惜しい惜しい / 2007年9月27日
寝ている時間が惜しい、食べてる時間が惜しい、仕事している時間が惜しい、というくらいに、やりたいことが山積みです。
それでも寝なければまともなものは作ることができないので、きちんと眠ります。寝なければ夢も見られないので、寝ます。
食べなければ生きていくことができないので、食べます。
仕事をしなければ社会に居られないので、仕事もします。
ある意味では晴耕雨読です。
もういいかな、と安穏としてしまいそうですが、まだまだまだまだ足りません。楽しいことはまだまだいっぱいあります。人の7倍は楽しいことをして生きたいので、楽しさ7倍なぶん、リスクも7倍、トラブルもアクシデントも7倍、悩みも7倍、色んなことが7倍。その結果は、7のa乗。
悩むだけなんて誰にでもできますが、それを行動に移せるかはまた別問題です。計画性と悩むことは無関係です。
たまたま全然別業種の会社社長と話をしていたのですが、畑違いでも業界全体の流れやジレンマは究極的には共通のようです。業界も社会も世間も個人も、自分が通って来た過去に縛られてジレンマに陥り模索を繰り返し、時間を消費あるいは積み重ねていきます。
きっと普通にいけば1のa乗で常に1で安定していられることでしょう。でも私は望んで7をa乗していきます。だから何もかも惜しいけど何もかも手放して次へ行き、突き進んでいくのです。どんなことも楽しくて仕方ありません。
激しさを増す工事 / 2007年9月18日
向かいの土地がすっぽり更地になりました。
更地になってようやく静かになったなぁと思った矢先に、今度は予備工事だとかで夜中から道路のアスファルトをはがして下水やらガスやら電話線やら、共同溝の工事を始めやがりました。
昼から夜まで違う業者がずっと工事しています。
ここらへん住んでる人、すごい。
このあとさらに向かいの土地に11階建てのマンションが建つので、2年ほど工事が続くことはもはや確定済みのようで、覚悟が必要です。
私はここに住んでいるわけではないので、さっさと引っ越しか一人だけ場所替えを検討中です。仕事するのに騒音の中で我慢しながらやれるかっつーの。
以前、別の場所で騒音が酷過ぎて、工事業者にクレームをつけました。実際、こちらの建物の作りが甘いのもあるようですが、騒音レベルは大通り沿いで窓を開けているのと同じレベル。電話していても相手の声が聞き取れませんし、電話の相手からも周りうるさいなと言われるくらいでしたので、なんとかしてくれとクレームをつけたのです。
隣接建物だったので、きちんと応対してくれたのですが今回は道を挟んだ向かい側ですので、そうもいきませんし、昔よりは大人です。外からの音を遮音する=内からの防音ということで、部屋の防音対策をしてしまおうと検討中です。そもそも事務所用の建物ですので、音なんて漏れまくりです。ビル自体が古いというのもありますが、部屋内での会話も部屋の外から聞こえるという、長屋レベルですのでこれはこれでいいキッカケになりそうです。
なにごともね、こう建設的に考えないと、さっさと引っ越ししよっていうことになるのが常ですから(実際今までがそうだった)そろそろそんなことも言っていられないと自戒しつつ、安くて効率的な遮音対策を考えることで、気を紛らせつつ目先の仕事をしていくというのが目下の精神修行なわけです。
イヤになったら本当に引っ越しすれば済む話です。
手段はいくらでもありますので、そう思えば、気楽に考えられます。
工事は仕方ない。
え、今辞めるの? / 2007年9月13日
という感じで辞めちゃいました、安倍さん。なにもこんなタイミングで辞めなくてもいいのに、一番インパクトのある辞め方を考えて、今にしたのかな等と感じてしまいます。
自爆テロみたいなもんだ、とかいろいろ言われていますが、小泉さんの後は誰がやってもキツいと予想されていた総理ですので、ある種、適任だった気もします。このあとは麻生さんが自民総裁になってとりあえず総理になって内閣解散して、改めて民主から総理が出てきたりしたら面白いところです。担ぎ出されるとしたら菅さんかな。
まだ選挙権がない人から「安倍さん辞めた!」とメールがくるほどインパクトがあったわけで、演出は成功なのかもしれません。選挙後に普通に辞任していたら、こんなインパクトはなくて「ですよね〜」で終わっていたものです。これが切っ掛けで国政に興味が向けば、それはそれで成果はあったと言ってもいいかなという気になります。
この前の選挙後から昨日まで振り回された人たちは御愁傷様です。
組閣までして所信表明演説終わらせたところで辞めるとは。。
普通は無責任だと責めるでしょうけど、最高に面白いタイミングなので、楽しませてもらってます。
理解はしたくないな / 2007年9月11日

長く根をおろし過ぎてきっと腐り始めている。きっとしようと思えば理解できる気がする。でも理解をすると拒絶が始まることだろう。始まった拒絶はその時点で次の再生へ向かうために完結する。
己の立場や役割など理解したくはない。理解してはいけない。理解してしまっては、ここではやっていけなくなる。一年かけて忘れていった。いずれ揺り戻しがくるのではないかと恐る恐る忘れていった。
そうしてバスに乗った。
後ろの席に見覚えのある女が居た。
「あれ?おまえ死んだんじゃなかったか」
「死んでるわよ。あなたが心配でわざわざ見に来たのよ」
「死んでまで他人の心配するなんて人が良いのか、ただの馬鹿か。死んでも治らねぇんだな」
「仕方ないわよ、気になったんだから」
「だったらなんで死んだんだよ。死んだら気にしても見に来ても何にもならねぇだろ。やっぱり馬鹿ってのは死んでも治らねぇもんなんだな」
「口の悪さも相変わらずね。安心したわ」
「そうか。おれはここで降りる。おまえはどうするんだ」
「このまま乗って行くわ。久しぶりに会えて嬉しかった」
「あぁ、じゃそのまま次へ行け。二度とこっちへ来るなよ」
「うん、ありがとう。さようなら」
そうしてバスを降りて、霞濃い砂利道を歩いて行った。
行く先にはよく知ってる若い女性二人が歩いている。追いついて話しかけた。
「おまえらこんなところで何してんの」
と聞くと、一人が携帯でメールをしながら言う。
「あたしな、嫌やねん」
「何が」
「女性関係にだらしない人とか、嫌やねん」
「ふうん。じゃ、そうじゃない人を探したらいいじゃん」
「うん…」
おれには関係ない話だ。興味もない。と、二人を追い越して砂利道を急ぐ。霞が濃くなって霧雨のようになってきた。霞の向こうに影のように山が見えている。
義理のため?
人情のため?
責任のため?
社会のため?
他人のため?
自分のため?
こんなこと理解できない方がいい。なんのためでもない。死んだ女が自分でそうしたように、嫌がる女が選ぼうとしているように、バカバカしい。
喫茶店で何度催促しても待たされ、しまいに怒鳴る。
「おい!早くもってこいよ!もうカウンターの向こうにできてるだろ!あとはこっちへ持って来るだけだろ!なにをモタモタしてやがるんだ!ここはこれが普通なのか!」
「ここはこういう国なのでね、郷に入っては郷に従ってもらわないと」
「おまえ馬鹿だろ。言葉の使い方間違えてるぞ。強制するものじゃねぇ。馬鹿ってのはな、死んでも馬鹿なんだよ。生きているうちに治せなきゃ、ずっと馬鹿なんだよ。おまえは悪い馬鹿だ。治せ」
なんとまぁ尊大で傲慢な自分だろうかと思いながら目を覚ましましたが、抑圧されている感情を夢の中で吐き出す分には所詮は夢ですので、差し支えはありません。もともとそういう人間だったので、今との違いが際立っていて興味深くもあります。いずれの人も自分の存在に無意識的な不安を抱いているから役割や責任を求め、関係性を形作り存在の認識を行っているように思えます。なので他者にもそれを知らずうちに強制します。例えば秘密の共有という関係性によって自我を確認する人は、他者の秘密を知りたがる傾向があるように、役割や責任という関係性を他人に無意識に強制します。これを意識的に自我へと同化していくことができれば、さらなる個性化の道へ入り、より強固な自我形成ができます。
強固な自我は場にそぐわない場合「頑固者」「偏屈者」「悪」になります。求められる場所では「従うべき人」「頼れる人」「善」になります。ただの分類分けに過ぎません。そして勝手なもので、従ってきたものの希望と違うことになると「嘘つき」「無責任」と罵詈雑言が飛んできます。逆に頑固者などがたまたま希望に叶ったことをすると「柔軟になった」「良い人になった」というわけです。悪の善行がとかく評価されがちなのは、コントラストがハッキリしていて解りやすいだけのことでしかありません。またこれいいのか悪いのか、私の周囲にはそういう世間に正面切って唾を吐き付けて抜けて行った人が多くいます。いわゆる世間的な「社会不適合者」の話は枚挙に暇がありません。有言実行は器の狭さを示し、完璧主義はただの押しつけと偏執。仕事ができる有能な人や気が利く人は便利な人。世話焼きは自分がそうされたい願望の投影。
私は私の道を行くだけです。
そしてこの道は、脈絡があって極めて平凡で普通の道です。
iPod touch / 2007年9月7日
やっぱこれでしょ!
iPhoneを指をくわえて見ていた身としては飛びつくしかありません。iPodはiPod、電話は電話でないと電池の問題だけじゃなくて、使う時に困るじゃないですか。iPhoneの電話機能なしでいいから是非とも早く日本で!もうなんなら個人輸入してでも、と思ったものの、やがて冷静になって静観していたのですが、今回は違います。待ってましたと速攻で飛びついて、buy it NOW!
というわけで、今月末発送だそうで、こいつぁ楽しみだ!
あのインタフェース。
Wi-Fi対応。
Bluetoothにも対応してたらもっと嬉しかったけど、そこはまぁいいや。
iPodとしてよりも、ゴロゴロベッドに寝転がりながらネットできるし、動画も見られるし、写真も入れられるし、アレを使えば録音も出来るので、PDA感覚です。音楽聴くならiPod shuffleで足りるので。
多分、年末にはもっと容量増えたりなんかバリエーションついたりしたのが発表されるんだろうなー、とわかっていながらも飛びつくのは性。Leopardと合わせてMacBookProのマイナーアップデートとなにか絡めてくるんだろうなーと想像はしつつも、我慢などできるはずもなく。
次はそのLeopardと合わせてマイナーアップデートされると思われるMacBookProを購入予定です。
久しぶりにデジタルガジェットに手を出しました。
物語の中で / 2007年9月6日
伝えたいことが多すぎて
知ってもらいたいことが多すぎて
伝えるすべが多すぎて
どうして伝えていいのか
わからない
なにから伝えたらいいのか
わからない
いくら必死に伝えても
伝えきれない
いくら言葉を尽くしても
伝えきれない
それは足元に転がるだけで
行き場がない
それでも伝えたいと思うのは
伝えたいとただひたすらに
そう思うから
伝えられないことに失望はない
伝わらないことに絶望はない
ただそうしているということに
希望だけがある
たとえそれが希薄な望みだとしても
あると思えるから続けていける
もういいだろ / 2007年9月5日
さぁ次へ行こう。
やると言ったときの気持ちを思い出せ。
それが例え衝動的なものであれど、次へ行けばまたその次が見えてくる。
いちいちひとつひとつ立ち止まって眺めて考えるな。
そんなことをする暇があるならば腕を磨け。
できることはいくらでもある。
さぁどんどん次へ行くぞ。
置いていかれたくなければ、ついてこい。
そしたら手を引いてやる。
いつまでそれを繰り返す。
いつまでそこに居る。
いつまで成長しない自分を卑下する。
いつまでそうやって不幸を求める。
いつまで他人を羨んでばかりいる。
いつまで次の一歩を踏み出せずにいる。
さぁ来い。
一緒に行くんだ。
卑屈な自信 / 2007年9月4日
自信が欲しい。ほんの少しでいい、卑屈にならない程度、傲慢にならない程度、そのくらい少しだけの自信が欲しい。
「何に対して、自信が欲しいの?」
「他人に対して」
「他人は己と比較するだけよ。そんな基準で評価されても、狭い他人の世界の中だけの評価」
「自分のやっていることに対して」
「外から見たらやっていることの価値基準が曖昧なものは、評価がバラバラになるわよ。そんな価値基準を自信に繋げたら、他人に振り回されるだけよ」
「世間に対して」
「世間は世間に対して利益をもたらす存在であれば、褒めそやし、害悪をもたらす存在であれば、非難する群衆よ」
「ほんの少しの自信がないと、迷う」
「自分自身に、自信を持てるだけの根拠がないから迷うのよ。世間や他人に寄り添おうとするから迷うのよ。それが若さというもの。続けていけば、その年月だけの自信は少しだけ生まれる。自信をつけるために何かをするんじゃなくて、あとからついてくるのが自信よ」
そうなんだ。
でも世間からずれ、責められ、罪悪感が生まれる。それをはねかえせるだけの自信もない。根拠もない。何もない。それでも迷いながら続けていくのは意地なのか、自信を得るためなのかわからなくなっていくものだ。
「やりたくてやっていることなら、自信がなくても楽しく感じていられれば、評価や成果なんて気にして世間によりそっちゃダメよ」
「でも、よりそうところがないと、寒くて寂しいんだ」
「だったら、あたしのところへくればいいじゃない」
「キミはボクのなに?」
「あなたはあたしのなに?」
だいたい最初からわかってるはず / 2007年9月3日
「まぁそういうなよ。わかっていてもやってみることに意義があるんだと思うし、それを何度繰り返してもその都度、違う何かを見つけるかもしれない」
「それはそうだと思う。でももういいんじゃないか。やるだけやっただろ」
「だからそういうなよ。結論や結果を求めてしまっては本質を見失っているかもしれない」
「本質ってなんだ。物事の本質なんて無意味じゃないか」
「そういうなって。無意味に意味付けしてこその彩りだとは思えないか。嫌いなら彩らなければいい。好きだと思うから彩り鮮やかに飾り立てて美化していくのが感覚だし意識だし、楽しい事かもしれない」
「最初からある程度は予測してやっていたくせに、このザマはなんだ」
「責めるなよ。まだ1年程度じゃないか。費やした時間への報酬を求めて結論や結果に飛びついてしまっているとは思えないか」
「費やした時間の報酬を求めて何が悪い。結論や結果なき行為は無意味に等しい」
「そういうなって。全て過程とは考えられないか。結論や結果は出てしまったそこでおしまいじゃないか。さらに先へ進むならば、それらの事柄を過程と捉えた方が、世界が広がって見えないか」
「全ての事柄を過程と捉え、問題を先送りにしているだけじゃないのか」
「それは違う。結論や結果といった問題解決は、現時点での結果としてカタチにすることでできるが、これこそ問題の先送りで目先の事に囚われた無意味な行為になる。だから結論や結果といった帰結を求めるのは本質を見失う」
「では現実との折り合いはどうやってつけるのだ」
「それが課題だ。そして現実と折り合いがついたら、おまえは消える」