すべきことができないくせに、作品を作って自己満足に耽ってはいけないと思う。責任を全うできないくせに、自分のしたいことをするのは筋が通らない。そう思っているから、後ろめたい気持ちが強い。時間の無駄と言われればそれまでだし、金にならないと言われたらやっぱり頷くしかなく、自己満足だと言われれば否定すらできない。
でも、ボクの作品を好きだと言ってくれる人が居る。独特の視点がいいとか、雰囲気が好きだとか、言ってくれる人がいる。自分のために作品を作っていて、たまにしか外へ出さない作品を、好きだと言ってくれる。
個展をした方がいいとか、外に向けた方がいいとアドバイスをくれる人もいるけれど、今のボクにはそんな体力がないんだ。やりたいけれど、できないから焦ってしまう。だか今できる最低限の手段でしか、外に出すことができない。
それでも、他人が一人でも好きだと言ってくれていれば、外とのつながりが一つでもあれば、今はそれでいいんだ。
今は体力も時間も気力もない。
すり減っていて、動くのがやっとだ。
でも容赦なく時間は進む。
息を殺して、ひたすら耐えて、体力を蓄えて時間を作ることができるように、一日一日を過ごす他ないのだろうか。
すべきことができようができまいが、責任が全うできようができまいが、非難されようが嫌悪されようが、きっとボクは自分のためにしか作品を作り続けることしかできなくて、その先なんてことは考えていないのかもしれない。
こうじゃないとダメだという枠が外れている。それを自覚していて、合わせようとするから不都合が起きるのか。最初から合わせようとする、できないことをすべきではないのだろう。
そして作るたびに自分の作品に腹が立ち、悔しくて絶望して何度も何度も壊しては作って、疲れ果てて、何も残らないより何か残った方がマシだとなんとか自分を説得して、残す。でもどうしても納得がいかないからまた同じ作業に取りかかり、ひたすら作り続ける。
きっと意味なんてなくって、自分の中に残っている何かを感じた瞬間の面影を追い求めているだけなのかもしれない。それはきっと自分という主観以外には理解できなくて、だからやっぱり自己満足という言葉で括られても字義通りで、頷くしかできない。
商業価値とか、多数決評価とか、定量的な価値基準に溢れている世の中では、きっと理解してもらうのは難しいのかもしれない。そしてそれを自分自身の作品の価値だと惑わされてしまうのは、危険なんだと思う。これは自分への自己弁護なのだろうか。負け犬の遠吠えなのだろうか。こうやって考えることが、惑わされていることなのだろう。
そうやって、惑わされながらも己の感性をただひたすらに、磨いていく。磨き終わることなどなくて、自分はいつまでも納得ができないのだろう。そしてこれは労働ではないから、反社会的だと批判を受けるのは歴史を顧みれば枚挙に暇はない。つまり覚悟が要る。批判批評罵詈雑言が噴出しようが、ただひたすらに感性を磨き、そこに己自身の醜い姿を映すのだ。
多くに支持されるものが善ではない。
多くに支持されるものが美ではない。
それは、ただ、わかりやすいだけだ。
すべきことをできるように、黙々と邁進しなければならない。

本質的に、生きていくということは平坦な状態だ。
そこからすべてが始まるから。
目覚めて、生きていることに気付き、そしてまた眠る。
目覚めている間。
目覚めていると
思っている
夢
の時間。
おまえのリアルって何だ?
自分と他人のリアルって同じなのか?
テレビで共有した情報がリアル?
それぞれが各々のリアルを観ていて、それを共有している文化的常識の価値観を基準にした社会という構造体がリアルだ。
現実だ。
一枚ずつ、ボクの薄皮をむいていく。
骨になるまで。
そしてそれが砕け散るその瞬間まで。
弛まずに確実に執拗に。
持てる時間は相対する。
きっとボクはギリギリで
道なんかなくって
前も後ろも、上も下も
そんな区別もなく
ただ斥力だけを頼りにして
現実が持つ引力との狭間で
ぐるぐる回り続けているんだ
そのぐるぐるには
夢も
現実も
意味を成さずに在るだけで
ボクはぐるぐると
その空間を一定の間隔で
通過していく
これが平坦な状態で
あたりまえで
だから
強すぎる斥力は現実から離れ
強すぎる引力は現実的すぎる
だからボクはギリギリで
力の間で粉々になる。