FRONT CONTACT WORKS INFORMATION BIOGRAPHY
contentsMenu
BLOG
2010: 07月 05月 04月 03月 01月
2009: 12月 11月 09月 08月 07月 06月 05月 04月 03月 02月 01月
2008: 12月 11月 10月 09月 08月 07月 06月 05月 04月 03月 02月 01月
2007: 12月 11月 10月 09月 08月 07月 06月 05月 04月 03月 02月 01月
2006: 12月 11月 10月 09月 08月 07月 06月 05月 04月 03月 02月 01月
2005: 12月 11月
現代における芸術 / 2009年9月2日
アーティストという言葉が和製英語として定着した今日では、芸術家とアーティストは区別されるべきである。商業的に定量的な価格を付けられて大衆へ浸透する表現は芸術ではなくアートである。言葉遊びのように受け取られるかもしれないが、これは事実だ。アートは大衆を意識した商品、芸術は己を追求している行為、と分けられる。

例えば音楽。
多くの音楽はターゲットを意識し、そのために音楽を作る。意識的であろうと無かろうと、マーケットができあがりそこへ供給している時点で、それは表現結果ではなく、一定の価値基準を既に持っている商品になってしまう。では表現者本人がこれを認識していなければいいのかというと、そうではない。認識せずして自分の表現を芸術だと思ってしまっていたら、芸術そのものの意味がぶれてしまいアートと芸術を混同したままになる。アートはアートであり、芸術は芸術であるということを認識した上で表現活動を行わないと、認識レベルが下がったままになる。

例えば写真。
シャッターが押せれば誰でも撮影できるし、修正や補正その他加工は道具を使えればいくらでもできる。注文を受けて撮影する場合は、こうしたスキルは重要だしそのために利便性を追求するのは正しい。しかしこれはアートですらなく、素材である。素材は作品になる前の段階に過ぎず、それを作品と呼ぶのは違う。アートとしてならばまだ何らかの需要があればいい。写真を芸術にまで高めようと考えたら、ひたすら己の欲望を剥き出しにして他人の視点など考えず、ただ自分が欲しい絵を獲り続けるのだ。例えそれが他人の迷惑になろうが権利を侵そうが、それ以上に自分の満足を追求するのだ。だから撮っても撮っても満足などするわけがない。何故なら撮影してもそれは一瞬を定着しただけであって、刹那の満足しか得られないからである。つまり自分が満足できる写真など一生涯かけても撮り得ないのが写真なのだ。

例えば詩。
日本人なら日本語を扱えるから誰でも書ける。読めるし書ける。しかし読む行為と書く行為は天と地の差がある。言葉の印象や意味は辞書にあるように画一的な側面だけではなく、その言葉を受け取った人が育ってきた文化の中に育まれている。書く側はその文化を根幹に持ち、言葉と言葉を連綿と繋ぎ合わせて自分の中の世界を見つめるために書く。読む側はそれを受け取り、その人の中で言葉がスイッチのようにあちこちの引き出しを開けていくのだ。書き手と読み手の間には絶対に越えることのできない文化的溝がある。書き手はそれを意識することはないが、読み手はそれに気付き、言葉の繋がりを理解不能になったり拒絶したりするがそれは正しい反応と言える。しかしそうした無意識的な拒絶を受け入れて、刺激されるがままになったとき、詩からイメージを喚起され自己の中に新たな感覚を発見することができる。それが詩だ。

例えば絵画。
概して写術的な絵はわかりやすく大衆受けがよく、商品として定量的な価値基準を与えられる。風景画など好例だろう。写術的な絵はその時点で完結しているので、もはや無理矢理ひねり出す以外に想像の余地はない。それならばそこら辺の景色が奇麗なところで撮った写真で良い。大衆がわかりやすいものを好むのは絵画で最も顕著に現れている。しかし抽象的な傾向が見えてくると、わかりにくいので難しいなどという意見も聞こえてくる。難しいのではなく、単純に拒絶しているだけに過ぎない。何故なら人は自分の中にある「既知のもの」に安心はするがその既知のものの枠組みに収まらない対象は警戒するからだ。頭で理解しようとするのではなく、感覚的に受け取ればそこから自ずと何らかの形が立ち上ってくるのが抽象絵画である。写術的かつ抽象的であるといえるのはシュルレアリスムがそれだろう。キリコやマグリットの絵を見ればわかる。ダリはポップアートに近寄っていき、定量的価値基準の中で作品作りをしているので芸術ではない。商品である。

さて、現代の芸術。
デジタル技術がどうこうという向きもあるが、これらは道具の一つである。だからデジタルで作られたからどう、という議論は無意味だ。表現者としては己が表現するのが目的であって、その手段は厭わない。打ち込みだから、加工されているから、デジカメだから、そんな些末なことをどうこういう言う時間は無駄だ。素早く自分の表現を欲求を達成でき、自分が満足のいくものが得られるなら何でもいい。パソコンにより道具が飛躍的に増えたのは表現者として歓迎すべきである。しかし、芸術とアートが混同されている実情は歓迎すべきではなく、もっと多くの人々がそれを認識すべきであろう。

アートは商品になるのが前提であり、芸術は自己満足が常に前提である。なぜならば、ただひたすら自己と向き合い追求し、その世界観を外界に晒すのが芸術であり、そこにあるのは自己陶酔だけでしかない。それを商品とされてしまうと、世界観に「価格」という定量的な価値基準を付けられることになり、こうした定量化は結果として意識しようがしまいが、自己満足に支障を来し、やがて外界に晒す世界観を価値基準で濾過してしまうことになる。そうなった結果は、世の中に蔓延していると言えるだろう。

売れない芸術家と嘆く画家や音楽家は多く居るが、売れたらそれはその人が商品になり、その時点で芸術家ではなくなってしまうのだ。売れないといけないという社会的風潮があるのは否めない。何しろ大衆化されていない芸術家というのは「自称芸術家」に過ぎないからだ。しかしこれは大衆の意見に過ぎない。多くの意見が正義ではなく、自分の信じる道が正義なのだ。

しかし、世間と自分の距離を制御しながら制作活動をするというのは風当たりが強いものであり、これは今も昔も変わらない。だがネットワークの発達で人々のコミュニケーションの形が大きく変わっていっている。芸術家として、こんなに刺激に溢れかえっている時代に居られる喜びを感じない訳が無い。

文化的衰退が言われているが果たしてそうなのだろうか。
アーティストと芸術家を混同化している時点で、衰退していると言えるがそれはあくまで一部ではないのだろうか。大衆はもはや一つのメディアに頼っているわけではない。一律であった情報伝達手段に多様性が生まれているのだ。

人間の生き様そのものが、常に芸術的であり、その歴史が文化的だと思えてならない。