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はい / 2007年7月30日

もうね、いらないんだ。

ありがとう、もう十分なんだ。

今はもうここまででいい。少し休憩だ。

へぇ、この写真に写ってるこの二人はもういないのか。
この写真を撮った場所ももうないの?
撮った人も消えちゃった?

たった一年でそんなに変わったんだ。
たった一年でそんなに変われるんだ。
たった一年。
もう一年。
まだ一年。

ひとつずつ静かに積み重なっていくとしつきが教えてくれるのは、巡り移ろい行く季節と時間。それは重なったと思えば消えて行き、降れども降れども積もる事の無いぬる雪のようにただ落ちて行くだけのなにか。

なにかと思えば意味が生まれカタチを成し、なにかと思わなければカタチを成さず。

成したカタチも移ろい行く時と共に脆く崩れ去ろうとするならば、崩れる前にボクが崩す。
ボクがボクの意思でボクが崩したいからボクが崩してやる。

勝手に崩れたなんて許さない。

ボクもカタチ。

成してくれてありがとう。もう十分なんだ。
もういらないんだ。

さぁ崩してまたカタチを成すまで休憩だ。

ね、一年も六十億年も一緒でしょ。
いやはや / 2007年7月27日

知ってるのと知らないのとでは、雲泥の差が出てくるようですが、それは時間とともに露になって来るようで、すぐには解らないものです。スタート地点は一緒で、向いている向きが一緒に見えても、例えばほんの少しのズレが時間とともに大きなズレになって行くように、乖離というのは徐々にでも確実にカタチになって行きます。そして、あっと気付いたときには取り返しがつかなかったり、あるいはお互いに気付いて乖離を無くしていったりするようです。

パソコンでできることを知らないと、難しいものに見えますが、できることを知っていると、それは道具になりメディアになり力になります。一つ一つのものをバラバラに見ると、それらは独立してそこにあるかのように見えますが、実は根幹は全て有機的に繋がっていて、一つの器官を構成していると捉えることもできます。そうやって考えて捉えてみると、ズレはエントロピーの増大のように抑えることができない不可逆的なもの故に常に破壊して構築することで、全体の秩序を守っているのかなと考えてみたりもします。川が上から下にスルスルと滑らかに流れていっていても、川は川としてそこにあるようなもので、ズレようがくっつこうが反撥し合おうが、全体としてベクトルが一緒であれば柔軟に進んで行ける気がします。

パソコンや携帯電話のように無機質なものの集合でも、人の情報の一部を蓄積する能力を担っていますので取り込んだのか取り込まれたのか、善し悪しは別としてやはり流れの一部で、その接点は有機的なんだなという感触です。主体はこちらにありますので、流れの選択権さえ見失わなければ楽しく泳いで行けます。有機的に接点をもつのは自分以外のもの全てに対して同様であるとみなすと、視野もグッと広がります。

んで、一人で勝手に視野が広がって周りを振り回すのはいつものことですか、そうですか、ごめんなさい。
平和という幻想 / 2007年7月26日

日本は平和な国です。昨今は治安が悪化と言われていますが、それでも世界レベルで見たらずば抜けて治安は良好です。また、お国柄か衛生的でもあり、それが疫病などの感染症を事前に防ぐ結果にもなっています。そしてこの事態を指して平和ボケなどと言うこともありますが、大変結構なことかと思えます。戦後の過当競争の見直しとしてゆとり教育が導入され、現在はその結果が見えて来て「これはまずい」というわけで、さらに見直しが進められているということですが、もはや後の祭りです。国策というのは基本的に遅きに失するものなので、年金問題とて同様です。

年金制度の考え方は人口増あるいは横ばい前提で作られているのですが、日本の人口増減を長い目で見れば人口爆発の後は急激な減少に向かうことは、最初から恐らく解っていたはずです。そしてこれまで払って来た人たちやこれから受け取る人たちは、「私たちも払って来たんだから払いなさい」という理屈になりますが、肝心の管理があのざまでは、これからいざ受け取る人たちが本当に受け取ることができるのか、甚だ心許なくもあります。要するに年金問題は単純に国としての管理能力の完璧な失墜です。社会保険庁だけの問題ではなく、仮にこれが企業の話であれば企業全体の管理能力が疑われて然るべきなのです。国家レベルでは少子化が問題ですが世界規模で見ると人口増に歯止めがかからないのが現実です。こっちの方が実はヤバい問題。

ところで、世の中、気がついたら当たり前に電話が使えて、当たり前に道路があって、当たり前に車に乗って、当たり前に食べ物を食べていますが、こうした社会ができあがったのはここ数十年のことです。日本全国津々浦々にNHKの電波が行き渡るようになったのも、少し前のことです。余談ですが、日本全国津々浦々という言葉を放送で使えるのはNHKだけです。テレビもラジオも新聞もそうですが、人々の興味を惹かせるために演出が必ず入ります。新聞であれば「おもしろい見出し」になるように字を組み替えますし、テレビであれば大袈裟にしたりBGMで盛り上げたり、ラジオも同様です。それは事実ではなく捏造と同位のものも多数あります。それを今更あげつらったところで、見つかって運が悪かった、捏造と見られて失敗だったな、という次元でしかありません。ナレーションでも間違えた語句を喋っていることを制作段階で指摘しても、時間も無いしOKもらってるし、このままいっちゃいましょう、なんていうのはザラです。さらにつついて蛇を出したくはありませんので、お互いスルーして先に進み、放送に至るわけです。

歴史を顧みれば、平和でゆとりのある時代には何らかの文化が生まれて後世に残って来ています。現代を見ると、そうした痕跡は今の所見当たりません。様々なものが平行的に存在し、突出した何かというのがありません。あるいは後の時代になってから見いだされるのかもしれませんが、心許なくもあります。

これこそがアメリカの望んだ日本の姿ではないのか、と想像してしまいます。平和という生温い薄膜の中に閉じ込め、幻想の中で人々を安穏とした生活にすがりつかせることがGHQの政策の目的だったのかなと妄想します。

人間、一度楽を覚えると、そこから離れることができなくなります。携帯電話、パソコン、車、電車、電気。機械というのは扱い方次第です。人間の作業の限界の幅を広げることもできますし、人間が行っていた作業を代行することもできます。使わない筋肉が萎縮していくように、人間の使われない能力は萎縮していきます。

とはいえ、いずれの方向でも適応していくのが生物ですので、長い目でみたら変化の過程にすぎません。人類がおよそ人類らしくなってから700万年経つといいます。人類が文明を持ち国を形作ったのは、現段階で解っている限りでは9000年前です。あれ?
人類は699万年も何をしていたんだ?
と思ってしまうのは今だからなのでしょう。6000年前には様々な国家があり、戦争を繰り返します。そんな中、3500年頃前にモーゼイスラエル人たちを連れて、エジプトを出ます。これがユダヤ教の始まりになります。ややこしい宗教の歴史の始まりともいえます。ユダヤ教からイスラム教が生まれます。2500年前頃になるとソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者たちが登場して、神と人と国家について論理立てた統治を行い平和で幸福な国家というものを模索していきます。同じ方向で人々の平和と幸福は何かと追求した人に釈迦が居ます。釈迦が説いた悟りの道が様々に解釈され、バラモン教ともごちゃ混ぜになって仏教ができました。そのあと2000年前にナザレのイエスを救世主としたものをキリスト教とします。これは中東やインド、ヨーロッパの話です。ここらへんから、シルクロードを通って東へ伝播して行き最終的に日本列島へ辿り着きます。また、同じ物が海洋ルートを通って伝播されてきます。そしてごちゃ混ぜ。ごちゃ混ぜだからこそ、合議制が徹底され受け入れられていったようです。

第二次世界大戦以降、日本は平和です。いろいろ見ていったら政治的にも感情的にも細かくあれこれありますが、明日を考えられるだけの平和は確実にあります。それに慣れていって、戦争に対する拒否感が薄らいで行っている気がするのは気のせいであって欲しいところです。

今となっては平和という幻想を維持し続けるのが役割のように見えてきます。
内なる外 / 2007年7月25日

これがある一つの形としての結論なのかな、と考えます。他者との関係性において、性別や年齢、社会的立場や背景で関係性には様々な意味合いがあり、それには名前がついています。彼氏彼女や夫に妻、上司に部下に取引先に得意様などなど。いずれも関係性を表した言葉で、第三者がそれを聞いたときに説明不要の名詞です。

男女間で言えば、彼氏や彼女だから付き合っているんじゃなくて、付き合っている関係性だから彼氏彼女というのが正しいわけです。他の名詞も同様で、行為が先にあり、それの説明のために名付けられ一般的に定着したと言えます。最近は履き違えてることも多いようですが。

さて、これらの関係性以外の関係はなかなか理解を得られません。名称未設定の関係は、第三者から見るとある人には不義理に、またある人には奇異に写ります。根本的に関係性は二人の間のことであって、第三者には無関係ですので、そもそも安易に名付けられるような丸見えの関係は、薄っぺらく見られている気がして、なんだか腹立たしくなってきたりもします。

そうした一般的見地および社会的幻想の常識論からは著しく脱落している私の人間関係において、一人の他人との間に一つの結実を見ました。

そして気付いたのは、その他人は自分の内なる自分の外側であるということです。趣味や嗜好、考え方やリズムなど全てが面白いくらいに正反対、対極にあります。背中合わせで世界を見ているくらい、違う世界を見ています。相手にとっても、おそらくは相手の内なる自分の外側が私であるはずです。内包している外側は絶対に一つにはならないけれど、既に一つであるというわけです。

これは不思議な感覚です。

とはいえ、これも安定的永続的なものではなく一つの過程と言えます。大袈裟に言うなれば、とうてい理解や実感には至らないけれど常に在って広がって行く過程にある宇宙のようなものです。そこには何ら基準がありません。人が観測して基準を設けて理屈をひねり出す場所です。そして誰も宇宙の広さを実感したことがありませんし漠然とした想像しかつきませんが、あるものはあるという次元です。常識的な考えでそういうものだからという視点は、円滑に波風を立てず過ごせますが、視野が狭くなり想像力が濁って行き感覚が鈍くなります。普通に自然に考えて行くと、常識の方が歪んでいることが多く、いくつもいくつも疑問が湧いて来て苦しめられますが、その常識と自然のバランスを取りつつ、そうした行為全てを過程と考えて観測し自分自身や二者間で結論を得られればそれで良しです。

季節のように流動的で移ろい行くのが前提で、それに後からつけられるのが名前です。春夏秋冬とて結果的にそうした名前が付けられただけで、現象としてもともとあったものです。

曖昧模糊としたよくわからない関係性だからこそ、説明を求めて名前を得ようとしますが目に見えないものである上に第三者には無関係なものですので、そこに具体性を見いだすことができず、自分自身が信じていた常識に混乱を来たすために防衛機制として合理化や逃避といった拒否反応が出てきます。

観察している分には興味深いのですが、頭が固いなという感想に至るだけです。
幻想の未来 / 2007年7月24日
筒井康隆の長編SF小説のタイトルです。おおもとは多分フロイトの論文のタイトル。内容は寂寥感を伴ったグロテスクなもので、一般受けはまずしない内容なのでおすすめはできません。

内容とは関係はありませんが、二十年程前に書かれたこの小説、まさしくそのまま幻想の未来に今居ます。夢想され渇望された二十一世紀です。幻想の未来の最初に立っています。その幻想は、まずは家庭、そして社会、国家。誰しもが「これは常識だろう」と思っている幻想が集まり、社会という現実の夢を見ている状態です。その「常識」を作るのは「家庭」や「学校」です。その個々人の幻想から成り立つ常識から外れることをすると、おかしいやつ、ちょっと変わったやつ、という扱いになります。常識を否定することは、言わば個々人が持っている幻想の一部を否定することになりますので、自己否定に繋がりそれに対してほぼ自動的に拒否反応を示します。

その否定方法には一定の規則性があります。若い人程、反射的に拒否反応を示したのち、理解しようと努力します。ある程度年齢を重ねると、拒否反応を示した後に「自分とは違う」という線引きを行い、自分の常識の世界から切り離します。そして、正論でこちらの考えを論破しようと試みます。もちろん正論が社会的常識や経験的常識を土台としていますので皆知っていることです。つまり、おもしろくありません。

もちろん普通は理解できません。何故なら、常識も常識でないことも幻想でしかなく、その違いは「多数の幻想」か「少数の幻想」かの違いに過ぎないからです。「少数の幻想」は数が少なければ狂人扱いですが、賛同者が増えて積極的に動き出す幻想となると革命者と呼ばれることになります。「少数の幻想」でも芸術家や研究者という肩書きに対しては「多数の幻想」は存在を許します。その役割がハッキリとしていえるから「多数の幻想」はある程度安心して許容することができます。

細胞分裂時のDNA複製においては、複製n個のうち√n個がエラーを起こします。100の複製があれば、そのうち10は何らかのミスがあるのです。DNA複製に限った話ではなく、例えば100人の集団が村を作っていたら、そのうちの10人はトラブルメーカーになることになります。その10人を排除したとしても、√90人が反社会分子に相当します。相対的に変わるわけです。多数の幻想も少数の幻想も物理的刺激を伴うものであれば現実ですが、その刺激さえも夢の中の刺激のように醒めたらなくなるものかもしれません。醒めない夢は狂気です。夢は醒めるから夢であって、そうした知覚を得て夢と現実という区別を無意識に行います。夢でも、明晰夢の場合は刺激を伴わず、刺しても切っても痛くありません。理性がそれを夢と認識しているから、刺激を感じさせないのです。

ただ、夢や狂気や現実や幻想をそれと知ってその中にいるのと、知らずにいるのとでは、考え方の幅や感覚の幅が違ってきます。その上で普通に居るというのが醍醐味です。普通を嫌がり極端な行動に出たところで、それは普通を知らないが故の行為ですので、結果的に普通なのです。

言い方を変えれば、世の中はフレームワークで成り立っています。そのフレームワークの中に居るか外に居るかでできることや見えることが変わってきます。そして、中にも外にも行き来できるのが本来は自然で普通なことなんじゃないかなと思えます。

フレームワークにとって、それはバグですが、バグからしてみればフレームワークそのものが存在意義なのです。
大局的に見つつ / 2007年7月23日

常に1年後の自分が楽しんでやっていられるように、今を過ごすようにしています。人によっては、今この瞬間に亡くなっている方もいるわけですので、少なくとも1年後の見通しが立てられるだけ精一杯に今を享受しながら、貪欲に行くのがお得ってもんです。10年は一昔なのでなかなか具体的なイメージを結ぶことはできませんが、1年後というのは比較的簡単に想像することができます。従って具体的に現実性をおびた計画を練ることができます。

10年後も同じことやってられるかよ、と思っていたのに10年経っても環境は変われど結局は同じことをやっている身として、私の貧相な想像力を見せつけられた気分です。くっそー、やっぱ10年前にアップル社の株を買えるだけ買っておけばよかった、などとスケベ心も働きます。

それはさておき、1年後のことならばある程度おおざっぱにでも計画は立てられます。従って目的になることは現実的なことに近くなります。その目的を達成するために必要なのは、度胸と行動力です。なんだかちょっと違う気がしますが、私の性格的にはこれでいいのです。緻密な計画はその計画段階で考え込んでしまう上に、ちょっとミスしたら全部いらなくなってしまいますので、大雑把でないといけません。ある程度大雑把な方が、寄り道したり他のことに気を取られたりして、枝葉が増えてその分、楽しみや喜びも増えるってもんです。

まぁそういうわけで10年も究極的には同じことをやっているわけですが、過程で得てきているものは10年前と雲泥の差です。

「せっかくあちこち学校行ったのに、どれも中途半端で長続きせえへんねん」

と、ぼやいていた人がいましたが

「あちこち学校行って教わったのなら、他の人よりは広くいろいろできるんじゃないの?」

と聞いてみたら

「あ、ほんまや。いろいろできるで」

卒業証書や資格も大事だと思いますし、目的を完遂することは大切なことですが、そればっかりに囚われすぎてしまっては、せっかくの過程も生かされてきません。もちろん両方得られれば、それに越したことはありません。証書や資格は、その過程を経てきたことの証明でもありますので、自信の裏付けをしてくれるはずです。

目先の細かいことを黙々とやりながら見ていると、同じようなことをずっとやっているような気がしてしまいますが、大きく見ると目的が10年前と変わっています。10年前は目的などという具体的な言葉で示せるようなことは何もなかったかもしれません。ただ漫然と、それでも目先のことにがむしゃらに取り組んでいただけのようです。ときどき、疑問を抱きつつも、次から次に目先にやってくる出来事に取り組む以外に術を知らなかったという気分です。そのときがあったから今があるわけですが、それを他人の人生として見てみるともったいなかったな、という気がしてなりません。そういう気がするのは、そのとき得られたものを活用しきれていないのでは、という自信のなさです。

得た物の価値基準をどこに置くかで、自信の有無は変わってきます。資本尺度で考えれば、むしろマイナスとも言えますが、技術面で言えば200%成長とも言えます。一般的な理解が難しい技術面での評価は期待できませんので、資本尺度での数値目標を出して実現する他にわかりやすい手段ってないんだな、と最終的には失望に行き着きます。

その失望も一過性のもので、大局的にみたらそんなものは適当にいなしておいて、最終的に自分の目的地に到達して次の目的地に向かえばいいのです。そのために活用できるあらゆる手段は活用し、1年1年の積み重ねがやがて10年になり、一つまた変化しているというわけです。

目先のことに囚われ過ぎると前に進めません。
大局的に物事を見過ぎると、虚無が見えます。
両方のバランスをはかりながら、中庸を進むのがきっと前進なのかなと思えます。
台風一過の空 / 2007年7月20日

雲間に見えたブルーのハート。
毎晩来る夢 / 2007年7月19日

一般的に一日の三分の一を睡眠に使います。睡眠のうち約一時間半程は夢を見ています。一ヶ月でだいたい五十時間。夢に馴染んでいる人ほど、夢の近くにいますし、まったく関心を払わずに消えてしまわざるを得ない夢もあります。夢は心の世界の洞察と言えます。否定したり拒否したい自分の心の暗闇の部分を直面させられるものもあります。夢とうまく付き合い、それを活用して育てることで、新しい洞察を得る切っ掛けになることも多くあります。

さて、何で夢を見るのかというと、諸々ありますが脳内の情報整理が主目的で、もう一つの目的として現実世界の抑圧を解放する場でもあるようです。さらに、日常生活の中で無意識で気付いていながらも見なかったことにしていることを警告していたり、主観的に気付いていない悩みなどを客観的視点で見せてくれたり、いろんな役割があります。いわば情報整理の結果の副産物です。

夢は見ようと思ってみるよりも、向こうからやってくるのを待つものです。あちらからやってきて、ヒソヒソと教えて夜明けとともに帰って行き、その記憶は霞の如く留まることを知りません。向こうは毎晩やって来ているのですが、聞く耳を持っていなければヒソヒソ声は聞こえませんし、霞さえも見られずただの睡眠になってしまいます。夢は馴染めば多くなり、そして濃くなります。

夢分析を考えると、ユングやフロイトがまず出てきますが時代とともに分析方法は変遷して行っています。社会背景や文化的思想が夢に大きく影響を及ぼすのはもちろんですので、その辺りを加味した上での客観的分析方法が徐々に確立されつつあります。そして心療内科の臨床で実践されたりしていますので、内面を知る手段の一つとしての役割はあると言えます。とはいえ夢はナマモノでもありますので、分析方法が確立されたとしてもそれをベースに臨床レベルで柔軟に応用する必要があります。そうでないと夢占いと次元は変わりません。

意識も心も夢も、今のところ具体的な数値化や定量化が難しく、生理学的方面から脳波や眼球運動の観測で夢を見ている状態を把握するところに留まっています。あとはひたすら連想法や分析に寄る解釈に頼ることしかできません。そこには想像力が必要ですし、行為そのものに創造性を感じ、興味が尽きることがありません。

夢は見てるというより、来ているという感じです。
何を信じたらいいのか / 2007年7月18日

さまざまな情報が入り乱れてもうこれなにがなにやらわからない状態になっている今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。これだけ情報がいっぱいあると、どれが本当でどれが嘘でどれがなにであれがこれで、とわけが分からなくなり、わかりやすいもの、とりわけ多くの支持を得ているものに飛びつきがちです。

何を信じたところで、人はそれぞれの主観で物事を見ますので、それぞれの解釈で信じてしまえばいいのではないかと思ったりもしますが、主観の根幹を揺るがしてしまうようなことを信じてそのまま盲信的に時間を過ごして行くことも少なくありません。根幹は自身の目的です。それを見失い目が濁り、失敗を繰り返すのがパターンです。シーケンスです。繰り返しです。そういう人を距離を置いて見て分析していると、そのシーケンス毎に少しずつ変化していってるので、それはそれでありなのかなという気もしますが、ケースバイケースです。繰り返しながらも変化していけるのは、根幹が特殊で強烈なものだから変化せざるを得ないという不可避的な要素があるからです。一般的にはパターンに陥ると抜け出すことは難しくなります。

端的に「何を信じたらいいのかわからない」場合は、自分自身の中に「信じること」の比較基準がないとも言えます。人が何かを信じる場合、その拠り所となる根拠を求めます。神仏への信仰の根拠は、極楽浄土へ行けるようにだったりとか、感謝だったりとか懺悔だったりとか願いだったりとかお経だったりとか呪文だったり、まぁいろいろあります。テレビや雑誌、ネットなどではその露出数が基準になります。誰それが健康に良いと言った商品が店頭から消えたり、ちょっとテレビや雑誌で紹介されたら行列ができたりとか、よく聞きますし、ローカルでもその影響力はビックリする程の反応があります。安易といえば安易。素直といえば素直。

いちおうのセオリーとしては、自分自身を信じられる程に自分に教養や文化を身につけて、自分への自信の裏付けを用意し、そして自分自身を信じて自分で判断するものです。ただ、このセオリーには前提があります。「家庭」で育ち「学校」で教育を受けているという社会環境の前提です。時代とともに、その前提が役目を果たせなくなり、それでも今まであった制度ですし基盤でもありますので、じゃ代わりにこれをという簡易なものでもなく、そのままズルズルとここまで来ている感があります。そして吹き出す様々な社会制度上の問題。薄々みんな気付いていたはずなのに、ギリギリまで放置していたツケです。個人生活を守るはずだった社会が、社会を守るための個人生活になってしまったのは高度成長期以降にあった視点のすり替えです。

自分のためにだけなにかすることを「利己的である」とか「自己中心的である」という風潮が強く、我を出せば周囲から叩かれるのは文化です。その結果、迎合主義的になっていきがちですし、そうしておいたら責任は自分ではなく社会全体という曖昧な対象にすることができますので、己を責める必要もなく、また誰からも責められることはありません。ただ「こんなはずではなかった」という意味のない失望感に苛まれて悲劇のヒロイン気取りになるだけです。自分の人生の舵取りを放棄するのは簡単ですが、それは自分以外に持てない舵です。精一杯舵取りをしていれば、やがて隣にはナビゲーターが現れますし、素晴らしい景色や動物たちにも出会えますし、目的地にも到着できます。

こうしたことに気付き、主体的に動き出せるのならば、それは早ければ早いに越したことはありません。ナビゲーターは自分で作り出した存在です。それを信じればいいのです。
人が人であるうちは / 2007年7月17日

なんだか集団自決がどうのという話を耳にするなぁと思っていたら、第二次世界大戦沖縄陸上戦時の集団自決についての教科書の記述を教科書検定側で表現の書き換えを行ったらしく、「軍からの命令ではなくて住民たちが自発的に自決した」というニュアンスになったことに対して猛反発が起こり、それで人の口に上るようになったようです。

この手の話題は定期的に出てきますが、沖縄の集団自決は軍の命令がありましたし、もともとそういう教育をさせていた「大日本帝国」ですので、証拠がどうのとかいう以前の、思想的教育の結果のあの自決です。特攻とて同レベルです。日本中が共同で示し合わせて極めて危険な夢を見ていたのです。終戦に至るまで、沖縄で食い止めつつ玉体(昭和天皇)を長野県松代の地下壕に移し、本土決戦をする、という荒唐無稽な計画を日本軍は本気で進めていて、実際に松代には当時捕虜だった韓国人達に寄って掘られた壮大な地下壕が張り巡らされています。沖縄に行けば、塹壕には累々たる髑髏の山が今でも見ることができますし、ひめゆり記念館に行けば、当時のことを生々しく伝える資料を閲覧できます。

忘れないために定期的に話題に上るのは結構なことですが、ニュアンスが代わり住民があたかも自発的に自決をしたと書かれるのは、違和感がありすぎます。みんながみんな天皇陛下万歳で、自ら首を切り、手榴弾を抱え、子どもたちを殺したという解釈をされてしまいます。そういう解釈の余地があるだけでも危険です。

第二次世界大戦ではなにをどうトチ狂ったのか、昭和天皇を暗殺して玉音放送を止めさせ、皇太子を天皇として擁立してクーデータを起こす計画まであったことが記録に残っています。

ていうかそういう政治的な話はどうでもいいです。教科書問題についても、これとて今回の選挙の道具にされるだけなので、これもどうでもいいです。そんな社会全体のことは個人がどうこうできるものではなくて、複数の個人が共同で考えた結果が社会なので、個人個人が忘れずに知って認識していれば、結果的にそれが社会に反映されていくのだと思います。

休憩しようとマクドナルドに入って、ぼんやりしていたら、向かいの席では年の頃十五〜十六歳くらいの女の子二人が必死になって携帯で写真を撮っています。

「詐欺れた?」
「いけてんちゃうん!これ!詐欺れてんで!」

ひめゆり学徒隊で招集された年齢の女の子たちは、ちょうどこの年頃です。約240名が動員され、最終的には136名が亡くなったとされています。詐欺メールを必死で撮ってる少女たちは、さしずめ平和の象徴といったところです。

国家の平和と、個人の平和は別の方向を向いています。会社の利益と社員の利益や、学校の利益や生徒の利益が一致しないことと同様に、集団の利益は個人の利益ではありません。集団の平和は個人の平和ではありません。「複数の個人の表の顔」が集まって成り立っているのが社会ですので、それぞれの抑制の結果が社会と言えます。これを民主主義と呼んでいるわけです。

教育がどうこうとか、教科書がどうこういったところで、事実は事実としてありますが、事実を都合良く曲げて国家を運営するのは、人間が文明を持った頃からの常です。従って、歴史の歪曲についてとやかく言うより前に、個々人がそういうことへの見識を持つことが重要で、そうした見識は学校ではなく、家庭で育まれるものだと考えます。子どもは家庭を体現しています。子を見れば家がわかり、育ちがわかり、お里が知れます。ようするに、今の子どもたちの姿はその親の世代の鏡とも言えます。必要は発明を生み、不便は便利を生み、生活はどんどん便利になっていき、情報が溢れ人は空虚な時間を失っていっています。最近の若い子はバカばかりとか、空っぽだとか、批判的なことは耳にしますが、そのまま己に返ってくる言葉です。

集団自決の際には、父が家族を殺して自決したり、家族皆で一つずつ手榴弾を持ち一斉に爆破したといいます。手榴弾は、軍から「いざというときのために」と渡されていたといいます。戦中の教育では鬼畜米英が浸透していましたので、鬼畜に捕まる屈辱を味わうなら自決せよという思想が徹底していました。証言や状況証拠だけでも十分に軍だけでなく国家そのものの関与がハッキリと認められるわけです。原爆落とされて国として被害者面するのもいいですが、国内のことをなかったことかのように解釈を変えるのはいささか先行きが不安です。人間には一度おかした間違いをもう一度おかす反復と呼ばれる現象が起こります。人間の集団心理で成り立っている社会にも同様の現象が起こるのは、歴史が証明しています。反復は、それを認識して自我が認め抑圧を取り除けた時に解放されます。

このまま詐欺紛いの国家運営をしていたら、いつまで経っても分裂症のまま被害妄想が強くなって行くだけです。
星が求めしその存在 / 2007年7月12日

汝らは理性と壊れた本能のバランスの多様性により不確定要素因子として存在を許された物質であり質量を持ったエネルギー体である。悩み、迷い、焦る。そして過ぎた時を見つめ過去となってから気付け。それが人の定めだ。愚かであることが人を不確定要素とし、存在ならしめる動機であり、故にあがき迷わなければならない。それを嫌う人々は多数の人に倣い、自分だけではないと知り安心して己を忘れ、道を忘れ、自分を忘れ、偽善を正義と振りかざし、他者を責め自己満足を覚え、優位さを感じそこに自分の存在意義を見い出し、自己嫌悪を知る。教養のない卑しい心は、それをそれと知ることのない、人生を送り多様性の意味すら形骸化し、幸せと感じエントロピーの増大を満足として崩壊する。そこに個性の必然性はなく、産まれ死ぬ意味は見えなくなり、盲た目で見たものは暗黒であり無であり色はない。色があり感じる心があるうちに、道標に従い積極性を持って前に進むのだ。迷え。悩め。苦しめ。それが生きている証だ。それが個性だ。それが若さだ。それが全てだ。空っぽの頭だから柔軟で良く響くが響きすぎて汚れたことに気付かない無知さは自分への罪だ。
罪悪感を感じろ。妄想にうつつを抜かすな。感性を広げろ。できるうちにやれ。そしてもっとゆらげ。もっと傷付け。我には汝らの響きが必要なのだ。その響きを我は欲する。その響きが我の源に力を創造性を与える。ゆらいで響きが濁りゆきても、我は我のためにそれを是正する。希有な存在。
んーそうか / 2007年7月11日

まぁ。。いいか。
見えない天井 / 2007年7月10日
品のいい老紳士がやってきて言う。

「現状を良しとしました。続きます」

そうか、続くのか。
それならば日々過ごすだけだ。平和だ。
続くならそれも幸せだ。

重大な意思決定をされても、おれには何も成す術などない。

ああ、でもおれだけ先に呼ばれている。
行かなくてはいけない。
ものぐさ大王の椅子 / 2007年7月9日
なんだかんだマメにここは続いていますが、とっても面倒くさがりです。続いているのは続けるのが偉いとか、続けていれば何かになるとかではなくて、もはや惰性で続いていると言えるくらい、面倒くさがりです。パソコンを使う動機がここにありました。

そもそもはパソコンで音楽できたらキーボードとMIDI音源あればなんでもできるじゃん、楽じゃん、という次元でした。パソコンで絵を描いたら後片付けとかいらないじゃん、楽じゃん、と同じ次元で発展していったわけです。その過程で、調べものするのに「ネット使えたら楽じゃん」でネットに詳しくなりました。単純作業は「プログラムにさせたら楽じゃん」でプログラミングができるようになりました。ものぐさの結果、集大成として「パソコンオタク」に至ったと言えます。ところがここ数年、その「楽じゃん」を提供してくれるはずだったパソコンが(MacだろうとWinだろうとLinuxだろうと)、不便になってきています。まず、OSのアップデート。Winユーザーの方にはおなじみの定期アップデート。MacOSでも時々SecurityUpdateがあります。どっちも脆弱性が見つかってアップデートの催促をさせられます。さらにWindowsではアンチウィルス系アプリの更新。これが結構しょっちゅうありました。そして各々のアプリのアップデート。非常に煩雑。そしてメール。迷惑メールの数は月に3万通前後で推移しています。

かくして、パソコンは「楽じゃん」じゃなくなりました。

ネットにせよパソコンにせよ、利用者数の最大数が増えれば増えた分、無秩序へ向かうのは多様性の賜物です。アプリが高機能になればなった分、複雑になりバグの含有率は上がります。それが脆弱性なので、そうした脆弱性を含有したアプリというのは人が絶対に死ぬのと同じ、ある種の存在必要条件でもあると極言しておきます。だってWinnyで個人情報したからWinnyが悪いわけじゃなくて、それを使っていた人の知識不足であって、Winnyはそもそも分散型データ共有という目的のためですので、漏洩ではなくて共有されただけのことです。間違えてハサミで手を切ったからハサミを作った人を怒るようなものです。アホらし。それはバグでも脆弱性でもなく機能です。

いや、その話はいいとして、パソコンの楽な面だけを有効に使ってこそ始めて「楽じゃん」にまた立ち戻れるんじゃないかなと考えるようになりました。分析や記録などはパソコンが楽です。音楽はパソコンで完結できる仕組みができて、それまでは面倒臭かった設定やらケーブルやらが不要になってきました。パソコンと直結できるミキサーが登場したのです。で、MacOS Xなど最近「インテリジェンス」なOSであれば、ほとんど設定不要です。あとは使いこなす頭とセンスです。絵は使い分けです。写真類も同様です。検索すれば良いわけですので、整理など不要です。

とはいえ、なんどもハードディスクのクラッシュという憂き目に遭って、クラッシュ慣れしている身としては、デジタルデータにはまったく信頼を置いていません。消え去るものです。そして昨今の大容量化では、一つのハードディスクがクラッシュした際に失う知的財産は考えるだけで背筋がぞっとします。なので仕事関係のデータはRAIDシステムといういわゆる複数のバックアップを毎日自動的に取るようにしてありますが、それ以外のデータは一つのハードディスクに収まっています。いずれはデスクトップも無くしてしまって、ノートだけにして、そのノートとRAIDを同期させるというくらいにしておかないと、取り返しがつかないことになります。ノートブックのスペック向上は、私の仕事においてデスクトップを使っている必然性を無くしました。これは普通の人にはピンと来ないマニアックな次元ですが、はっきり言って凄いことです。動画や3D系の方は8coreなどのデスクトップでないとフルHDに対応できないのでそちらはそちらで大変ですが、私はそちらの仕事はしませんので不要です。

さて、ものぐさ大王としてはパソコンを使いこなせることで面倒臭いことが増えたという事実に我慢がなりません。

楽していたはずが(実際、楽していた)あるときから目的を達成するまでの過程に煩雑な手続きが多くなり、まったく楽では無くなってしまったのです。これはおかしい。本末転倒。というわけで、今は楽な道を模索中です。楽な道を模索するってのは、発明と同意です。楽するために車輪が発明されたわけで、文明が作られたようなもんです。時代としては楽な時代になったもんです。机に座ったまんま様々な手続きは可能ですし、昨今のSNSやアフェリエイトブームのおかげで様々な手段での営業ができます。

それをどう楽に落とし込むかが肝心です。
一回目とか / 2007年7月6日
先日、日本一長いらしい「天神橋筋商店街」を古本屋行脚していたときに、古本屋で店主とその母が喋っている会話が耳に入って来ました。

七十代のお婆ちゃんと五十代くらいの店主の会話です。

「しゃーけど、あの若いのには驚いたわ、ありゃないわ」
と、随分言ってます。

「親の顔が云々以前の問題やであんなん。きっと一回目なんやろな」

「言うたかてあれがまた子ども作って親になるんやろ」
とはお婆ちゃん。

二人とも声がでかいのはともかく、若い子に随分な無礼や非常識な言動をされて戸惑ったようです。

店主は

「一回目やから獣と違わんのとちゃうか。ありゃしゃぁないで」
とこれまた結構な言いようですが、おばあちゃんは

「獣の方がまだマシやで。子育てちゃんとしよるやろ」
的確かつなかなか過激です。

人間に生まれて一回目という意味で「一回」などと言っていたようです。最近ときどき耳にしますが、この考え方は嫌いです。「あいつは一回目(自分よりも人間経験の回数が少ないから)だから、馬鹿でも阿呆でも仕方が無い」という、他者を自分より下に貶めることで自分を優位にして納得する考え方です。わかりやすいので納得されやすく、広まりやすかったのか、若い人たちからもそうした話は聞きます。

自分の中で、相手を許す方法や手段として、こうした考え方を利用するぶんには構わないと思いますが、それを言上げてしまうのは、自らをも貶めることになっているように思えます。なので単純に生理的な嫌悪感に繋がっていきます。

仏教の輪廻転生に基づいた話ですが、その論拠はともかくとしてその考え方に卑しさを感じます。「ありゃないわ」でも「獣とちがわん」でも、子どもができることで「親」になって人になり素晴らしい人になるかもしれませんし、実際にそうなって来た人たちを見ています。一回目だろうと二百回目だろうと、その記憶がないのですから差はありません。だいたい前世記憶があったら大変じゃないですか。想像しただけで身の毛がよだつことになります。

いかなる事象も捉える自分自身によって、変化する物です。その変化をもたらす刺激は外からしか来ません。そうして外から来た刺激を受け取って次の行動を起こすのが未来になるわけですので、その善し悪しや損得は考えるだけ不毛です。やってきた刺激は常に過去で、行動は常に未来です。

何回目であろうと、刺激を受け未来を作る自分自身は常に今に居続けるので、未来の自分が楽しく面白くできるように考えるのがいいような気がします。

自分が楽しく陽気な雰囲気で周囲も巻き込めたら、きっと素敵です。
つくづく思う / 2007年7月5日
男と女は見た目の差異だけでなく、中身も男性性と女性性に分けられるようです。だから性同一性障害という葛藤が発現するわけですが。

見た目が女性でも中身は男性的な人はいますし、その逆も多くあります。見た目そのまんまの人はひねりが無い時点で、興味の対象外になります。

とはいえ、構造上性差による差異は極めて大きく、脳の構造そのものがかなり違います。だからこそ興味をそそられるのは、常に異性になります。同性は想像の範疇から出ることはありませんので、興味をひきません。その性差を知りながらも、同じ形態で二足歩行をし、同一言語を使うがゆえに理解し合えるという誤解を生んでいるのもまた興味深い事実です。理解を求め合っても根元的に異質なものですので、ところどころ共感は可能ですが、譲歩があってこそ成り立つ関係であると確信しています。

従順に理解したつもりでも、本質が伴わなければ、理解ではなく思い込みです。理解できないけど受け入れる努力をするなり、させるなりといった積極的な行動や、そうした行動によって見え隠れする誠意が、信頼関係として結実するのが人間関係とも言えます。

それを放棄したらその時点で建設性はなくなり、無為に傷付け合い傷を舐め合うみじめな関係へと突き進み、やがてその関係に飽きたり、うっとうしくなったりして破綻に至るのはよくある話なので、聞くには値しません。三文小説ですし、脚本としても成り立ちません。

こうした考え方には「女性像」「男性像」という画一的な基準が世の中に脈脈と受け継がれてきているからだと感じます。

全ての人間は女性から産まれてきています。男性がいなくなれは子をなせないだろ、と言う意見もありますが、これは嘘です。世の中から男性が消え失せると、女性の中から男性の役割を果たす女性が産まれるのは人間以外の生物が実証していますし、染色体的にみてもXXの女性とXYの男性では本能的生存確率が低く設定されています。XがYになっている一本足りない男性の染色体には、生命維持に必要なDNAが組み込まれていますので、それが足りない男性は必然的に女性よりも生存競争において不利にできています。なぜそうなのかは自明ですが、そうした劣等感を知ってか知らずか、女性の前では尊大になる人もわりと見掛けます。

卑屈になる必要はありませんが、お互いがお互いの立場や仕組みを理解して譲歩したり議論したりして、お互いの違いを例え平行線であっても深く知り合うというのは、清々しくて気持よくて楽しいものだと確信しています。

だから、友人には女性を選びます。刺激と糧をもたらしてくれるのは、常に自分とは異質の存在であった方が得るものが大きいのです。

なので、趣味が合う人、話が合う人に対して懐疑的になってしまいます。それはそれで楽しいのですが、その関係に建設性は無く、面白くありません。

でも類は友を求め安心を得たがるもののようですので、例えそこに建設性や発展性、生産性がなくとも、安穏としていられるのが幸福なら結構なことかもしれません。私はそれを掻き混ぜて外から眺めているのが好きです。悪趣味ですが、安穏として沈殿して底に溜まっていくのならば、攪拌して新たな反応を起こすのが自然の摂理だと感じます。外的刺激の無い空間が例えば在ったとしたら、そこは虚無です。移動もなければ熱量の増大もなく、従って時間という概念さえなくなります。外的刺激が在ってそれに反応するからこそ、刺激が過去になり反応という未来に繋がり、ここに時間という概念が発生し、反応するから移動が起こり熱量が増大して空間を認識するのが意識です。攪拌することで意識を覚えさせ、自立行動を起こしてこそ全てが動き出す気がします。

んで、最初の話。内面的男性性と女性性の差異は想像するに成長過程における環境という外的刺激や性ホルモン分泌という内的刺激の組み合わせによって左右されるように思えます。男性性と女性性のざっくりとした定義として、男性性は「積極的行動的独断的」、女性性は「受動的消極的優柔不断」とでもしておきます。従って、見た目が女性的でも「物事を自分の意志でグイグイ進めていって、おいこら着いてこい置いていくぞ」みたいな場合は、男性性が強いと形容できます。逆の場合だと見た目が男性的でも「ちょっとまってあれどうしようこれどうしよう、え?あ、そっちもいいかも、でもやったことないから怖いな」みたいな場合は、女性性が強いと形容しておきます。きっとこれは固定的なものではないと思いますが、組み合わせとして男性性が強い者同士のカップルではきっと衝突が多くなりそうですし、女性性が強い者同士のカップルでは双方が双方ともにウンザリしそうです。見た目や喋ってみたら面白くて付き合ってみたものの、あれなんか全然イメージ違うじゃん、ということはきっと身に覚えがあることでしょう。

そうはいっても、こんな簡単に割り切れるものではないのが人間の精神構造です。外圧(他者)によって変化して未来を選んで行けますので、さてそこでどうするのかというと、人間には見た目の性別以上に内面的性差があるということを認識して許容して譲歩するなり理解するなりで、お互いの立場とそれによる役割というのを明確にすれば、潤滑な関係が築けるのではないかなと考えます。そして、それを実践している人がいて、その話を私にしてくれたからこそ、こうした考えを知ったわけで、一つ見知を得たわけです。

染色体のちょっとした違いは、思っている以上に違うものです。
そして、それは貴重な違いです。
うおゎおおおおおお / 2007年7月4日
しまっっったぁあああああああ!!!

と思い出したのは、国立美術館。
あぁ、6月末までだったベルギー王立美術館展にマグリットが来ていて行こう行こうと思っていたのに忘れてた。お、おれはアホだ。それも真性の。

まあいいや。

切り替えは素早くが肝要。そうじゃないと次の面白いことや楽しいことを見落とします。今月はあっちこっちウロウロ行ってやるだけやってみるつもりなので、その際にまた面白いことを見つけるかもしれません。

ところで、出版不況と言われだしてもう数十年。案の定CDの方にも波及して現在では週に五千枚も出庫できれば週間オリコンチャートに乗ります。本が売れないというのは、書籍卸売りや小売店の立場の言い分です。CDが売れないというのもCD卸売りや小売店の立場の言い分です。んで、慣例的に卸売り(営業側)の言葉=お客さんの言葉というイメージがあるようで、売りやすい物を作れと出版社やレコード会社に注文が来ます。そして、各社の営業は立場が同じ営業側ですので、それを制作側に伝えます。ここで制作側と営業側の衝突が常にあります。さて、会社経営側からみたら、現金を運んでくるのは営業側ですので、営業側の言い分を支持します。数字として現れますので、株式会社であれば株主に対してわかりやすい結果を示すためにそうならざる得ない立場でもあります。要するに、制作コストは抑えて抑えて売りやすい物をとにかく商品を出して店頭に並べるのが必要なわけです。

制作側にはそんな頭は最初からありません。だから営業側と制作側の衝突は必然とも言えます。ところがここに既存の流通をすっ飛ばした仕組みができあがりました。アマゾンやiTunesです。書籍流通は既存のものですとISBNコードという書籍コードが必須で、これがないと流通されなかったのですがアマゾンでは通常のバーコードだけでCDも書籍も同様に流通できます。iTunesに関しても同様で、こちらは国際コードを取得すれば登録ができます。

さて、ここで全体を俯瞰してみると既存の流通経路と新たな流通経路の二つがあることになります。この二つは対立的ですがシェアとして共存を確立しつつあります。そして消費者(お客さん)からみたら、手に入るならどっちでもいいものです。近所の本屋にあればそこで買いますし、たまたまアマゾンで見つけたらそっちで買いますし、夜中に欲しくなったらiTunesで買いますし、ジャケットが気に入れば店頭で買います。消費者から見れば手に入るルートが増えた分、メリットは大きいと言えます。

そして問題になるのは、時間です。本や音楽は大まかに娯楽の部類に入ります。一日の生活時間のうち睡眠、食事、仕事、勉学といった必要な時間を差し引いた残りの時間が、娯楽に充てられます。昔は娯楽そのものの数が少なかったです。ライブ、音楽、読書、映画がいいところでしょう。それが今はもはや何でもありです。テレビ、音楽、読書、映画、ゲーム、カラオケ、ゲームなどなど。言わばこの「娯楽時間」の取り合いをしているという状況でもあります。ライブへ行く人の絶対数は右肩下がりですし、CDそのものの売上も右肩下がり、書籍雑誌等も見事に右肩下がり、テレビの総視聴率も右肩下がり。要するに平均化しているというわけです。平均化されるとわかりませんが、それぞれのメディアで瞬間的に爆発力を持って売れる物があって、その数字が平均値をなんとか持ち上げているようです。こうして平均化されると、消費者から見ると何がいいのか悪いのかという基準がわかりにくくなるので、話題性をその物差しにします。テレビで見たことある、雑誌で、ネットで話題になっていた、という切っ掛けを基準に善し悪しを判断してしまいます。これが大衆心理でもあります。

そういうわけで、だいたいの娯楽は用意されているものです。だから、何も無くなった時に時間を持て余すことになります。

用意された娯楽は面白くも楽しくもありません。
娯楽は自分で作るものです。自分で見つけるものです。
まったくもって / 2007年7月3日
バカなんだから。変わったつもりでも本質的に変わることはできなってことを証明してるじゃん。本質的に変わったらそれは異質の別人。理解できないこと理解しようと努力する姿勢はいいけど、理解のために自分の頭の枠組みに当てはめて考えるのは根本的に間違ってることに気付かねーのかよ。理解できないことは理解しなくていいから、譲歩しろよ。理解できませんが譲歩はしますって言えよ。それでも許してやる気にはならないけどな、この陰気なデブ。

バカはバカなりに、自分の枠組みや世界にはめこんで理解しようとすんじゃなくて、自分から理解したいと思うんなら学習させてくださいって言えよ。それともただ受け身でハイハイ言って聞いて後からこんなはずじゃないって否定して自己嫌悪にでも陥って満足するわけか。おめでたいヤツだ。

と、夢の中で怒鳴りながら激しく怒ってました。

あぁ、爽快。

そういえばこういう風に怒ることもなくなっちゃったし、なんか人が変わったように声を荒げることも少なくなりました。良いとか悪いとかじゃなくてね、他人に対してどうでも良くなってるような気がします。本気で組み合ってないというか、所詮他人の人生だし、自分の人生に大きく関わる人は多く要らないしという醒めた頭で自分を守っている気がします。なので、真剣に悩んで取り組んで失敗して滅入って悩んでと繰り返している人を見ると、内容はともあれ凄いなと思えます。だからこそ人の激烈な悩みや壮絶な相談を聞くことができるのかもしれません。悩みに対して同情も計算も無く、純粋に聞いて糸を解きほぐしていくのは内容によっては冷酷な場合もありますが、そうして糸を解きほぐして悩みの根本が見えたとき、また得る物があるわけです。

まぁだいたい理解し合えると思ってそれを求めるから齟齬が生まれるわけで、理解し合える部分もあれば、そうでない部分もあるからこそ楽しいのが人間関係です。理解し合えない部分は、お互いにそれと知って譲歩し合えば済む話です。譲歩し合っているうちにそれが理解に至ることだってありますし、別に譲歩でも理解でもどちらでも人間関係がうまく行って生産性があるなら、なんでもいいんじゃないの、と感じます。

ていうかさ、なんなのその男も女も社会に出たら結婚して家庭を持ってみたいなのがゴール的な考え方。男の人から良くそう言う話は聞くんですけど。それで結婚できない女性を負け犬と呼ぶ世の中ってどうなの。

譲歩とか理解とかじゃなくて、ただただ大嫌いです。