今が楽しければそれで良い / 2008年5月28日
というと、刹那主義のように響きますが、長い目で見て今が楽しければそれで良いという意味です。
今というのは、常にその時その刹那を示します。だから刹那が続くことで成り立っている時間の中において、今は常に移ろって行きます。仮に楽しいだけの今が続いたとすると、それは楽しいではなく、普通になります。時間に伴って、馴れていくのが感覚です。だから続く楽しい時間を楽しい時間として感じられるのは、つまらない時間や退屈な時間、悲しい時間などがあるからです。感覚というのは、絶対的なものと相対的なものとの二種類があるようです。
流動的なものであるから感じられるわけで、普遍的なものだったとしたら、そのことに気付かず、存在がなくなります。今を維持しようとする気持ちと、その先を求める気持ちは拮抗し、その僅かな差は限り無くゼロに収斂して、やがては無くなるように思えます。どんな時間も感情も、そこへ至って成熟を迎え、形を得るのかもしれません。
今の今の状態に固執せず、かといって嫌わず疎まず、どんな状態もそれを感じとることができるから存在し得るわけです。知ってか知らずか、傷ついた時に限って感じる心が無ければいいのにと思ったりするのは、感じる心が在るがゆえにその感情が存在するということを、自ずから物語っています。
そうした感情に飲まれるのが言わば人の道で、心があるがゆえに人を人たらしめていて、感情と時間とは不可逆的に在るけれど、相互の作用により人1人の歴史を作って行きます。常に良い状態を維持できれば楽なのかもしれませんが、楽しさを知ることはきっとできません。何を基準にしようとも、善くも悪くも、己の心の不安定さを理解していれば、振り回されることなく、その状態を苦しいながらも楽しみ学び、抜け出たときにさらに楽しい思いができます。
常に今を楽しくするためには、自分の心に素直であること。自分の心に素直であるには、他人に素直であること。他人の気持ちに素直であること。それだけではないかな、と考えています。裏を読もうとすれば、いくつかの言葉の端から想像で様々に推理して勝手に不安が増長され、自分が飲み込まれて行きます。素直になれないのは、嫌われるのが不安な証と見えます。
無知をさらけ出しても、恥をかいても、プライドを捨てても、素直でいられれば自ずから楽しいことの方が増えてきます。
今を楽しくするのは簡単です。
カメラとの付き合い / 2008年5月23日

記憶にあるのは小学生のころの自由研究でカミナリの撮影に使ったこと。ミノルタの一眼レフだったか、一眼レフにレリーズをつけて、絞りに絞ったレンズをバルブ開放して、落雷がありそうな方角に向けておくだけ。露出時間を見て、定期的にシャッターを閉めて、またバルブで落雷を待つというのをやりました。たぶん三年ほど、夏休みの間はやっていたように記憶しています。
その現像とプリントはやたら高い上に時間がかかってウンザリしたものです。110フィルムのものは買ってもらって何度か使いましたが、ハマった記憶はなく、その後は写真から遠ざかり、次に持ったカメラはカシオのQV-10とQuickTake100。デジカメが民生機として販売され始めた最初のものです。今でも手元にあります。なんだかんだと使いましたが、用途は今の携帯カメラみたいにメモ的にしか使えず、ガジェットの要素が強かったです。
次に手にしたのもデジカメで、大きめのレンズがついたオリンパスのもの。これもまだ手元にあります。仕事での商品撮影がメインで、遅い動作に保ちの悪い電池に難儀しましたが、コストがかからないことと、撮影したらすでにデジタル化までされているのが最大のメリットで、それ以外にカメラには求めていませんでした。一度シャレでAPSフィルムのイクシを買って使っていましたが、現像が面倒で、スナップをたまに撮る程度でした。東京にいたころの写真は、わりとこれで撮ってました。それからしばらくして、コンパクトデジカメが次から次にでてきて、携帯にもカメラがつきだしました。そして世の中はデジタル一眼レフブーム到来。10万円まででゴロゴロと各社こぞって1000万画素クラスのデジタル一眼レフを投入してきて現在は、ほぼ飽和状態の感があります。
おかげで「デジタルに乗り換えたため」という理由で古い銀塩カメラがオークションや中古市場にどんどん出て来ていて、なかでも暗室用品やロールフィルム、印画紙といった買い溜めしてあった消耗品が安くちょくちょく落札されているようです。
フィルム会社はフィルム事業の規模縮小や印画紙の値上げなどで、なかなかやりにくくなっては来ています。
デジタルはこれから成熟していく分野です。それに比べてフィルムカメラは既に成熟しきっていて、フィルムの現像方法や処方、印画紙の現像方法や処方などはとても奥深く、さらにそこから浮かび上がる絵は、そのやり方で如何様にも表現し得る幅があるということを知って興奮しています(フンフン
その上で今まで毎日あたり前に使っていたPhotoshopでやっていることは、暗室作業がそのままデジタル化されたものなのだということも肌で実感しました。改めてPhotoshopって凄い。
かくしてデジタルな入り口からとアナログな入り口からの両方から突き詰めていくこの楽しさや、Macintoshを初めて触ってのめり込んでいったときの感覚に似ています。次から次にトライ&エラーを繰り返して、調べられるだけ調べ倒して、専門書を読み漁って片っ端から吸収していくのは、心地良くもあります。
銀ってすごい。
フィルムってすごい。
tri-Xのネガなんて色気がありすぎ。
全部欲しい / 2008年5月16日
昨日と今日とではわりと別人です。どうも。
CD-4を探しているのですが、なかなか見つかりません。これだけがどうにもならないので、ちょっと困っています。処方も公開されてないみたいだし、さてどうしたものかな。白髪染めに多く含まれているなどと書いてあったので、いろいろ見てみようかなと思っています。染色関係の薬品みたいですが、健康用品にも使われているようで、化学物質ってのは様々な形で活用されているんだなと改めて実感。あっちでは食用に使われて、こっちでは農薬に使われてって、大したものです。こんな人間がいたら、人間性を疑われるだけですがモノってのは情感がないので、臨機応変にコロコロとその性質を変えて重宝されます。
化学の元は錬金術ですから、金が欲しい金が欲しいという欲望から生まれた技術です。という身も蓋もない言い方をすれば、今ある生活の全てがそうですし、人の生きる道すらが欲望で解脱やら悟りやらと宣いだしたら、もうその先にあるのは仏ですので死んでしまって差し支えないのではないかと思います。そうやって促進物、いやいや、即身仏になったり、その手前までいく苦行を行ったりするのかもしれません。
たかだか長くても百年ちょっとの浮き世に、せっかく浮き上がってきたこの身です。せめてその際にできることはしてしまいたいと願うが煩悩の浮き世ではないでしょうか。露と消えると言おうが、儚いと言おうが、あるものはあるし欲しいものは欲しいししたいことはしたいしイヤなものはイヤだし辛いことは辛いと感じられるのが浮き世の醍醐味です。もちろん限度はあります。天網恢々と言うように、自責の念を感じるようなことはしてはいけません。してはいけない、じゃなくて、したら浮き世が楽しくなくなる、という感じですかね。
結局あちこちが悲鳴を上げていても、なだめすかしてなんとかニュートラルを保っていってそのうちそのうちと言っているうちに時間だけが過ぎるというのが往々にしてあることで、そんなこんなも含めて、なにもかも「まぁいいかぁ」と悠長に構えていれば、悪人と罵られようが冷血漢と言われようが、人でなしと言われようが、聖人君子と言われようが、やっぱり「まぁいいかぁ」で気楽に行けます。
どこぞの団体のように意味不明の正義を掲げて窃盗をするようなのは、目も覚めるような愚行というか幼稚というか、開いた口が塞がらないというか、ただただ驚くばかりで、その思考回路は理解不能なのでとても興味深くあります。鯨の肉を食べたことがありませんし、哺乳類を殺すとかなんとかというのは、家畜を食べている身としては特に何も感じませんが、その行為が窃盗だというのはとてもよく理解できます。
環境保護ってのは正義じゃなくて利権作りの建前なのですが、何かを守るのは正義だと思っている人はとても短絡的思考だということはよくわかります。正義と悪や良い悪いっていう二元的な刷り込みは、幾つになってもなかなか抜けない人は抜けないみたいです。
欲深いのは罪深いというのもこれまた仏教的な刷り込みのように感じます。
なにもいらない / 2008年5月16日
時間が欲しい、というわけでスケジュールの空きができたらお休みを取ることにす。今日から休み!って昔みたいにできないのが難儀ですが、これを言い出すと愚痴っぽくなるのでやめ。休みを取る狙って期間は、六月。大阪界隈には居ますが、仕事主体じゃなくて自分主体で動きます。できれば尾道にも行きたいのです。
え?
今でも十分に自分主体じゃないかって?
さて、それで(耳が日曜日)もうあれもこれもとギッチギチにスケジュールが詰まっていて、毎日追い立てられている気分なわけです。人と会う予定や打ち合わせなら、それをすれば時間の経過とともに過ぎ去りますが、締め切りというやつは時間の経過とともに焦燥感ばかりがやってきます。仕事があるうちが華とはいえ、もはやそんなことを言う余裕すらなく、だからといって手を動かしていても何もできず、粛々と締め切りがやってきます。
さて困った。
写真と言葉と音楽 / 2008年5月13日

などとタイトルを付けてみたものの、あまりに仕事がつまり過ぎていて書く余裕がありません。過去形じゃなくて現在進行形です。まだ出口が見えないし。このままではパンクするので、まぁいいやと居直っています。手を動かしてりゃできる作業ではないので、これは仕方ない、とでも居直らないと気持ちばかり急いて結局自分が摩耗して疲れて駄目になるだけです。自分が壊れても治せるのは自分だけです。その辺はまぁ相対的なものですので主観で変わってくる尺度に依るので、各々が注意していないとどうしようもありません。
だから、ガス抜きなんて言葉があるんでしょうね。
仕事に社会との接点を求めていないので、根本的には不適合者であるためこれについてをなんだかんだと考えたり言われたりしても、それは上から下に水が落ちるのを議論することと同じ程あたり前で無意味です。だからここはもう居直って、自分をなだめすかしてガス抜きをしつつ、なんとかかんとか一日一日を凌いでいくしかないわけで、これが身過ぎ世過ぎの定めです。
そうして身過ぎ世過ぎの仕事をしていると、その対価がそのものの値打ちだという考えが染み付いてきてしまい、つまり対価が発生しないものは無価値であり、それならば自己表現していることなどは限りなく価値のない、値打ちの無い、自己満足の結果の言わば滓ではなかろうか、と弱気になっていきます。なにしろ、お金というのは定量的で非常にわかりやすいうえに必要なものです。定量的なお金を価値基準に持ってきても、仕事としては問題はありません。仕事は成果物を作るために労力を使うのだから、その労力に対価が発生するのは質量保存の法則のようにあたり前です。この場合はその成果物の値打ちが対価なのではなくて、労力に対する対価です。
自己表現は仕事ではありません。自分が自己満足のために好きでやっていることなので対価やその価値などは求めていません。自分が見たい写真を撮る。自分が聴きたい音楽を作る。自分が読みたい言葉を纏める。その結果できあがったそのものが対価と言ってもいいかもしれません。ここには誰かに理解して欲しい、という気持ちではなく、誰かに簡単に理解なんぞされてたまるかという気持ちの方が強くあります。簡単に他人なんぞが理解できるような浅い世界観などは持ち合わせていないし、それをわかりやすくなどという広告的な発想はありません。
かといってなにか崇高なものがあるわけでもなく、ただただ表現したいという衝動的な欲求があるだけなので、自分がそのとき思った音楽なら音楽、言葉なら言葉、写真なら写真で自分を出していっているだけです。
それを受け取り何かを感じ取ってもらえれば、理解とかなにがどうとか説明的なこととか良いとか悪いとかそういう判断もどうでもよくて、全て有りだと思います。
このところ、昔より遥かに貪欲で、ようやく人間らしくなってこれている気がします。
やほい / 2008年5月7日
白黒フィルムの消費量が半端無くなりそうなので、さてこいつはどうしたものかなと悩んでいたのですが、先日オークションで400ftのフィルム4巻をタバコ1カートンより安く入手しました。安いのは、消費期限が4、5年過ぎているから。100ftものは普通に売られていて、4500円ほどします。それを考えると嘘みたいな安さです。それで現物が届いたのですが、白黒フィルムじゃなくてカラーフィルムでした。
あははは、やっちまったぁ、と思ったものの試してみようとフィルムをパトローネに巻いて、撮影して現像。カラーフィルムをモノクロ現像処理して定着してみてみたら、おっと普通にモノクロとして現像されている。ただ、ネガ自体に色がついているので、紙焼きの際には工夫しないと駄目っぽいけど、これはこれでおもしろい。おまけに、漂白定着処理したら、おもしろい効果が得られるようです。んじゃ、発色処理したらどうなるんだろうか、と興味がつきません。
いずれにしても、これでかなりしばらくの間はフィルムに困ることはなさそうです。400ftが4巻ですので1600ft。約488m分のフィルムです。現像も薬品なんて数百円で十数本は処理できますので、コストを考えること自体が無駄なコストになるほど安いです。
ところでLEITZ Minolta CLが欲しいと探しているのですが、やはりどう探しても6万円前後が相場のようです。レンズのbiogon
28mmもかるく4、5万のようですので諦めました。いずれそのうちどっかで縁があって手に入ればいいなといったところです。
それで暗室の話。写真そのものの入り口がデジタルでしたので、その後の処理も当然デジタルで全て進んできましたが、ここへ来て逆の入り口から入ってその奥深さに圧倒されているところです。Photoshopでの加工を暗室処理と言うこともできますが、そうだとすると最終的にアウトプットされるのはデジタルの場合はあくまで液晶などのディスプレイ経由であり、銀塩写真の場合は印画紙であるのが自然だなと感じています。
これはきっと、以前に書いた反射媒体と発光媒体の感じ方の違いに影響してくるように思えます。
何がどう違うかはよくわかりませんが、クオリアのようにひどく主観的なようだけど本当は絶対的な違いがあるのでしょう。
気をつけなければいけないのは、銀塩であろうとデジタルであろうと、暗室であろうとPhotoshopであろうと印画紙であろうとプリンタであろうと、表現手段の一環でしかないというところです。何をどう表現するのかというところから、どれを選ぶのか、という選択肢が増えたというわけです。そうして増えた表現手段の選択肢は熟知熟練して使いこなしてはじめて生きてくると思っています。
一眼レフが不調 / 2008年5月4日

父親のNIKON F-501を借りて愛用しているのですが、ここ最近不調です。巻き上げ時にフィルムを噛んでしまって、そこからシャッターが下りなくなります。昨日今日と六本撮影したうち、四本が10枚くらいしか撮れませんでした。
機械的におかしいところもないので、最初の巻き込み時の噛ませ方が悪かったのかな、とフィルムの入れ方を疑ってみましたが、フジのネオパン100でおかしくなって、コダックでは大丈夫でしたので、今はフィルムの種類を疑っています。
まさかそんなことはなかろう、と思いつつも何度かフィルムがジャムってしまっては、ちょっと怖くて使いにくくなってしまいます。
ところで今とても使いたいレンズがあります。
Biogon 28mm。
このレンズとLEITZ Minolta CLEが欲しい!
なかなか見つかりません。見つかりませんので、手元にあるYASHICA ELECTRO35でレンジファインダの練習です。