はい、投了 / 2007年8月31日
手詰まりです。
日記8月27日 / 2007年8月28日
朝に暑くて起きたものの、二度寝。
意識が戻ったのは昼前で、焦って仕事へ。
とはいえ、締め切りを越えた直後なので特に慌てる必要もなく、メールチェックして次の仕事のデザインを大まかに考える。資料を読みながら、凄い内容だなと読み込む。だいたいのイメージはまとまりつつあるので、少し放置。
その後、兼ねてからどうしようか悩んでいた88鍵のMIDIキーボードを購入。
防音設備を先に整えようかと思っていたけど、さっさと楽器買って気分転換に練習しようというノリで。
少し前に遊びにいった某ミュージシャン宅でピアノを見て
「いいなぁ」と触っていたら、後ろから
「練習したらすぐできるようになるで」
という一言が効きました。
そして、もう一人が追い打ちをかけるように
「あれ、鍵盤も弾けるんだ」
「ううん、弾けないよ」
「え、弾けそうなのに。意外やわ」
はい。買いました。
ギターもろくに弾けないのにキーボード買ってどないすんねん、とあちこちから皮肉も聞こえてきそうですがミニキーボードとフルキーボードと合わせて遊びます。基礎はきっちり教えてもらって、ざっくり我流で行くつもりです。
これで防音設備は先送りです。
というか、場所的にさすがにこれ以上好き勝手放題したら怒られそうですので、今が限界です。防音設備は「作品が社会に認められて金になった」ときに、場所と合わせてちゃんとやります。ああいかん、結果的に作品が社会に認められて金になりゃいいという動機でないと、腐ります。その辺はどうでもいいと思ってやらないと、ドツボですので、あまり深く考えずに思ったままに進みます。
徐々にですが、着々とDAWの構築へ進んでいます。
もっともっと頑張ってもっともっと高いところからもっともっと高いところへ生きて行きたいのです。
そうしているうちに、仕事の修正がちょこちょこきて27日は終了。
このスコスコ感をなんとかしたい。
なんかスコスコなのよね / 2007年8月27日
なんというか、こう、空気が抜けてしまった風船のようなスコスコ感。空っぽになったスプレーみたいなスコスコ感。ちょっと前まであった「ああしたいこうしたい」という欲求がスコンと全部抜け落ちてしまった感じ。欲求が無いと衝動も生まれず、動く動機が出てきません。だからぼんやり仕事だけしてる気分です。まぁ今はそういう時期なんだろね、と焦らずぼんやりしてやらなければならないことだけやってます。
創作意欲だけはあるし、材料は入っているけど、スイッチを押してくれる人が居ないという感じです。あるいはもしかしたらスイッチは押されているのかもしれないけれど、材料が入っていなかった、というような。要するに、準備不足ということなのかな。
最近の昼間は、仕事環境も劣悪です。向かいの土地は土壌改良とか言って凄いことをしてました。ここ、これからマンション工事が始まりますので、3年ほど前の悪夢が蘇ります。どうしようこれ、ちょっとマジ勘弁。
でもマジ勘弁と思うのは私だけのようなので、炎天下の朝から夕方まで工事している人は大変だなと思うことで慰みにしています。この期間だけ仕事する場所を変えても良いわけですし、完成するまでの辛抱です。
筒井康隆の「にぎやかな未来」を思い出します。
PHSが普及し出した頃、まさにコレでしたので参ったものです。
やっべぇやべぇ / 2007年8月24日
なんだかんだとバタバタしていたら、一日終わってしまっていました。
今、環境が中途半端です。
なにしろやっていることが中途半端なものなので、それが環境に表出してきているわけです。目的ははっきりしてきましたので、徐々に環境もそれに応じて変わっていくことでしょう。
作業環境もなんとかしないといけません。
仕事の作業環境はもうできあがっていますが、それ以外の環境はつぎはぎなので、必然的に面倒が多くなります。そのためにはまずは貯金からだな、とチマチマ貯金をし出しました。
きっと今、そういう気分なだけでそのうちドバーッと無意味に使ってしまうことでしょう。
だからいかんのだよ。はい、確かに。
なんにせよ、作業環境は快適なものに越したことはないです。
気持ちいいもの作るのに、気持ちいい環境じゃないとできません。
楽しいもの作るのに、楽しい環境じゃないとできません。
合う合わないってありますので、そこら辺は試してみないとわかりません。
物でも人間でも、なんでも。
大阪の今日 / 2007年8月22日
良く晴れました。
昼前から打ち合わせだったので外出しましたが、暑いこと暑いこと。みんなビルの影に寄り添いながら歩いているので、光のあたっているところに人は歩いていません。車道を行くクルマやお店から流れて来る音楽はけたたましいのですが、無音です。空の青さが青過ぎて、光の場所はただ白く、影の場所はただ黒く、モノクロームの風景に青色だけが際立っていました。
帰りには楽器屋へ寄ろうか、ついでに古本屋にもなどと考えているうちに、モノクロームの風景に溶け込んでしまっていたようで、気がついた時には駅のホームに立っていました。そのまま帰ってきて、結局どこにも寄ることなく、一日も寄り道なく日が暮れていきました。
夜になってから、ぱらりと雨が落ちてきた様子で、昨夜より気温は下がっています。
今日はこんなもんだよな。
こういうときどうしたらいい? / 2007年8月21日
寝よう寝ようと布団に入ってしばらくしたら、頭の中でコードが流れてメロディが出てきました。そして勝手に刻み出すリズム。おお、これいい感じじゃん、と頭の中で反芻して、こりゃ録音しておこうと思ったものの、現時刻午前2時+現在地は布団の中=面倒。
というわけで、あれだけ反芻したメロディもコードもリズムも、翌朝には綺麗さっぱり無くなっていました。
携帯電話にでも録音しときゃよかった。
それすらも億劫だったわけで。
また何かのきっかけで思い出すことでしょう。
きっと。
多分。
恐らく。
あちこちに火種が転がってるわけです。それを認識しているのかどうかはともかくとして、客観的にぼんやり火種に向かっていく様を眺めていると、あぁまたかぁと既視感を覚えて少しだけうんざりします。どうせ同じことするなら、おれを楽しませてくれよ、注文を付けるまでもなく、半ば必然的に観察者から関与者へと立場を変えさせられます。もちろん、自ら選んで関与者へ移行していっていますので、お祭り気分も半分あります。でもここで関与するとまたやはり同じ道を辿るのは予想がついてしまい、それではやっぱりウンザリの道ですので、予想がつかないことをしてやろうと、余計なことを言ってみたりやってみたり、不確定要素の働きをしてしまいたくなる衝動が生まれてきます。さて、次は何をしてやろうか、どうしてやろうか、ここで傷付けてみようか、それとも感情を揺さぶらせてみようか、などと考えてしまいます。
人はこうした理解不能の不確定要素に名前をつけます。
その名前は、主観で変わるので善でも悪でもなんでもあり。
「名称はね、いずれ収束する情報系に属するものでしかないんだよ」
と、ネズミに諭されました。
冷静に猫が言います。
「名称に注目するより、事象そのものを捉えた方が面白いことが見えるかもしれないよ」
そんなこと言いながら、冷静に猫はネズミをなぶり殺しておもちゃにしています。虫の息でネズミが語りかけてきます。
「こうした行為もその名称も、キミたちにしか意味を持たない」
なかなか面白い夢でした。
ところで、珍しく夏バテ気味です。なんだかこう、モチベーションが上がらないってやつです。やる気がでないってやつです。やる気に左右されて仕事なんてやってられませんので、常に平坦な気持ちで淡々と進めていきたいものです。
こういうときどうしたらいいのか、よくわかっています。
わかっちゃいるけどね〜。
お盆休みでした / 2007年8月20日

のんびりしてました。
本気のんびり。
ほんとはゴールデンウィークのときのように、休みも関係なしに更新し続けるために原稿を用意しておこうと思ったのですが、思ったようにいかず、すっぱり休みにしました。
帰省先では、昔遊んだ山の中へ入って行ったのですが、最近はこの辺りで遊ぶ子どももいないのか、見事なまでの荒れ放題でした。山の中にはもはや原型を留めていない廃墟があって、その廃墟で遊んだものですが、廃墟までの道が背の高い雑草と蔦で埋め尽くされており、まず草刈りからしないと入れないな、と諦めて、獣道へ入っていきました。獣道から登山道を見下ろすと、かなりあちらこちらが崩れています。小沢も雨の少なさからか、ほとんど枯れていて無惨です。枯れた小沢の水たまりはボウフラの絶好の巣です。薮蚊の数が半端ではありませんでした。木でできた簡素な橋は崩れ落ち、荒れ放題もいいところです。
この場所は、神社の奥の宮になっていたはずで、ちょっとした広場があり、小さな祠があったのですが、その祠も崩れ落ちて打ち捨てられていました。当の神社はと言えば、神殿も綺麗に作りなおされて若干向きが変わっていました。表がこんなに綺麗でも、奥があれではどうなんだろうかと、ふと感じてしまいます。
市街を抱く山の峰と峰の中間にある場所は、古くは遥拝所になり山を御神体とした祭祀が執り行なわれたりしたことがあったりします。この神社は白蛇を祀っています。蛇の神と言えばミシャグジ。諏訪の神です。諏訪の神はタケミナカタノミコトになっていますが、元々は守屋山の大蛇が諏訪の神だったようです。ミシャグジ漢字にすると「御石神」。石神井や精進、十三は音の当て字の際に変形したいう話もあります。この手の自然崇拝は日本の原宗教と言い換えることもできます。
そうしたことを踏まえて考えると、先の白蛇を祀った神社の奥にある小沢の源流になっている不自然な広場と朽ちた祠や、抜けて見える空には、昔の人々が何か意味を見いだした場所なのかもしれません。地域的にも縄文以前から人間が住んでいた場所ですし、山々の配置はさほど変化していません。諏訪の守屋山だけでなく、奈良の三輪山もそうですが、祟ります。そしていずれでも蛇が出てきます。
また、この白蛇を祀った神社の隣の峰には忘れ去られた遥拝所の様なところがありました。元々は石段があってどうやら建物もあったようですが、全て崩れていて石段が辛うじて形を遺してます。崩れた幾つかの石碑には、どうやらここを建てた一族の名前が幾つか彫られていました。割れています。登山道を開いた人かもしれません。崩れた石碑の一つに中央にアメノミナカヌシノミコトを配し、左右に天津大神、国津大神と彫られた碑がありました。碑自体はそんなに古いものではありませんが、いくら何でもこれは大袈裟です。アメノミナカヌシノミコトは天津神にも国津神にも属さない最初の神ですので中央に居るのはいいのですが、登山道の入り口にこんなものがあったのが解せません。登山の無事を祈るにも程があるってもんです。この碑ができるより前に、この界隈にも何か人が集まる場所があったのかもしれません。こちらも小沢が流れていますので、これを遡っていけば、隣の峰の様な場所がもしかしたらあるかもしれませんが、この辺りは黄鉄鉱が採れる場所でしたのでそんな痕跡もなにも無いかもしれませんが、興味深い場所でした。
この辺は追々調べてみようかなと思っています。
夏より冬の方が、熊も蛇もいませんし、草木も枯れて見通しもいいので雪さえ無ければ冬に改めて入ってみるつもりです。
あ、でも寒すぎるかな(軟弱
帰省 / 2007年8月14日
このお盆、みなさんあちらこちらへ行かれているようです。帰省の人も居れば、旅行の人もいて羨ましいやら羨ましくないやら。羨ましいです。
私は明日から帰省の予定です。
きっとそう / 2007年8月13日
「世界が終わっても、あなただけ生きていそう」
「なんか何しても死ななさそう」
「柳に枝折れ無しって感じ」
わりとそういうことを言われます。善し悪しはともかく、人間離れしているように見えるのか、浮世離れして見えるのか、生活感が無いように見えるのか、客観的にはそんな方向に見えているようです。自分ではわかりません。あるいは極端に精力的、情熱的に見えているのかなとも思います。
そうした人がいきなりコロッと死んでしまったりすることがあるので、ちょっと怖いなと感じることはあります。病弱な人に限って長生きして、いつまでも生きていそうな人に限ってすぐに死んでしまったり、なんて聞いたことあるような話です。
聞いたような話はともかく、個人的にはせっかく手に入れた物理的な肉体です。使えるだけ使って生きられるだけ生きて、できること全部やって文字通り骨の髄まで楽しんでやる、という気構えはずっとあります。というのも、ともすれば煩わしい肉体はいらないと思ってしまうことがあるので、それを抑えるために必要な気構えなのです。
欧米ではキリスト教が強いので、いわゆる神が人を作ったという創造論が未だに根強いのですが、現実としては選択的進化の結果の肉体です。だからあちこちに不合理な部分もありますし、自然環境適応進化とここ二千年ほどの社会環境適応進化の狭間で、現在は進化の過程にあると言えます。人類という種が選択的に淘汰されるか進化するかは今後の話です。
ちょっと極端ですが考え方によっては、生きている状態から死んでいる状態に移ることが一つの進化とも捉えることができます。全うな死という進化を得るには、生を果たさなければ得られないというわけです。
なんてことを考えていても、社会環境には適応できませんので適応するためのそれなりの処世術を身につけるのは、技術です。こうして自分の中で大いなる自己矛盾を抱えながら、それを自分自身から切り離して「あれは自分ではない」と観察しているのですから、私の場合はこれとの同一化を果たして、次のステップへ行かなければなりません。それもまた楽しみ方の一つですし、もはや矜持とも言えます。焦ることはありませんし、この状態を楽しむ余裕もあります。
日や時間によって考え方ややっていることがコロコロ変わるのは、こうした自己矛盾の成せる業ではありますが、それに振り回される自分にはなれていますし、周囲も文句を言いながらでもついてきてくれていますので、ただひたすら感謝です。
生きてても死んでても、周りの受け取り方だけで何にも変わらないのかもしれないなと、思ったりもします。きっと私が執着しているのは、生であり死であるから、最初のような印象を受けるのかもしれません。
変わりたいときに変われず、変わりたくないときに変わる / 2007年8月10日

風も雲も人の心も雲水の如く、ひと所に留まることができません。留まりたくともそれはさせてくれません。移ろい易いのではなく、移ろう故に存在できているようです。
自分はかくありたいと願っても、願い通りになることはなく、なったらなったでまた次へ変化して行きます。あるいは今のまま変わらずにありたいと願っても、やはり次の変化へ至ります。願いは常に未来にあり、変化の結果が過去で、変化し続けているのが現在と言えそうです。
少しずつ、としつきを積み重ねていくことで良かろうが悪かろうが変わっていきます。同じところをグルグル回っているだけの人もいますし、上に行ったり下に行ったり右に行ったり左に行ったりウロウロフラフラ目的無くただ変わっているだけの人もいますし、ひた向きに目的に向かって変わっていく人もいます。どれでもなんでも人それぞれなので、いずれも善し悪しはありません。意識していようがいまいが、それが楽しくてそうしていることでしょう。
ただ、その変化の仕方が他者からの意見を鵜呑みにした結果の変化である場合は、変化の責任を自分ではなくその他者へ転嫁してしまい、変化から学ぶことができなくなってしまいます。受けた意見や忠告を鵜呑みにせず、自分の中で斟酌して疑問があればそれをさらに聞いて、そのうえで納得して吸収できれば、得られるものは言葉以上になります。テレビや雑誌、本からの受け売りは簡単です。その内容が例え間違っていても責任は自分ではなく情報源にあると転嫁できるので、安心していられます。オカルト系の話題は、これが多いので話を聞いているとかなり笑えますしなんか無茶苦茶なことをそれらしく真面目に書いていたりするので、呆れ返ることもしばしばです。
幽霊も宇宙人も超常現象も肯定派ですが、絶対に鵜呑みにはしません。オカルトは一歩間違うと盲信に走りこれは宗教と本質が似てきます。たとえ宗教ではないと言ったとしても、その言動はほとんど同一です。宗教とは一つの価値観の元で人の幸せを考えたものです。人の幸せは十人十色なので一つの価値観の元で語ることができるものではないと思っています。
常識も一見すると一つの価値観のように見えますが、さまざまな人たちの価値観が複雑に抽象的に絡み合ったものなので、共通性の高い価値観が常識という幻想を作り出している、一種の宗教です。
教義はさしずめ人情。世間体。
目指すところは良い人。
神様はマネー。
変わることが許されていないわけではないので、自我をしっかりもって自分の頭で考えて自分の足で動くことができれば、勝手に作り出したレールなんて霧散します。
イージーよりイージーなのが人生です。
ちょろいもんだぜ。
渇望して手に入れたもの / 2007年8月9日
すべてから自由になった。
それは、すなわち孤独だ。
清々しい。
孤独は力だ。
孤独を恐れるものは、そこに自分の影を見る。
影を受け入れ、同化すれば孤独は力だ。
それが自由。
自分は自分。
誰でもない、何者でもない。
ただひたむきに、自分は自分として生きる。
プライベートスタジオを構築する / 2007年8月8日
音楽スタジオというと大袈裟なイメージがあります。ブースやら防音やら機材やらで数百万から数千万というのがきっと一般的なザクッとした印象だと思います。音楽スタジオと一口に言っても用途によって幾つか分類があります。ざくっとリハーサルスタジオ、レコーディングスタジオといったところです。リハーサルスタジオは、楽器用の機材があってモニタースピーカーがあってミキサーとドラムがあるレベルで、ライブのリハとか音出しといったプレイ主体のスタジオです。レコーディングスタジオはその名の通りレコーディングが主眼のスタジオです。従って機材は楽器用ではなく、レコーディング用です。機材の値段はピンキリな上に、レコーディング用の機材は今やほとんどがソフトウエアで賄えますので、ミキサーやオーディオインタフェース以外にそんなに場所やお金はかかりません。
いちばんコストがかかるのは防音設備。リハスタジオの場合は、特に防音設備はしっかりしないと音漏れ(特に低音)が騒音になりますので肝要ですが、レコーディングスタジオの場合は、そんなにかかりません。1.5畳くらいの防音ブースと窓や床、壁、扉にちょこちょこと細工をすれば防音できますので、ざっと50万もあればできあがりです。
レコーディングスタジオで重要なのは、音圧のロスを減らす工夫です。ケーブル内の抵抗を減らして音をクリアにデジタル化するところがポイントになってきます。太くて純度の高いケーブルを使用し、距離を短くすることでフォローしつつコンプレッサーで持ち上げてイコイライザで調整するというカタチになります。
雑誌などでプライベートスタジオを見たことがあると思いますが、ラックマウントタイプのエフェクトを使っているエンジニアをよく見ます。ラックマウントタイプのは物理的につまみを調節してできるので、簡単なのですが可搬性や設置場所などのデメリットが多く、コストもかかるのであんまり現実的ではありません。
今、プライベートスタジオを個人で尚かつ目的もはっきりして作る場合、MacBookProに全部入れてオーディオインタフェース内蔵のミキサーでスッキリすべてをまとめることができてしまいます。
DTP業界やポスプロ業界、音楽業界と業界単位で考えるとこれまで投資してきた既存の機材と新規の機材との兼ね合いや、対クライアントへの体面などの問題で、スッキリコンパクトなものにするわけにはいきません。ことポスプロや音楽業界の場合はこれまでかかったコストが軽く億を越えますので、とてもじゃないけど乗り換えなどは不可能なわけで、結果的に旧体制と新体制をすり合わせつつ仕事を回していますので、ややこしいことになっています。ポスプロなど悲惨です。制作現場とはまったく無関係の場所で、アナログ電波から地上波デジタルへ移行が決定し、現場は大混乱です。その煽りを食らって、会社を清算したところもあります。音楽業界はその点、機材よりもプレイヤーに依存しますのでまだマシですし、エンジニアにしてみても昔より楽になっていっているということですので、徐々に浸透して行くことでしょう。
さて、私のように個人で宅録レベルでやっている場合はもっとシンプルです。防音さえなんとかすればあとはどうとでもできます。差し当たってはホストマシンですので、MacBookProにFirewire内蔵のミキサーNRV10とRAID1のストレージを組んで、多分50万くらい。時期的には年末商戦の新製品投入を待つとして、支払いは。。ローンか?
うむ、ローンだな。
終わりは常に唐突 / 2007年8月7日

平和な日常や、ありきたりな日常は唐突に終わるものです。今日居た人が明日には居なくなっていたり、昨日まであった日常が今日はなくなっているというのも、当たり前です。人の出会いや別れなどは明暗による解釈の違いで、印象が変わりますので好例かもしれません。別れの場合は空虚感や傷付きから逃れたいと思い、忘れようその別れに意識を向けます。出会いの場合はいつの間にか出会って知り合ってということの方が多いので、何か強烈な意識を持つことは余ありません。思い返してみて「あれが出会いだったのか」というものですが、本質的には別れも出会いも同様です。いずれも突然やってくるものです。そして、それが日常です。その日常や関係に固執すればこそ、大事にしようとか維持しようとかずっと続けばとか思ってしまいますが、時間という流れの中では様々な形で少しずつ変わって行くのが自然の摂理です。普通のことです。
病気で徐々に衰弱して行き、亡くなって行った友人は終わりを認識していずれ来ることを想像して準備ができましたので、終わりを終わりとして受け止めることができます。来週の土曜日にまたここでね、と約束した翌日に交通事故で亡くなった彼女に対しての終わりは受け止めきれません。それまでの日常が唐突に終わってしまったからです。変化した日常は自分の日常だけで、それ以外は変わりありません。徐々にそれに慣れて行き、それが日常になりました。
などと書いていたら、祖母が亡くなりました。九十歳だったのでまさしく大往生です。最後まで介護をしていた親類は責任を全うしたという気持ちからか、肩の荷が降りたような顔つきでしたし、本人も眠るように自宅で逝ったということで、昨今の高齢者にしては恵まれていると言えます。祖母の娘家族に孫家族に曾孫とに囲まれての葬式は実に穏やかなものでした。
祖母のような高齢者や、若くとも病気で衰弱して行く様子を見せられていれば覚悟はできますし受け止めることはできますが、心身共に充実し人生真っ盛りを過ごしていたのが次の瞬間に死んでいる場合は、理不尽さすら覚えます。先の交通事故もそうですが、仕事中の心筋梗塞、脳梗塞というのも珍しくありません。平穏無事な毎日を過ごしているとそれが当たり前になり、ばいばいまたね、と言って何気なく別れますが後から思い返して、それが今生の別れだったというのは辛いものです。
だから、親しくしている人とお別れするときは常に今生の別れなのかもしれないなと頭の片隅で思いながら、ばいばいまたね、ということにしています。日常は常に終わりが後ろにあることを忘れると、日常に倦みますし、うんざりしてきますが自分だけじゃない要素で成り立っている関係性は、不可避的要素によって唐突に幕が下りることがあることは、認識しておいた方がいいのかもしれません。
具体的に見てみると、10〜20代後半は圧倒的に交通事故での死亡が多くなります。これは保険屋にも話を聞きましたが、特に免許を取ってから運転に慣れ始めた頃がやたらと交通事故死が多いそうで、無謀運転、飲酒運転が主因だとか。また20代〜30代後半は自殺が増えてきます。社会での自分の位置づけに苦悩した結果と捉えることができそうです。社会的責任と自己保存の狭間で揺れ動いて、自殺という完全自己保存の選択が自殺の動機に見えます。40代以降は癌や心疾患、脳血管疾患など、病気による死亡が70%を越えます。
唐突でも緩慢でもいずれ終わりが来るのならば、勝手にやってくるのをただ漫然と受け止めるのではなく、こちらから終わらせてやろうという反骨的な気持ちがむくむくと頭をもたげてきますが、これとて結果としては同じことになりますので、それならば終わりを来させないでやるという天の邪鬼的な発想で、自分は自分の道を行き終わりなどは受け付けない方向もありかな、と妄想します。
旧約聖書のヨブは140年生きたと言います。
「それがどうした。神を信じて140年生きたのならば、神を信じないおれは、1400年は生きてやろうじゃないか」
と、言い放てたら気持ちが良さそうです。
これが若さ故であれば、この気持ちを持ち続けられたらと願います。
人生は露ではありませんし、浪花のことは夢のまた夢ではありません。
終わりの無い夢はただの狂気です。
人生に執着も愛着もないからこそ、それを持てる何かを探し続けるのが、如何に露のように儚かろうが、一瞬のものであろうが、例え狂気であろうが自己欺瞞であろうが自己本位であろうが、正道と胸を張って言えるように在りたいものです。
そうして唐突に終わったところで、まあいいかと言うのです。
執着も愛着も何も無い / 2007年8月6日
こういうのを薄情と言います。翻意を促しても頑なに信念を貫き通そうとすると、薄情な頑固者になります。薄情なことをしたなぁと後になって思うことはあっても、これは後悔ではなくて相手に対する憐憫の情です。だから自分が苦しいということもなく、感想でしかありません。
何年もかけてなにがしかの関係性や結果を積み重ねたとしても、それに執着も湧かず、一瞬で捨て去ることができてしまうので自分自身が空恐ろしくもあります。そんなことしても恨まれるだけなのはわかっていますが、したいようにできない状況や関係や環境は要りません。不要品は手放して新たなところへ行けばいいのです。
もちろん道徳観や人生観としてみたら外道です。それをも鼻で笑ってしまうくらい外道なのは、生来のものかあるいは処世術として身につけた術なのかわかりません。何がどう変化しようが、生きている限り変化し続けるものです。変化が無くなったら死と同じです。それは見た目も心も考え方も何もかもです。自分にとって都合が良い部分は変化して欲しくないものですが、人がどんなに願っても四季が移ろい行くのと同じで、例え同じ夏が来ても前の夏とは違いますし、次の夏も今の夏とは絶対に違います。ルーチンのように繰り返される各曜日時間も常に違います。
結局、そうやって言い聞かせて問題も先送りにしてるだけなんじゃないのか、と自分にイライラしてきます。
どうやったって他人というのはその人の主観で評価するものですので、執着が無いことを潔いと評価する人もいれば、非情だ薄情だとわめく人もいるわけです。後戻りできないということを言う人も居ますが、後戻りなどできることは最初からありません。自分で決めて自分で進んでいるわけですので、自分で辞めるか捨てるかすればいつでも何でも始めることはできます。逆に自分で枷を作ってそれに知らずうちにすがりついていることもあります。
ミスキャストだとわかっていて、しゃしゃり出て行くほどバカじゃありません。かと言って静観していられるような大人でもありません。結論やその結果はどうでもよく、それで誰かの損得を考えるわけでもなく、傷付こうか傷付けようが、ただ引っ掻き回しに入るだけです。
私は人のためにここにいるわけではありません。
ちくしょうちくしょう / 2007年8月3日
しょうがなくてもくやしいものはくやしい。
腹立たしいことは腹立たしい。
本を読む、絵を観る、映画を観る / 2007年8月2日

本を読んだり、絵や映画を観たり音楽を聴きます。音楽は、人の曲はあんまりこれと言った感慨もなく聴くというより構成やアレンジなどに耳がいきますので、純粋に聴いているとは言えないかもしれません。何かしながら聴いているときは、音楽を流しているだけで聴いてません。絵はざっと観て興味をそそったら細かく観るけどだからどうというものでもありません。映画は画面を見つめ続けないといけないので、基本的に敬遠しますがDVDでは観ます。いちばん接しているのは活字です。本にせよ漫画にせよ、読み出していつ中断してもいいですし寝転がっても読めますので気楽です。
なので活字中毒です。面白いとか面白くないとかは読んでみないとわからないので、とりあえずは読むだけ読みます。フィクションもノンフィクションも無関係です。節操無く読みます。節操のなさはジャンルだけじゃなくて、読み方も無節操です。何冊かの本を平行して読みます。例えば、今ですとサイモン・シンの「暗号解読」とアラン・ホブソン「夢に迷う脳」、高村薫の「李歐」、山本弘「神は沈黙せず」を読んでます。著者になんと失礼な読み方か、と思いつつも頭を切り替えて読めるので、楽しめます。印象的な語彙や専門用語などは調べたりして(これも楽しみの一つ)メモを取りながら読んで、興味を惹いた分野があればそこをピンポイントに絞ってさらに調べていくということを繰り返しています。
こういうことができるのは、無節操というより思想的背景が空っぽだからかなとも感じます。宗教はこうでないといけない、とか先入観はありませんし、恋愛と呼ばれるいわゆるロマンス・ラブはこうあるべきだというカタチは私の中にはありません。死生観についても定まっていませんし、科学とは現象ありきで検証すべき学問である立場ですし、量子論が抱える大いなる矛盾も知識として知っています。UFOが宇宙人の乗り物だとは思っていませんし、宇宙人の乗り物だからUFOは宇宙から来たなどとも思っていません。さらに言えば地球の中には核がありマントル対流があるとも思っていませんし、地球が自転していて太陽の周りを公転していて太陽系は銀河系を周回しているとも思っていません。全て本の知識で知っていると思っているだけに過ぎません。
自分の手を観て、これが自分の手だと認識する自分とは何なのだという唯識的な考え方は古くさいですが、ニューロン間でやり取りされる分子による刺激で超自我や自我といった意識を芽生えるに至ったとも思っていません。外部からの刺激があるから意識があるとも思っていませんし、幽霊に叩き起こされてぐちぐちと未練を聞かされたからと言って、目に見えない存在が居ると思っていません。
これらのことの逆も全て然りです。立証することも反証することもできませんが、体験することはできているのです。「神」という絶対的な存在が居るとか居ないとか、無意味な議論でどうでもいいことです。それはただの宗教観に過ぎません。死んだあとのことを考えるのは生きているからで、生きているから死んだあとのことを不安に思う循環論になります。ロマンスラブは概念に過ぎません。科学的非科学的という発想は、想像力の柔軟性がなくなります。量子論は矛盾を抱えながらも現実社会に応用されています。利用できれば矛盾は問題になりません。UFOは無意味です。それが日常生活に影響を及ぼすようになったときに初めて意味が出てきます。地球の中がなんであろうが、かまいやしません。地球が自転していようがいまいが、朝夕が来て季節が巡れば大きな問題ではありません。選択的進化の結果、意識を獲得しようがしまいが、今の自分がここに居て自分を感じて自己認識ができ、他人と自分の区別がつくのであれば、これまた問題はありません。
本を読んだり絵や映画を観て音楽を聴くのは、世間に出回る様々な情報をどんどん「自分」というミキサーに入れていく作業に感じます。そしてあるとき他人がそのミキサーのボタンを押すのです。ボタンには「怒り」「喜び」「悲しみ」「恋愛」「欲望」「悪」などいろいろな種類があります。ボタンを押されたミキサーは、動いて何かを吐き出すという仕組みです。
吐き出された何かは作品かもしれませんし、ただの排泄物かもしれませんが、ボタンを押す他人がいなければ何も出てきません。
これが社会と私の関係性のように感じます。
その関係性を維持するためにあらゆる情報を卑しいほど貪婪に追い求めている気がしてなりません。私にとっての真理は私の中にしかありませんし、私以外には脈絡を持たないのは、私がミキサーだからなのかもしれません。
思想的背景や宗教的背景、文化的背景が空っぽ故にミキサーになれているのかと思えば、空っぽの自分にも存在意義を見いだせますし、そのミキサーのボタンを押してくれる他人には、押したボタンが何であれ、存在を活用してくれたことになりますので感謝の気持ちがわき上がります。
それ故に、ミキサーの中身はいろいろな種類のものが詰まっていた方が、面白いし楽しいわけです。
頭真っ白で冷や汗 / 2007年8月1日
昨夜、仕事が一段落してアプリケーションを終了させたら、そのままMacが動かなくなりました。スワップ領域のメモリ解放時にきちんと解放できなかったのか、アプリの切り替えはできるけど処理に入るとそのまま停まってしまう始末です。これはおかしい。強制終了も受け付けないしターミナルからkillしようにも、入力が全てアウト。
というわけで、物理的に強制再起動させたら二つあるハードディスクのうち一つをマウントしません。どうせBツリーカタログがちょっと損傷した程度だろな、と思ってfdiskでエラーチェックとリカバリを行ったところ、Bツリー修復に入るとエラーで落ちる。これはまずい。Bツリーが修復できないと、マウントはできないですしヘタしたら全てのファイルへのアクセスができなくなり、ヘタにいじるとディスクそのものが損傷します。しかもよく考えたらこのマウントできないハードディスクは前のMacからそのまま持ってきているものなので、この四年ほど酷使しているやつです。いつ壊れてもおかしくない、というより、この使い方で四年も保っていたのがちょっと凄いというくらい。
仕事関連のデータはRAIDのネットワークストレージでバックアップがあるのでいいとして、マウントできないハードディスクに入っているのは、今までスキャンしたフィルムのデータおよそ4000枚。フィルムがあるからデータがなくなってもまたスキャンすればいいものの、それ以外に音のプロジェクトデータが全部入っています。これが痛い。さらにデジカメのRAWデータ。これはバックアップはありません。音もRAWもファイルサイズが大きすぎることと、仕様の関係上、ネットワークストレージにはバックアップを取っていません。
これまで何度となくHDDのクラッシュには遭遇していますが、HDDの容量の肥大と共にバックアップを取るのがどんどん現実的では無くなっていきました。250GBのデータを片面2層のDVDおよそ9GBにバックアップなんてやってられませんぜ。それでにわかに脚光を浴びたのがネットワークストレージなのですが、これはこれでネット経由なので転送速度が遅過ぎて、仕事の作業にはいいのですが、自分の作業には実用的ではありません。
とりあえずはこれからHDDを買ってきてデータだけサルベージしますが、データの冗長性を保たせて実用的な環境を考えることにします。サルベージ不能の場合のことを考えたら、ゾッとします。
あーもー勘弁。