情報量が少ないということは / 2008年6月30日
情報量が少ないということは、コミュニケーションの場合は単純に誤解を生むだけで、情報量が多いのがあたり前になっている昨今ではむしろ悪いことのように捉えられがちです。情報量が多くて説明的になっているのがあたり前というわけで、かえって想像力が欠落しているような気もします。説明的なのは広告だけで結構です。その結果、芸術や音楽に説明を求める、説明を付けるという不思議なことを始めます。大衆的なものであれば、どんな人にでも理解できるようにと説明するのはありだと思いますが、芸術系は人にも依りますが基本的には自己満足の極みにあるものだと考えていますので、説明的になるのはその自己に対する言い訳の心理に見えます。
情報量を少なくする、というよりはむしろ自分の作品に対していちいち説明しないというわけです。自分のやったことをいちいち説明するというのは鼻白みます。
さて、説明しないで出すだけだと受け手の想像力が問われます。文章から作者の意図を読み取ったり、絵画から画家の気持ちを推し量ったり、写真から感情を受け取ったり、音楽から風景を観たりという想像力が問われます。問われなくても、もともと持っている力です。
要するに、受け手に想像力という名の力を使う負担を強いているわけですので、自動的にでも頭を使って考えないといけません。そうした負担を嫌って、想像力を必要としない「見たまま」「読んだまま」という「そのまま」が増えていき、テレビでも雑誌でも本でも映画でも、とにかく「わかりやすく」て「大衆ウケ」して「売れる」ものであればなんでもいいという雰囲気が蔓延しています。
そして日本では、多くの人が知っていることを知らないというのは恥ずかしい、という心理的圧力が働きやすいようで、右向け右であっという間に広がって、飽きる頃には次の「皆が知っていること」を用意されて、想像力を使うことなく時間を浪費しているような気がします。
真理は、説明をすればするほど安っぽく手垢にまみれて、汚らわしい物に成り下がっていくように思います。
大海と蛙 / 2008年6月27日
井の中の蛙は大海を知らぬ故に幸せです。大海を知ってもそちらを無視して今に満足していれば、それも幸せです。広いと思っていた世間も、見識が深まるにつれて狭く見えてきます。そうなってくると、今までの自分が如何に狭窄的な物の見方をしていたのか思い知らされます。そこで更なる大海へ漕ぎ出て行き、恥をかいて怒られて成長を得るか、それとも狭窄的な物の見方をしていたという事実を知ったことだけに満足して、その場に留まるかは人それぞれです。ただ一つ、漕ぎ出るには年齢という時間制限があります。凝り固まった頭では、成長など得られませんので、そうした年齢で大海を知ってしまうと逆に不憫でさえあります。若くして大海を知ったとしても、まず足元の世間が広いと感じていることの方が多いので、若ければいいというものでもありません。順を追って一つずつ行かないと理解すらできないで無為に時間が過ぎるだけです。
学校の勉強が「社会に出ても役立たない」というのは、学生は良く言います。ていうか、私も言ってました。微積分ができてなんになる、と思っていました。もちろん専門分野にいかなければ直接的に役に立つことはありませんが、学校の勉強という決められた課題や学習方法を知ることで、学ぶことの基礎を身につけることができます。わかり易いのは数学です。いくら良くできた方程式があっても、四則演算の基礎が無ければ理解不能な英数字の羅列に過ぎません。知識はそれを得た人の中に恵みをもたらし知恵という発想に至ります。その知恵を駆使するのが生活であり社会であり人間たる所以だと思っています。
従って、教養というのは堅苦しいかしこまったものではなく、もっと純粋に人間として生きて行くための知恵が、教養に昇華されていくものだろうと感じています。そして、こうしたものというのは、自分自身が「教養を身につけた」とか実感できる物ではなく、第三者が見て「教養のある人だな」などと評価する言葉であると思えます。その点では「努力」という言葉に似ています。いずれも客観的評価の際に用いられる言葉であることは、注意しておいた方がいいです。
自分の見ている世間は常に主観的であり狭窄的である、と言い聞かせることで一つの物事に対して幾つもの見方を自ずと感じられるようになるかもしれません。必死に世間を泳いで泳いで大海に至っても尚、泳いで先へ先へと進んで行く先にあるものは死という確実な瞬間ですが、そこに到達して初めて大海を泳ぎきって、更なる大海原へ到達できるのかもしれません。そのときに初めて「自分は努力した」「教養を身につけた」「清く正しく生きた」などと好きなように自己評価すればいいのであって、海原という浮き世にあって一つ一つの事象や判断に対して善悪や怠惰、努力などはきっと本当は思っているほど重大なことではなくて、埃が髪の毛についたくらいに些細なことのように思えます。
頭で理解していても感情が追いつかないのは当然ですが、そういう波を乗りこなす術を知恵というのです。
大海を知ればこそ、知恵を活用して先へ進むことができるわけです。
感覚を操る / 2008年6月26日
音っていうのは鳴ってないときがあるから鳴っているときがわかる。
色っていうのは無いものを見たことがあるから色の鮮やかさがわかる。
これも緊張と緩和です。
見てくれや演出で存在感を主張するのは、言わば目立つためにどんどん派手にしたり、どんどん大きくしたり、奇抜にしたりという方向と同様で際限がない上に、下品になりがちです。音楽ですと音が薄いから楽器を増やしてみたり、音を大きくしてみたりと考えてしまいますが、実は泥沼への入り口です。音は強弱をもって存在感を自在に操ることができます。強調したい場所があるならば、そこへいくまでは小さく小さく弾く、あるいは弾かない。また、ずっと極端に平坦に演奏しておいて強調したい場所では波を作る。
要するに強調したいところまでに聴き手の感覚を自分の土俵に慣れさせて感覚を緩和させておいてから、変化させることで緊張を強いるわけです。
写真や絵も同様です。ずっと変化の無い写真を見せておいてからいきなり頭が混乱するようなアングルの写真を見せたり、モノクロ写真を延々見せてからカラー写真を見せたりするとインパクトを与えられます。
やがてある程度のパターンができあがると、知っている人はそれを先読みしてきます。そうなればしめたもので、相手の感覚が最初からこちらの土俵に乗ってくれるので、裏切ったり素直になったりすれば、様々な変化を楽しんでもらうことができます。
ずっと感覚を刺激し続けると、脳が自動的にフィルタリングしてしまい、無感覚になってしまいますのでそのフィルタリングを機能させない程度に押したり引いたりして、いい具合に刺激してあげると楽しいはずです。
病気をして、健康の良さを知るのと似ています。
人間は時間とともにどんなものにも慣れるようにできています。それはトイレに行くのと全く同じ生理現象ですし、なんでもないことです。それは自ずから体感して知っていることなので、それを上手く活用してお互いが楽しく居られるようにできれば、とてもいいことだと思います。
お休みはどこいった / 2008年6月23日
昨年の秋口頃、わけあって1ヵ月お休みをする予定だったのですが、その後の忙しさでうやむやになり、もう少し落ち着いたらお休みをと思いながら、ついに翌年初夏まで来てしまいました。六月は少し身体が空くかなと思ったのもほんの僅かで、七月一日締め切りの仕事の山場を迎えている次第です。仕事が放してくれないね、などと言われますが、嬉しくありません。忙しくしたところで自分にメリットがあるわけでもありませんし、自分という名のベルトコンベアに乗せて右から左にモノを流していっているに過ぎませんので、ただ摩耗していきます。お休みする心づもりがあっただけに、悔しさの方が募ります。
仕事に於いては言うまでもなく、結果が全てです。
結果を出しているにもかかわらず、この有様というのが腹立たしくて腹立たしくてなりません。
とにかく疲れた。
ギャラリー公開 / 2008年6月11日
写真用のギャラリーを公開しました。
flickrというサービスのsetへの直リンクを用いることで、スライドショーでも見られるPHOTOS GALLERYを用意しました。これ、便利で管理もらくちん。ただし、パソコン専用なので、パソコンから見てくださいね。
http://www.kiroujin.com/photos/
現像その後 / 2008年6月10日

白黒現像はこの1ヵ月ほどで100本以上処理して手慣れました。自分好みの粒状感を出すフィルムと現像液と現像温度と時間、攪拌方法も確立して、これが自分の標準現像という基準もできあがりました。以前間違えて落札したカラーフィルム400ft缶はISO100なので全く好みの粒状感は得られず、断念しました。かといってもったいないので、カラー現像をするべく、着々と準備を整えて実行に至りました。その結果、大幅に使用期限が切れている400ft缶はシアンのカブリが酷くて現像したものの、激しく青みがかった色になってしまいました。そして乳剤劣化のためか、すぐに傷が付きます。実験用のフィルムにすることにしました。Photoshopで調節したらなんとか見られる範囲にまでは復旧できますので、デジタル前提の際に利用します。ていうか、デジタル前提ならデジカメ使えって話ですが。
さて、カラー現像。ネガフィルムの処理工程をC-41と呼びます。ネガフィルムの他に、ポジフィルムってのがあります。スライドフィルムともいいます。このポジフィルムの現像処理工程をE-6といいます。これはかなり面倒なのでやりません。というか処理自体がかなり厳密なので自分でやるメリットがあまりなく、面白味がありません。おもしろいのはポジフィルムをC-41代用現像処理してしまう、クロスプロセスです。普通のラボでは嫌がられますし、料金は割高、そして時間も早くて中1日かかりますが、自分でやってしまえばすぐです。
自家処理のメリットは、モノクロもネガもポジも増感や減感を自分で調節できることです。プロラボなどでも増感指示はできますが、粒状感を意識してわざと粗粒子を狙った増感などの細かいところまでは難しいですし、一般的に求められるのは微粒子な現像です。現像液の処方と、温度と、時間と攪拌頻度で、自分の求めるフィルムを得るのは楽しいものです。
こういう感覚的な部分って、理屈じゃないので難しいものです。
美味しいって一口にいっても、食べてみないとその美味しさは実感できないのと似ています。主観的ですが、その主観の比較対象は相対的に生まれてくるものですので、ある意味では幸せの定義と似ているかもしれません。
大海を知らない蛙は、知らない故に幸せとも言えます。
自家現像を知ってしまったら、手間もかかるしお金も時間もかかるから大変です。でも知らないよりずっとずっといいモノを手に入れましたし、それによりさらに上をという欲求が激しく突き上げてきます。
時間もお金も腕も足りないです。
音楽に関しても同じ。
待てばよかった / 2008年6月5日
Biogon 28mmは高いし改造費もかかるからやめて、安いCanonの28mmを購入したのですが、昨日になってヤフオクでMマウント改造済みのBiogon28mmが出品されていました。今のところ入札者なし。普通に買って改造するより数万円安いくらい。
こんなことなら待てばよかった。。
モノがモノだけにそうそう出てくることもないだろうからと、さっさと諦めたのが仇になりました。
縁がないとはこのことだ。
1週間ずれていたらタイミングよかったのに、その微妙なズレが皮肉っぽいなぁ。
納得できないこと / 2008年6月3日

納得できないことは、納得できませんが、妥協くらいはできます。嘘をそれと気付いても、気付かなかったふりくらいはできます。そしてそれを特段に気にすることもなく、それが人と人の距離だと割り切って、処世術という理性くらいはあります。自分を曲げてるとか、主体性がないとかなんて思いません。必要で身に着けた、言い換えれば選択的に獲得した身の施し方と言えます。
でもやっぱりこれって面倒臭いことが多いです。
なので、そうした振る舞いはやめました。
でもやらなければならないことは、最低限やるようにして、それ以外はやりたいことしかやらないようにしました。そんな風にしてみると、もう一人の自分が「お金にならないことは無駄」だと言います。資本主義においては一つの真理ですので、それは最もですが、資本主義なのは仕事の上だけであって、仕事以外においては自分主義で自己満足が得られればそれでいいのです。ところが、その自己満足を金にしろとうるさい。お金にならないことを夢中でやっていると、どういうわけか背徳感が生まれてきます。後ろめたさです。だから誰かに見せて評価して欲しいという客観的な裏付けを求め、その後ろめたさを否定しよう試みますが、客観的評価が難しい自己満足という行為の評価などそうそうできるはずもなく、お金にならないものは無価値なものという結論に行き着いてしまうのです。これはこれで間違ってはいませんが、主体からみたら大きく間違っていることは説明を待ちません。
そもそも自己満足の行為の評価を客観に求めるのが間違いの始まりなのですが、自分とは孤独故に周囲との繋がりを探し、ついついうっかりと評価を求めてしまっていたりするわけです。
そして出てくる言葉は「自信を無くした」とか「もうやめよう」とかそういう方向へ向かいます。
まてまて、目的を間違えたから経過で道順が違ってしまっただけなんだということに気付くのには時間がかかるわけで、それならば最初から無駄な自己満足を求めずに律儀に社会の枠組みに収まっていれば何もかも考えること無く、存在理由を考えることも、存在を疑うこともなく安穏の時間を過ごすことができたことになってしまいます。
などと言ってもやっぱり客観的な評価をもらえると、嬉しくなります。自信がどうの、とか何がどうのなんていう理屈はさておき、嬉しいなぁと思えます。例え評価の理由が納得しにくいものでも、嬉しいものは嬉しいのです。
よくよく考えてみれば、人間でも社会でも地球でも宇宙でも納得できないことの方が多いので、あんまり考えないで行った方が気が楽なのかなと思ってしまいます。
宇宙があって地球があって歴史があって自分がここに居るということだって、全然納得できていません。納得できないけど、あるものはあるし、居るものは居るのでなんともはや道理が通れば理屈は引っ込みます。
なんだかんだで少し厭世的になり過ぎていますので、休憩したほうが良さそうです。
でも納得はできませんので、自分が納得できるまで考え続けます。
ありがとうございます! / 2008年6月2日

なななななんと十数名の大人が寄ってたかってLeitz Minolta CLをプレゼントしてくださいました!
いいの?!
いいの?!
ほんとにいいの?!
駄目って言ってももう返さないからね!
と思ったりせずに、素直にありがとうと受け取りました。
本気でありがとうございます。
びっくり。
かくして、父親からMinolta CLEがやってきて、友人たちからはLeitz Minolta CLがやってきたわけです。こうれはもうボクは誰よりも幸せに違いありません。すごいな。おかげさまで、CLとその後継のCLE両方を使えてしまいます。レンズはM-ROKKOR40mm、CANON28mm、M-ROKKOR90mmと必要な分はもうあります。あとはひたすら撮るのです。写真がおもしろくておもしろくて仕方ありません。
ちなみに、CLEにはシャッター速度オートがありますがCLにはありません。
今ではぜーんぶカメラが自動でやってくれることが、ぜーんぶ自分でやらないといけませんので、その点ではCLがおもしろいです。面倒なときはCLEでクリアです。
しかしもちろん世間は完全にフィルム氷河期。100ft缶の種類は減って、値上げだし、印画紙も値上げ。おまけにTriX400の乳剤から銀がかなり減ったらしく、昔のやり方の増感データなどでも質感がかなり変わっているようです。エコがこんなところにまで影響を及ぼしていたとは。
昔のTriXを知らないので、良かったような良くなかったような。
今はいろいろな現像方法を試して、自分好みの現像液の処方を模索中です。