマンは恥ずかしそうに
ビルの影に隠れて転職を考えだした。
お揃いの革靴に気色の悪いストラップ。
コーコーコーコー
地下鉄の埃臭い爽やかな都会の風は列車の到着を知らせた。
轟々とわざとらしい音を立てるそれに人々は呑み込まれていき
埃臭い爽やかな風と共に暗闇に消えて行く。
臭い。
空白すっぽり緑に橙 / 2007年6月21日
一時間と少し、ぼんやりと公園で過ごしました。たまたまそうなってしまって、近所に喫茶店もないし、公園でいいか、と降って湧いた空白の時間を楽しむことにしました。夕方で風は涼しく心地良く、遊ぶ子どもたちの声も騒音ではなく、公園の一部です。頭上の藤棚は瑞々しく繁り、整備された公園の中にあっても自我を出してあらぬ方向へ蔦を伸ばす姿には力強さを感じます。
ビルとビルの隙間から見える矩形のわずかな隙間から見える雲は流れていく風を見せてくれます。雲は徐々に染まり行き、夕刻が近いことがそれと伝えています。
ああ、こんな空白も悪くないな。喧騒は喧騒ですが、生い茂る木々の中では豊かな葉が音を吸収し、むしろ少ない木々でも森閑さを際立たせてくれます。
フと視線を感じ、元を辿ると猫と目が会いました。身じろぎせず、植え込みの中からじっと私を観察していたようです。他にも何匹か居て、寝ています。ここは猫の公園です。そうしてしばらく見ていたら、植え込みから出てきて近くまで来てまた座り込みました。
上空からは何匹ものカラスの鳴き声が聞こえてきます。
やがて暗闇が公園を侵食しだしたころ、街灯が灯り始めました。目の前の街灯は、いまいちピリっと点灯できずにチカチカと大変そうです。
元気に響いていた子どもたちの喧騒も気が付くとなくなり、キイキイと鳴るブランコの音だけが聞こえていました。若い女の子がブランコに乗りながらメールをしています。高校生のカップルの姿や、ブランドに身を包んだOL達がけたたましく通りすぎたり、疲れた背広を引きずる男性が歩いて行きます。
公園の前の幼稚園からは、母親に連れられて帰っていく子どもたちの姿が見受けられます。
さっきの猫は巡回の時間なのか、静かに立ち上がると植え込みをぐるりと歩きにいきました。そのときを狙ったかのように、カラスが舞い降りてきて、地面をしきりにつついて何かをくわえてパリパリと噛んでいました。
「何食べてるの?」
と話しかけてみましたが、ちょっとこっちを向いて首をかしげてから、また地面に夢中になってしまいました。
四角い空を見たら紫になっていました。
やがて紺色になります。
高く蒼く速く / 2007年6月20日
空の極みへ。
まぁそう言うなよ / 2007年6月19日
できることから一つずつ。
焦っても急いでも。
弛んでものんびりでも。
それが自分の速度なら、どっちでもいい。
ボクたちの相手は時間じゃない。
社会や世間や他人でもない。
写真だけ / 2007年6月18日
今日は写真だけ。
どうか安らかに。
要するに / 2007年6月17日
こんな風景。
停車駅は「利益」「生産性」「効率」
終点は「保険」
キミはこっち来ちゃダメだよ。
絶対に来ちゃダメだ。
つぶなみゆれる / 2007年6月16日
つぶとつぶがくっついて
なみとなみがゆれゆれて
ゆれとゆれとが重なって
またたくあいだにまたゆれる
ゆれているから重なって
ゆれているから離れていく
ゆれているから
「それなら最初にその揺れを起こしたのは誰なんだろう」
「それはね、あたしよ。そして、あなた。自分の中に自分を見付けたときに、揺れが始まったのよ」
「それじゃ、ボクが死んだら全部なくなっちゃう」
「揺れが始まったら、死ぬことも揺れの一つよ。揺れるためにここへ選んで来たのを忘れたの? あなたが死んでも何もなくならないわよ」
ゆれのなかには
ゆれがある
ゆれがゆれて
ゆれをつくり
つぶが動いてカタチをなす
「それってどんなカタチなんだろうね」
「きっとあなたが望んだカタチよ」
「ボクはこんな醜いカタチは嫌い」
「それはまだ途中だから醜く見えるんじゃないの?
そんなにすぐカタチに成せるような単純なものではないのかしら。焦ることはないわよ。時間は永劫、時間は一瞬。焦れば焦る程に時間は短くなる」
ゆれのなかにはつぶがある
カタチのなかにはゆれがある
ゆれのなかにはなみがある
離れているから重なることを望む
重なるときがあるから離れることを望む
「ボクはすぐに成したいんだ」
「それならもう成しているのよ」
「この醜いカタチが?」
「醜く見える? 落ち着いて良く見て。あなた、なにかと比べて醜いと思ってるの?
醜く見えるのはあなただけかもしれないのよ。何とも比べないで受け入れる心を持つのは美しいと思わないかしら」
ゆれてゆれてゆれゆれて
ゆられてゆらいでくるくるまわる
まわるゆらぎは見れば無くなり見なければ在る
わかっていて繰り返す愚と打算の先 / 2007年6月15日
「またやってもうたわ。。」
と連絡がありました。爆笑してやりましたが、そもそもヤバい橋を渡っていると自覚しながら先に進み、その橋が頑強ゆえに橋から離れられずにいる様は打算的です。
当の本人はそれをしっかり認識していて、それでもつい進んでしまう「いつものパターン」とわかっていて、笑い飛ばしてくれる私に連絡してきたようです。
最後は「なるようにしかならないけど、なにかなってしまうのも困るし、立場や利害を考えると前にも後ろにも進まないのがいい」という結論に至っていましたが「それ以前に二人が素面の時に話をしたほうがいいぞ」と我ながら的確過ぎるアドバイスをしました。酔っぱらっているときしか会ったことがない方がおかしいです。
「それやねんな〜、言われると思ってたわ。お酒って怖い、あははは」
いや、あははじゃなくて。
「一年前の誰それとの壮絶な恋愛を今思い返すとアホらしくて」と、のたまっていましたが、多分今やってる関係も終わってから過去になって思い返したら同じ感想を言うんじゃないか、と感じましたがそれは飲み込んで、去年は凄まじかったなぁと返事をしておきました。
「あれだけ大変だったのに何も得るものなかった」
ということだそうです。
こういうのも不謹慎ですが、恋愛譚は同性より異性から聴く方が非常に興味深く聴けます。現実的な視点で考えていますので、内容がしっかりしています。そしてその恋愛が終わって数ヶ月して、後日談などを聴くと結局終わったときから男の方は全然変わっていないというのは往々にしてあるようで、やっぱり終わらせて正解だったという結論に至っています。もちろん逆のケースもあります。
恋愛で得るものってなんなんだろうなと考えたりします。客観的に見させてもらっている私としては多々得る物はありますが、当人達は疲れ切って得た物があったことに気付くのはずっと後になったりします。具体的には人それぞれなのでわかりませんが、渦中にいて得るものを既に得たと気付いたとき、その恋愛は終わりかもしれません。それとも、何かを得ようとする恋愛は恋愛ではないのかもしれません。いずれにせよ、人ごとや過去のことなので聴いていられます。
それにしても、あちらこちらからこうした話を聴く機会はありますが、総じて男も女も怖い。それで、自分は傷付きたくないから距離を置きます。私には本心も本音もなにもありません。常に本音ですし常に本心です。ときどき「それは本音?」とか「それ本心?」と聞かれますが、隠されていると思っているのは無い腹を探っている卑しい気持ちを露呈しているだけです。私が興味が有るのは、他者の経験譚を聴いた結果の自分です。自分以外に興味はありません。そこには自分を構築して来た人々や既にアイデンティティになった人も含まれていますが、それ以外に興味をそそられることはあんまりありません。知識や智慧に貪婪で、他人は他人と割り切ってしまっているのは、卑劣な自己防御で、それが周囲からみたら冷静だとかドライだとかいう感想に繋がっているのです。
まぁなんにしても、そのときに何もわからなくても、時間が経ってから見えるのが過去ってものですので、流れる時間は内側からも外側からも観ておかないと、もったいないんじゃないかなと思います。
天に坐します我らが神よ / 2007年6月14日
「あたしにとって、他人なんてあたしに刺激をもたらして、糧となるだけの存在でしかないのよ。あなたもその色々な人の一人よ」
「キミはひどく自己中心的な考え方をするね」
「ええそうよ。だってあたし、そうやって糧を得ているから生かされてここにいるんですもの。あなただってそうでしょ。それを自己中心的な考えと言える?」
「自分たちが生きるために動物を殺し、その肉片を食い、草木や山を壊して街を作り、生活を守るために国ができ、維持するために使えるものを片端から使っているボクらはみんな自己中心的なのかもね。キミは潔いと思うよ」
食べるために買った魚。
飼うために買った魚。
目の前の道路に転がる鮮やかな肉片は、さっきまでは可愛い仔猫。哀れとは思わない。ボクはそれを抱き上げて、穴を掘り、埋める。肉片は土に還り、他の生き物を育む。流れる涙は糧をもたらしたことへの感謝の涙。
哀れみこそ自己中心的。
食べるために買った魚。
飼うために買った魚。
「あなた、飼うために買った魚と、食べるために買った魚の違いはわかる?」
「違いなんてない。食えば血となり肉となる。飼えば心の血となり肉となる」
「それじゃ、猫は?」
「飼えば心の血となり肉となる。死んだばかりの猫も、すでに固くなった猫も、この手で土中に埋め戻せば、土に還り他の生き物の糧になる。そしてボクは直截的に死を学ぶ」
「それじゃ、あなたは?」
「糧をもらう他の生き物の一部だ。地球の一部だ」
「それで、ひどく自己中心的な考えはいけないことなのかしら?」
「それを知り感謝を知れば、こんなに幸せなことはないと思う」
「そうよ。自己中心的で例え誰かを傷付けたとしても、それも糧。傷付けられてもそれも糧。傷付けないとか、他人に迷惑をかけないなんていうのは、自分の思い込み。それこそ自己中心的な偽善者よ。自分ではそう思っていないだけで、生きているだけで他人を傷付け迷惑をかけるのが人間でしょ。それをどう受け取るかは、受け取った人の心。だから許し合うことから始まるのよ」
他人を責めるのは容易い。他人を許すのは難い。他人を許すのはその人のためにならないなんていうのは偽善だ。
「キミは誰だ?」
「あたしは人よ。人は人を裁いてはいけない。人は人を許さなければいけない。同じなのよ、何もかも。法の名の下、神の名の下、裁きを下す存在は己を否定している愚行の具現。そして再現」
「許すことで自分の血とし肉とし糧とする。したいと願う」
平和は戦争を生み、戦争は正義を生み、正義は悪を生む。
正義は正義であるために悪を生み続ける。
悪は悪であるために正義と対立する。
平和を願うために戦争を続け、戦争が続くから平和を願う。
全てをつなぐ意図は金という名の糸。
その糸を操る意図を持った人が、全てを許すとき。
金は糸の意味を失い、瓦解する。
金は物。意図は人。人は心。
全ては心の有り様。
「ねぇ、世の中の物や人や自然に意味付けして美醜を感じるのは、人だけでしょ。人にあるのは心だけだとは思わないかしら?」
「うん、心を無くせば人は獣だ。世の中の一切が虚無になる。でもそれを感じる心はどこにもなくなってあるだけの世界が広がるだけ」
「それじゃ、どうしてあたしたちに心があって、感情があって今ここにこうしているのかしら。あなた、本当に神様が居て、わざわざ心を植え付けていったなんて思ってないでしょ。もしそうだとしたら、あたしたちはみんなシャーレの中の粘菌と同じよ。粘菌に心が生まれたら、怖いと思わない?」
くすくす笑いながら言う。
「でもね、あたちたちは粘菌じゃなくて人に入った心よ。ちょうどいい器だっただけのこと」
「心って何?」
「目には見えないけど、それがあると認識できるもの。でもその認識はバラバラのもの。そしてわざわざ別々になってここへ来たもの」
食べるために買った魚。
飼うために買った魚。
違いは糧になるまでの過程だけ。
感じる心がその違いを知る。
違いを知るから理由を求める。
求める理由は近過ぎて見えにくい。
虚飾マーチのエンディングはクレッシェンドで / 2007年6月13日
思い立ったら行動する。
そうしていたらいろんな人を傷付けた。
知らずに裏切った。
知らずに迷惑を掛けた。
罵られた。
人を傷付けたくないし、傷付けて自分も傷付くのはイヤだから、思い立っても行動には移さず、夢想するだけにした。
ある人は言う。
「直感に従って動きなさい」
その言葉は安心感をもたらしたが、客観は客観でしかないから言える言葉だと冷静に分析して計算している自分を見て、嫌悪感を覚えた。
「直感はメッセージだよ」
そんなことは昔々から知っている。
そしてその結果も知っている。
そう思っていたら、後ろを歩いていた人の喋り声から「メッセージ」という単語が聞こえてきた。ボクの直感は今が間違っていることを言う。この先は奈落だと言う。だから悩む。暗示的であろうと、恣意的であろうと、結局は受けとるボク自身の心が濁り、本当の直感と計算結果の直感の区別がつかなくなっているだけだ。叩かれ叩かれ嫌味や文句や現実を並び立てられて、分かりきっていることを淡々と進んできた。
直感が正しい保証などない。
保証を求めるのは自己弁護のための手段に過ぎない。
ボクが直感で思い立って動いたとき、迷惑を被って後片付けに翻弄させてしまうのは心苦しいし、本意ではない。思い立ち行動してきたこれまでの人生は責任も立場も世間体も社会性もなく、ただひたすら己を求めた。
今は直感は大切にするが、現実は日々律儀にやってくる。
これが恋愛のように、恋愛に憧れて夢描いているだけならいい。でも恋愛は現実になれば人間同士のやりとりという三文芝居のくだらない道がある事も知っている。
つまらない。
勝手に作った枠組みの中での直感は計算だ。ほんとうの直感は時空を越えて、事象が有機的に触指を伸ばし繋がったときに生まれるものだ。本能的な直感は動物的で検討に値しないが文化的根底から成り立つ直感は、例え周囲に迷惑をかけようとも主観的に正しい。
そうすると、ボクの道は少しだけ明るくなった。自分で明るくしたのだ。常識というまやかしの暗闇でもがいていたボクに、一筋の頼りない光を与えてくれた。
その結果が善し悪しなどの二元的な判断は死んでからすればいい。なんでも糧にするのが心の柔軟性だ。信用するも、ついてくるも己の心次第だ。
ボクは自分以外を必要としていない。
己で完結し、自己満足を得られれば、目的は達成されて次が見える。これを無責任と言うのは、常識人だ。世間体や見栄や虚飾に惑わされているだけだ。
おまえの目的はなんだ。
ボクの目的ははっきりしている。その目的を達成しようとする衝動を抑え、時期を待つのが得策と計算している自分に自己嫌悪を覚えながら、なんとかここまでたどり着いたのだ。
腐りきった社会は必要悪であり、虚飾は見栄で、世間体は究極の自己満足と自分への正論と言う名の言い訳に過ぎない。
それらが溢れ、濁りきった繁華街は大嫌いだ。様々な人間の黒い腹が色になって見せ付けられ、吐気をもよおす。きらびやかに着飾った姿勢の悪い女たち、軽薄な空っぽの人生を全身から出す男たち。
色鮮やかな派手な街並みも、灰色にしか見えない。
建設的な直感は、現実に対して常に挑戦的だ。
その直感を挑戦的と考え、押し殺しているボクも灰色だ。流れから外れ、澱みきった人生という生温い潮流の中でもがいてみたところで、もはやなるようにしかならない。
基本に立ち返れば、衣食住を得ることに気持も体力も奪われ、目は腐り、美醜の見分けすらつかなくなる。そうしていつまでも枠組みに収まり、時間を浪費するのは人生に対する緩慢な自殺だ。
他人は他人、ボクはボク。
道はそれぞれ違う。直感は正しい。世間は幻想。
執着はなくなる寂しさへの抵抗。
狭い場所で何かになるわけがないのは直感が物語る。最初から夢など見ていない。現実はよくわかる。ボクが動くことでより迷惑がかかることは百も承知だ。
そうした悩みは糧。
糧はやがてカタチになる。
カタチにしろと直感は言う。
そしてこれは大きな流れのほんの些細なゆらぎでしかない。
悩みと言う糧は種だ。芽吹かせるも腐らすもボク次第だ。
なんと安穏とした人生か。
これが望んだ結果だ。
望んだ結果を得て、次が見える。
他人に極端に見えようとも、ボクはボク。
支えいたい人には支えてほしい。
支えなければと思う人は不要だ。
死んだあとわかることを生きているうちに思い悩むのは自分に不誠実で無意味だ。
たとえ脈絡なく見えるボクの行動でも、ボクの中に脈絡はある。それだけで十分だ。
責任や社会や世間体などという一般的な常識に捕われて考えていては、灰色だ。灰色は大嫌いだ。ボクの全身全霊で、それを拒絶している。
来るところまできた。
ボクはこうして自分に言い訳をする若さをまだ持っている。
キミは灰色じゃなくて彩り鮮やか / 2007年6月12日
「ボクの人生は木だ。不要な枝葉は切り落とす」
「不要な枝葉って、他人のこと?」
「そう。太くなれそうにない枝は、無駄に吸い取られる不要なものだ。切り落とせばボクの根本で腐り、養分になる」
「それはあたし?」
「さぁ、キミはどっちだろう」
そうしていたら、他の人に言われた。
「あなたの周りには無駄なものがなくてスッキリしすぎてるよ」
「どういうこと?」
「不要な排泄物がないってこと」
それはバランスが悪い。
枝はやがて太くなり、幹を覆うのだろう。例えそれが宿り木であっても、幹を彩ることだろう。それらの落葉は排泄物であり、養分になる。養分は幹を育てる。生い茂る葉は太陽から力をもらう。深く這った根は大地から力をもらう。そうしてここに生かされている。
無駄な枝葉がなければ、陽の力を享受できない。無駄な枝が無ければ、影を作れず根が痛い。無駄な葉が茂っていなければ、そよぐ風も感じられない。
「抽象的すぎてわからないわ」
「キミはわからないで盲ていた方が幸せなのかもしれない」
「知らないわよ」
「知ろうとしたことはあるの?」
「してきたつもりよ」
考えることは誰でもできる。
悩むことは誰でもしている。
簡単なことに理屈を付加して難しく考えるのは「自分はこれだけ悩んで頑張った」という自信と言う名の思い込みが欲しい気持がそうさせている。
「あんたは気楽でいいよね」
「自分で選んだんだ。羨むのは簡単だろ。人に嫌われようとも、おれはおれの人生だ。例え社会に嫌われようとも、他人に疎われようとも、それもおれの人生には糧になる。罵離雑言を浴びせてくれ。傷付けてくれ。おれはそれに比例して強くなる。おまえはそれを知っているじゃないか」
「そうね。だから冷たい人に見える。冷酷に見える。冷静に見える」
「そして見た目と中身は反比例することも、おまえは知っている」
「ええ、そうよ。よく知っている。反比例しすぎてしまうことも知っている」
そう。枝葉が増えれば増える分、糧が増え、反比例が強くなる。見た目はより冷血に、中身は煮えたぎる。
「あと数ヶ月の辛抱だよ。頑張ってね」
と、誰かが言う。
「あなたにそう言ってもらえたら気楽だよ。ありがとう」
もはや激情の波はたおやかになり、欲は形を無くし、刺激されても一時的なものでしかなく、全てに対してどんどん速度をあげて執着を失っていく。
若くても年老いても人は人でしかなく、差異はない。均一化された社会で台本通りに進んでいくのは、灰色の群れ達が見る夢。現実を灰色と知らずに、一時的に燃え上がり理想を目指す姿は美しくも痛ましい。腐り行くならば、根本に落ち、せめて養分になれ。
そうしておれは糧をもらい成長を得るのだ。
森の中、おれんち、山ん中 / 2007年6月11日

「森に入って妖精たちの話を聞いてらっしゃい」
言われて森へ分け入った。
妖精がなんなのか知らないが、誰か話をしてくれるんだと無邪気に分け入った。
森に妖精はいなかった。
だけど、木が話しかけてきた。
「あっちへ行ってごらん。枯れた井戸からオレンジ色が出ているよ」
風が道案内をしてくれて、たやすくそこまで辿り着いた。
「連れてきてくれて、ありがとう。でもこの綺麗なオレンジ色は何?」
「枯れ井戸から生えてきたキノコたちだよ。あとはキノコに聞いてくれ」
風はそういって吹いた。
鮮やかなキノコたちは、こぞって喋るので、うるさいだけだ。
枯れ井戸から湧いたキノコは、一斉に喋る。
「食べてごらん」
「食べちゃダメだよ」
「この井戸は枯れてるけど十分」
「底には瓦があるよ」
「今夜は雨が降るよ」
「雲が降りてきた」
「虫がくすぐったいよ」
「オレンジ綺麗でしょ」
「そのオレンジ綺麗だね」
と答えたら、一瞬静かになってから、みんな一斉に自分のオレンジの方が綺麗だと主張し始めた。
枯れ井戸のそばに、切り株があったので、聞いてみた。
「いつもあんなにうるさいと、大変じゃない?」
切り株は静かにゆっくりと答えてくれた。
「普段は黙っているよ。あんなに興奮するとは、山も知らなかったんじゃないかな」
すると、足元から声がした。
「うるさくても、元気だと嬉しいものさ」
ふうん、そんなものなんだ。と納得しながら目の前にあったけもの道を歩いた。どんどん歩いて行くと、水場に行き着いた。小さな滝。川底には煌めく粒が見える。頭上は開けて清々しい。
音がする。
静かに響く音がする。
流れ落ちる小さな泡沫の音。たゆたう風がならす木々のざわめき。遠く高く鳴る鳥のさざめき。
ここで眠ろう。
反復自失の喫茶店 / 2007年6月10日
「世界の終りのような顔して、どうしたの?」
「え?」
と気付いて我に帰る。
「そんな顔してた?」
「絶望的って顔だったわよ」
「いやなにも考えてなかっただけ、心配させちゃったね」
何を考えていたんだろう。何も考えていないけど、何か感じていた。分断された記憶。連続感の無い時間の感覚。
…。
放心ではない、自失でもない。キミを目の前に見ながら、話を聞いている。ボクはここに在る。キミはそこに居る。ずっとそうしていたはずだ。
それならこの欠落した記憶は?
欠落した時間の感覚は?
あれ? コーヒーを手にとって視界の下に持ってきた。なんだこれは。ボクの手がコーヒーを口元に運んだだけだ。コーヒーはいつ来た? いつからこの喫茶店に居るんだ?
そう認識した瞬間、周囲の喧騒が耳に飛込んできた。頭上を電車が振動を伝えながら走っていくガード下の喫茶店の窓からは、忙しく行き交う人々が見える。女が階段に座ってメール、男が立ち止まって電話。
そう、それでいい。
次はキミのセリフだ。
「世界の終りのような顔して、どうしたの?」
「そんな顔してた?世界は今から始まったんだ」
歌は誰でも歌えるから歌 / 2007年6月9日
「だから、あたしである必要が感じられない」
「歌いたいなら歌おう。やりたいならやろう。楽しみたいと能動的に感じていこうとしなければ、必要とされる場所など、ありはしない。自分で必要を作りだすのが人の在り方だ。用意された環境があって、そこに行けば必要とされると思うから、必要性の有無を判断基準にしているだけだ。それは純粋でも素直でもない」
「でもどうしたらいいのかわからない」
「正しいやり方や効率的なやり方があるはずと思い込んでいるだけだ。正しいやり方をしないと恥をかいて自分が傷付くと思っているだけじゃないのか」
「傷付くのはイヤ。効率的じゃないのはイヤ。恥をかくのはイヤ。」
「傷は糧だ。非効率はそう思うだけで、効率的な方法より遥かに多くのものを得られる道だ。非効率が悪いという常識で想像力が欠落していく。非効率は人生において合理的であるのだ。恥はかいた分、強くなる。そうして得られる結果は、想像以上に素晴らしく見通しが良くて、楽しいのだ。音楽など、自分が音を楽しむためのものでしかない。基礎は大切だけど、必要か必要でないかを判断基準にしてしまうと、楽しむという根本的な目的を簡単に忘れ、譜面通りセオリー通りになり、個性を失い、音楽の意味がなくなる」
「それじゃ、あたしはどうしたらいいの?」
「悩むのも一つの糧だ。ただ悩みの出発点を間違うと終点は終焉で成長ではなく卑屈になる。卑屈な音楽など楽しくない。出発点は自分が楽しむこと。そのためには少しだけの自信が必要。少しの自信を得るには基礎を学び、人よりも音楽が好きという気持が大切」
「意外と簡単に聞こえるわね。あたしにそれができるのかしら」
「自分次第だ。貴重な一瞬一瞬を外に向けて感じるか、自分と対峙して自分を知るかで、道は大きく変わる。自分で決めることだ」
「でも人の曲は違う。自分の曲を作りたい。そしてそれを歌いたい」
「その気持があれば十分だ。作曲など誰でもできる。楽譜など読める必要はない。歌いたいなら歌えばいい。その気持に素直に従い、目的を忘れずに進むことができるのかはキミ次第だ」
囚われすぎた考えは周囲の人間関係だ。周囲の人間関係に惑わされ、己を見失い目的を忘れるのは守るべき自分の主体に気付かぬ者の常であり、悩むことで密かに安心を覚え、その環境に馴れて染まっていく。
「あたしの役目ってなに?目的ってなに?」
役目や目的を持って生きていると思っているのなら、それは間違いだ。役目や目的を見つけるために生きているのだ。そしてそれは自分の外にはない。自分の内にしかない。
歌いたいという主体を見失わず、少しずつでも前に進んでいくことができれば、やがて内側にある自分を見つけられることだろう。
慣れて鳴れて成れる / 2007年6月8日

「ぜんぜん気付かなかった。あたし今までぜんぜん気付かなかった」
「比べたらすぐに気付いただろ? だったら両方を知ったことになるんだから、いいことじゃないか」
比べないと気付かないのは感覚。
耳で聴く音の違い。
目で見る色の違い。
感じる響き。
雰囲気。
「比べてみて、気持いい方を選べばいい」
「こっちの方が広がっていって気持いいと思う。こっちの方が好きな感じがするからいいと思う。でもこんな簡単な決め方でいいの?」
「簡単なことを難しくする必要はないんだよ。簡単なことを簡単に選んで楽しているとでも思って罪悪感でも感じているのかい」
「努力や苦労はしないといけないて思ってる」
努力や苦労は必要があればすることになるだろう。その渦中にあるときにはそれと認識することはできない。
感覚は慣れる。
どんなに広がりを感じる音でも、美しい色でも、幸福感でも、やがて慣れる。
どんなに暗く感じる音でも、汚い色でも、絶望感でも、やがて慣れる。
慣れたとき、それが感覚の比較基準になり、人間性の一部になり、物事の美醜の判断をする心の指針になる。
慣れるのは感覚。
感覚は器。
響きは心。
心と器は二つで一つ。
気持のいい感覚に慣れ、さらにいい感覚を求め、器を鳴らし、心に感動を成らすのが人の業。
くるくるまわって鳴り響き
くるくるまわって成り響く
ぐるりまわれば二つが一つ
まわりまわってすべらてみれば
なれてなれないなりゆきまみれ
なりとてなかにはなりひびき
ひびきひびいてひびはいる
「なに? それ」
「傷付いても自分の感覚を磨いて信じようってこと。今があって今にいて今つながっているのは偶然じゃない。鳴るように成っている」
全てが。
連続性非連続性しゃらくせえ / 2007年6月7日
昨日のキミは好き。
一週間前のキミは大嫌い。
半年前のキミは大好き。
今日のキミは知らない。
同じようで全て違う人。全て別人。だから昨日のキミは好き。明日のキミは大嫌い。半年後のキミは知らない。
連続しているようでも、こちらから見たら非連続で脈絡がないのが他人だ。
それでも共通の淡い目的を持って動いていれば、それが連続性を保つ術になる。
非連続で不安定に見えても、それぞれの感情を点で表せば時間の連続性が、点の数は濃淡を持っていて、安定的なゆらぎを出していることを教えてくれる。
今は点の濃度が濃くなりつつある時間。濃い時間があれば薄い時間もある。点はそれと認識していなくても、ひたすら点として冷静に物語る。
距離があるからこそ、こうした観察ができるのだ。面倒と感じるときは、自分の点の濃度が低いときだからと、点に教えてもらい、己を見失わずに済む。
好き嫌いの感想さえも、ゆらぎの一部。点と点に連続性はなく、それぞれは孤立していても、それらの連続体が感情だ。脈絡なく見えても、脈絡はある。点と点を結ぶ見えない線は、心そのものだ。
「やっぱりどうしてもモヤモヤするわ」
「そういう時期だよ。モヤモヤを解消するために何かするんじゃなくて、モヤモヤしている感情を観察するんだ。モヤモヤしている自分を楽しむ機会だ」
「あたしにはできないわ。どうしたらいいの?」
「モヤモヤはどうしたってなくならないさ。誤魔化すことはできるけど、それは解決にはならず新たな問題と足枷を生むだけで成長に繋がらず、目的から遠ざかる」
「わかってるわ。でも苦しいの」
「その感情を落ち着いて名前をつけて紙に書き出してごらん。冷静に自分に距離を置いて、他人のように自分を見て、感じている感情に名前をつけて、整理するんだ」
「どうしてこんなにモヤモヤするの?」
「モヤモヤの原因は、肉体の影響に惑わされているだけだ。今だけのこと。影響が少なくなればまた別人さ。怒りも悲しみも喜びも、肉体に支配されきっている。それに振り回されていては楽しくないだろう」
「辛いわね」
「幸福感も悲壮感も根本は相対的にしか感じられないもの。辛いと思うのは、辛くない状態を知っているからだろう」
人間のカラダの仕組みは単純。単純すぎるから複雑に考えるだけだ。実は連続していることなどない。全ては点。点の集合が線に見えて、連続しているように見えるだけだ。孤立した点ということを知っているから、同質の人間を求め、共感を分かち合える人を求め、大切なことを見失い、時間と共に後悔と溜め息を重ねていく。
そのため息は、やがてボクの糧になる。
その後悔は、やがてボクの糧になる。
その存在は、やがてボクの糧になる。
モノはカタチ、カタチは名前に支配される / 2007年6月6日
「外側を磨くのは簡単なんだよ。見た目はカタチだ。カタチに名前を付ければ、心はそれに支配される。良くも悪くも支配される」
「化粧や洋服や持ち物のこと?」
「それらは金があれば簡単に手に入り、持っている自分というカタチに心が支配されて安心するんだ。でも中身が伴っていないことを自分で感じているから、また欲しくなる」
ステータスなんてカタチだけ。
どんな高級品でもカタチがいいだけ。それは万人に分かりやすいから受け入れられ、理解されやすいもの。何も持たぬ者はわかりやすいカタチを持つ物を渇望する。そして手にいれた分、心に空虚を育んでいく。その空虚を埋めるために更に物を求める。分かりやすい名前で支配された物を求める。そしてこれは金さえあれば簡単に手に入り誰でも持つことができる。物が金を持っていることを主張している。
「内側を磨くのはどうすればいいの?」
「それは時間がかかる。環境が左右する。そして万人が得られるものではなく、カタチがなく、名前に支配されない。だから難しいんだ。方法論などない。だって心そのものの有り様なんだから」
人の心はわかりやすいものに左右される。
見た目が美しければ圧倒される。見た目が醜ければ蔑む。内側は見えない。見えないからわからない。わからないから相対的な比較対象を用意して、比較することで善し悪しを判断する。外側は簡単。内側は下地が無ければ磨けない。石ころはどんなに磨いても石ころ。原石は磨けば光る。原石は、持っている心と環境が作る。原石は磨かれたいと思わないと、石ころより汚い。
「あたしは原石なの?」
「渇望する原石だ。そして自分で磨いて光りだしている原石だ。あとはどうすればいいか、自分でもう既にわかっているじゃないか。環境が左右する。環境だ。今までの環境を振り返れば見えてくる」
「あたしは原石なの?」
「下地を持っている原石だ。興味深いが磨かれたいと思わなければ、光ることはないだろう」
「あなたは何様?」
「ボクは補助輪だ。ボクは一人では何もできない、どこへ行くこともできない補助輪だ。だから一人で走り出せる原石になれる人を探す。そして走って行くことを希望する」
外側は後からでもいくらでも磨ける。内側は時期が大切だ。その時期を逃すと、時間が余計にかかる。他人の影響を幾ら受けようとも、いずれは己の一部になり自分のものになる。言葉は響きとなり糧となり血となり肉となり心に至る。心に至らぬ響きは意味が無い。人は人の力で変わることはできない。自らが変わろうとしなければ、中身は決して変わらない。
だから、わかりやすいカタチを持ち、名前を持つ物に人はすがり、求め安心と空虚を得る。わかりにくい心が悲鳴を上げていても、耳を塞ぐ。理屈で説明を求める。
カタチを求めるもの、そのカタチに支配される。
理屈を求めるもの、その理屈に支配される。
名前を得たもの、その名前を支配する。
全ては流れのなか、なるように流れて行く。
そこにカタチも理屈も名前もない。
心は水。
一番二番番号記号 / 2007年6月5日
「あたし、誰かの一番になりたいの」
「一番って言うのは、二番があるから一番があるんだよ」
「でも一番になったら、それは重荷になるの」
「そんなのは、一番の気持に応えなければ、という義務感じゃないか」
「義務感じゃいけないの?あたしは応えたいと思ってしまう」
自分がイヤなヤツと思われたくないから、応えたいと思っているだけだ。
そんな気持で応えられた方はどう感じる?
勝手に重荷を感じ、応えなければと義務感を背負わされた気になって、応えられず戸惑うのは順番という記号に囚われているからだ。
わかりやすい記号は人を惹き付けて幻惑する。気付くのは早い方がいい。
昔、言われた台詞が鮮やかに蘇る。
ボクはそんなことを求めていない。何も求めていない。それなのに何故、応えようとする。何故、応えなければと思う。
あたかも、応えなければならないかのような、ボクの出し方が悪かったのかと反省した自分がいた。そんな反省は自己保身だ。
与えるだけなど、世間という常識の中に有り得ないのだ。だから報酬を対価を支払わねばならない、それをしないと気が済まないと自動的に思うのだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。その一言だけでいいのに、キミは何を勝手に感じているんだ?そして簡単な一言を忘れていく」
目を楽しませてくれた美しい花は、キミに報酬を求めたか。
心慰め話しかけてくれる鮮やかな空や雲は、キミに報酬を求めたか。
太陽はキミに報酬を求めたか。
風はキミに報酬を求めたか。
自然がキミに何か求めたことが、一度でもあるか。
そこに順番という記号はあるか。
凝り固まっているキミの中の常識の鎖を少し外せばいい。
自ずと感謝の気持が沸き上がればいい。きっと「ありがとう」と口を突いて出てくるだろう。気持を乗せた「ありがとう」が生まれるだろう。
それは力だ。
花はより美しくなる。
空はより深くなる。
雲はより雄弁になる。
太陽はよりやわらかくなる。
風はより薫り、緑は光る。
そして、キミは更に美しく輝くだろう。
言葉の空洞の天井裏 / 2007年6月4日

善いも悪いも一つ。
過程と結果も一つ。
感じ方は心一つ。
悪いと思うのはその心がくすんでいるから。善いと思うのはその心が晴れやかでいるから。
勘違いという思い込みが惑わせ、目的を見失い、気付いたときには次がやってくる。
楽しいだけでいい。
「楽しいってなに?」
「その問いが全てじゃないか」
人に優しくしなきゃいけないと思うその心は、卑しい。恋人はこういうものだと思うその心は、貧しい。守らなければと思うその心は、虚しい。
したいならそうすればいい。
義務感を持ってすることは、自己満足を得る行為でしかない。
正は負の報酬ではない。
負は正の対価ではない。
二つで一つ。
対極が二つ合わさって力を生む。
対極が二つ合わさった分だけの力を生み、正も負も善も悪もそれ自体は完全に消滅する。
自然の摂理だ。
水が上から下に流れるように、雲が次々に変化するように、当たり前のこと。
人が楽しさを求めるのもあたりまえのこと。春に花を咲かせ、夏に葉を繁らせ、秋に色付き、冬に蓄えるのが楽しさを求める人の心。移ろい行くのが人の心。移ろいながらも水面を正し、水底を見ることができるのならば、楽しさを知るだろう。快楽と楽しさの根本的な由来の違いを知るだろう。
善と悪の違いを知り、一つと知るだろう。過程と結果の違いを知り、一つと知るだろう。正と負の違いを知り、一つと知るだろう。
そして他人と自分の違いを知り、一つと知るだろう。
己を知り、理解し気付くだろう。
気付くことができなければ、そのまま埋もれ朽ちる。
分相応と納得するのだ。
迷いを生じさせるのは心。
心は身体に影響される。
身体は生活に影響される。
生活は食と睡眠に支配される。
心身ともにあり、ここに在る。
いずれも己で律して初めて楽しいことを知ることができる。
人並みが幸せか。
人並みが楽しいか。
人と同じで安心か。
人と同じでないと不安か。
それは人生の放棄だ。
灰色の道に自ら極端な色をつけて誤魔化していても、それは芝居だ。
それで幸せか。
それで満足か。
それで楽しいか。
「何が楽しいのかわからない」
「心と身を芯から律すれば、真に辿り着く。世間や他人に合わせるんじゃない。地球の揺らぎを感じて合わせるんだ。それができるのも、今のうちだけ。それができるのも、自分自身だけ」
ああ、昔もこんな話をしたな。
ボクはまだ若い。
地球の揺らぎってなに?
それは、呼吸のことだ。
呼吸が響き、息が音色、声が力。
呼吸で生ず声音は力を与え響きを広げる。
さあ。
響きを探す日々 / 2007年6月3日

「人の心は寄り添えても、決して重ならないのよ。心は一人一人別々にないと意味を失うでしょ」
「そうだね。キミが昔それを教えてくれたね」
「あたしは覚えていないわ」
「そのあとキミは、同じ響きを持った心なら重なることはできなくても、感じ合うことができると教えてくれたよ」
「そうなの?あたしはまだ半分ね」
「一つ一つの心でも、共鳴し合えれば、響きは重なり心が重なっていることと同じかもしれないね」
同じ響きを感じたくて探す。
キミの響きはとっても近い。
でも違うんだ。
「共鳴するってどういうことなの?」
「気持ちをそちらに向けること。気持ちを向けなければ、どんなに美しい空でも気付かない。どんなに不安定な雲でも気付かない。どんなに彩られた花でも気付かない」
「朝陽を見て泣きたくなったり、流れ行く激しい雲を見て死にたくなったりするのは、気持ちを向けたから?」
「それはちょっと違う。気持ちを向けて力を受け取ることができても、共鳴せずに自分の響きに合わせようとして、自分の気持ちに振り回されている。感じる場所が少し違う」
「素直に受け取って共鳴できたら?」
「それは自分で見つけないと意味がない」
物と者。
心には意思。
意思には目的。
目的は生きる力。
響きは色。
色は力。
弱き者は力を求め、愚かな者は智慧を求め、己を知らぬ者は神を求め、助けを求めた。
強き者は力を集め、賢き者は智慧を隠し、己を知らぬ者は神を作り、人々を導いた。
何も求めぬ者は、何も必要としない。
力も智慧も神も必要としない。
ただひたすら、狂う程に、己を求める。
演出社会 / 2007年6月2日

整備された道路。整備された街並。整備された建物。整備された公園。整備された教育。
整備された遊戯。整備された関係。整備された恋愛。整備された人生。整備された終焉。
できあがる整備された個性。
量産されていく個性は個性じゃない。
芝居だ。
総括と雑感と限界 / 2007年6月1日

結局、伝えたいことや知って欲しいこと、さらに真理や極地などは入り口こそ文章や言葉といった論理的なものは用意できますが、最終的には論理思考では破綻し、感覚で感じとり、共鳴してもらわないと、理解は叶わないということを知りました。
いわば、現時点の限界です。
また、論理思考に偏ってしまいがちな環境のためとも言えます。
わかりやすいものには弊害があります。納得させやすくするために、言葉を省略しています。それでも納得できるものなので、思考がそこから先に進みません。本来は、それをさらに吟味して思考を繰り返し、省略されている言葉を補完して思考の先にある真理を、自ら感じて得るべきなのですが、昨今は従順なのか素直なのか、そのまま理屈として自分の引き出しにしまいこんで、取り出す際には自分の都合の良い解釈を付け加えていたりする人が結構います。
ああ、だから言葉や文章以外に感覚だけの芸術や芸能といった文化が必要とされたのかな、と考え至り、それならば各々補完し合う役割の作品を作ることを目的に進んでいけますので、わりと楽です。
これに気付くための「喜老人」だったのかもしれません。
現時点での限界を知ることができた同時に、目的を発見し、それが限界点を押し広げる動機になるわけです。
自分が何か、目的は何か、追求していき続けていれば、惑わされることもありません。
それもこれも、若い時にそれと知らず良き師に出会い、様々なことを教えてもらい、そのときそのときで感じる心や響き方を身を以て教えてもらったからなんだろうなと、今になって気付かされます。
こんな楽な人生はありません。