
一月は、今年の抱負を決めてみたり、今年こそはと気合いを入れてみたり、頑張ることが多い月です。一月くらいは、という気持ちもありますが、なんだか毎年そんなことを思いながら同じことを言っている自分がいることに、ちょっと辟易します。
何も変わらないのは、幸せだと思います。
でも変わることも幸せだと思います。
変わりたくなかったら、死ぬことです。
究極の自己保存とも言えます。そこから変化のしようがありません。変化するとしたら、失われたものに対する美化による変化くらいでしょう。
それはともかく、こうして一月をドタバタと過ごしながら、毎年の一月を思い返してみれば、なんだかんだいっても根本は変わっていないなというのを痛感してしまいます。新たに年を迎えられるのは幸せです。でもそれをきちんと自分の思うように有効活用しきられていないという事実に愕然とするわけです。
毎年、この一年でどれだけ成長できた?どれだけ糧を得られた?と自問自答します。その糧を得て次の成長を得られるか?と自分に聞きます。すると、自分はその前の糧をきちんと成長に繋げられているか?と問うてきます。私は絶句します。そして、成長とはなんぞや?と考えます。こうやって考えて説明や理屈を捻りだそうとしている時点で、成長を得られていないということになります。実際に自分が成長できたという自信があるのならば、そんなこと考えません。
そして、目先の課題から目を逸らして、人生とはかくも長く険しいものか、と達観した振りをするのです。時間を無為に過ごしているだけになります。
もちろん、これらのことは考え方次第です。その受け取り方で大きく変わります。
こうして考える過程も、非常に重要です。毎年リセットされるのではなく、毎年は年月の積み重ねです。それを大きな視点で捉えることと、小さな視点で捉えることは、客観性を持って観察できますので、バランスという意味でも大切なことです。
まぁとにもかくにも楽しく毎年やっていこう、という自分だっているわけですから、よく言えば剛柔併せ持って波に乗っているわけです。結果的にまるで別人のようになったりしてしまいますが。
ただ、一月はやはりどうしても考えさせられる月です。なので、焦ります。焦りますが、急いては事をし損じると言い聞かせて、どっしり構えて一つずつこなしていこう、と肝に銘じるのですがそういえば毎年そんなことを言って、一年過ぎてるんじゃないかと、さらに焦るのです。
それにしても、疲れた。

新年もよろしくお願いいたします。
なんだか年末から仕事始めまで、信じられないような速度で過ぎ去っていったような気がしますが、主観的にそう思うだけであって、全く同じように個々人の時間は経過して、示し合わせた仕事始めがやってきただけのことです。
単純に一週間が過ぎただけですから、早いはずです。
ばたばたとしながらも、頭だけは回り続けて、とりとめもなく色々なことが脳裏を駆け巡りました。脳内で考えていることは、具体的な文字列などではないので、言語化して文章に落とし込んでさらに他者に明確に理解してもらうのは不可能で、そうやって考えているときに、何考えてるのかと聞かれると、虚を突かれる具合で、はて自分は何を考えていたのだろうかと呻吟するわけですが、これがやはり具体的な言葉にするのはなかなか難しいもので、そもそも脳内で時系列などの順序があって考えているわけではないので、どこまで言葉に落とし込めるのだろうかと少し挑戦的な気分で「今考えていたこと」を喋ってみたりします。
世の中にあって種々様々な各々の現実という事象に向き合っていては、己の権利を声高に叫び全うするのが当たり前のように行われます。その数が増えていけば多数決的にその権利を守るのが正義だという世間的常識という幻想が発生して、根付いていきます。正義には悪が相対します。物事の本質は常に一対です。正義を感じるのは悪があるからに他なりません。その一対を双方ともに納得させるということは、相反するのが本質である事柄に対して無意味です。固有名詞はどっちがどっちでも構いません。正義も悪も立場で変わります。この一対が一つになったら相反する物同士、ゼロになります。無です。
今年は大げさにも百年に一度の不景気などとも言われているようですが、不景気なのが当たり前の世代にとっては、それがどれほどの不景気であっても私が感覚的に麻痺しているのか、なんとも思いません。思えません。特定の世代より上の人々にとっては、きっと大げさでもなんでもなく、「百年に一度の不景気」が現実なのでしょう。人口密度的にはその世代が圧倒的に多いので、その人たちが思う共同幻想が常識になります。それが悪いとも善いとも思いません。ただ、考えてみれば人口減少傾向や年金問題など未来に明るい夢や希望といった展望を持てない昨今です。頼れるのは我が身とお金という寂しい世の中です。金は身内でも他人だという考え方があるわけです。今後の自分の人生のためにお金を貯めて、結果的に消費が冷え込むのはある程度わかっていることです。金を使わないのが問題なのではなくて、国家単位で問題を先送りして適当に夢描いた明るい展望だけで突き進んできた結果なんじゃないかなと感じています。朝令暮改の行き当たりばったり行政は、具体的な責任を避けるためにその影響を深刻に考えたりしません。おそらく直近ではゆとり教育が好例でしょう。
と言いながら国政にどうこういうつもりはありません。
生きていく安全性と場所を確保するために国家は必要です。そして国家には方針が必要です。その方針を一つの集団としてまとめて進めるために法という枠を作り、その枠で様々な定義を成して国家という一つの構造体を作った結果です。その構造体を国家と呼び、相互に情報共有できる言語と言語を定着して具体化する文字をもって一定の文化ができます。国家と文化を一つにして社会と呼びます。こうして一つの構造体の中には異物も発生します。多様性の賜物と言えます。賜物とはいえ、構造体に不要であれば自浄作用が働き、排泄しようとします。ところが、この排泄を悪だと見なす異物も発生します。そして構造体は内部に大きな矛盾を抱えていきます。構造体にとっての矛盾であり、相反する事象が自ずと発生するのは真理です。善悪ではありません。ただの結果です。物理的な構造体ではなく、こうした概念的な構造体は非常に不安定で、不安定だから存在を感じることができるのかもしれません。
人間とて物理的な形を保ってはいますが、概念的な構造も持ち合わせています。
物理的には常に崩壊と再生を繰り返して今の形を保っています。保てているのはDNAがその情報を複写しているからです。その複写に失敗したら癌になります。また、崩壊がなかったら異形になります。再生がなかったら肉体は滅びていきます。これらは物理的側面です。概念的な側面では精神があります。超自我や自我があって、無意識野と意識野に分類され、睡眠や忘却により記憶はふるいにかけられます。自我という個の精神的主体を守るために、摂取した情報を取捨選択しているのは意識の崩壊と再生と言えます。そして、他者との違いや接点によって自己を自己として認識して、自我を得て構造体の一部になっているのです。構造体の一部にいると、その全体像を見るのは外に出ないとなかなか難しいものです。一番手っ取り早いのは海外に行くことでしょう。他文化という他の構造体を知り、比べることで己のいた構造体を知ることに繋がるわけです。そしてそうした国家という構造体同士が組み合わさって国際社会があるのがわかります。国際社会があるのは地球です。地球も惑星という別次元の構造体でもあります。その地球は太陽系の一部で、太陽系は銀河系の一部、と人間が名付けた名詞が続きますが、それでは社会は国際社会はいったい何の構造体に属するのだろうかと考えてしまいます。存在するということは、外部からの刺激もあるのではないかと考えがふくらみます。
我々はどこから来て、どこへ向かうのか。
生から来て死へ向かっているのか。
過去から未来へ向かっているのか。
これは、生きているから知りたいと思うのかもしれません。
前後左右どっちに進もうが、それは能動的に進んでいるのではなく環境が変化していく受動的な事象なような気がしてなりません。その事象に人間という構造体が様々な力を加えることにより、環境変化に多様性が生まれていくのです。外部からの刺激で触発され様々な進化を遂げて来た生物は、生物が存在することで外部に刺激があることが認識される、と考えることもできます。人間原理の考え方です。
新年早々だらだらと書きましたが、今年も元気にやっていきます。
未来っていうのは、勝手に自動的に自ずとやってくるものではなく、傷つき傷つけながらでもがむしゃらにとにかく足掻いて必死で足下から作っていくものと信じています。例えそれで自分が死ぬという事態に陥っても、それは自らが作って来た未来に他なりません。知恵も知識も富も名誉もありませんが、厚顔無恥と無神経と行動力だけで生きていくことはできます。