
あれ、十月終わってた。
十月をすっ飛ばしてしまいました。十月なんか無かったという感覚の方が強くて、今が十一月とか何言ってるの?という気がしますが、そんなボクこそ何言ってるのこいつ、という目で見られますのでここは一つ黙っておきます。
最近、作品を外に出していませんが実は結構な量の曲ができています。ただまだこれは高められる余地があるものなので、ひたすら地味に磨いているところです。もの作りの目的って外に出すことではないので、いつになるのかはわかりませんが、いい加減ここら辺で区切りつけておかないと切りがなくて先に進めないなと感じたら、出すことにします。写真と音楽とあと内緒のことを自分のペースで粛々と作り続けています。外からいろいろ聞こえてきますが、物理的に目で見て手に取ることができない「成果物」を求める人は、それを求めてしまう気持ちは理解できますので仕方ないかなと思います。
達観ではないのですが、ネットワークを俯瞰してそれの形を考えたとき、人間の主体とは他者との関係性の中で初めて自己と他者の違いから主観を認識して確認する、という精神の成り立ちをわかりやすい形で提示してくれているように見えます。ネットワークにおいては発言を行わないものは存在しないものです。即ちそこでは主体も主観も存在し得ません。ネットワークを人間社会に置き換えれば素直に飲み込めます。これは一面的ですが、人間もやはりマクロの視点からみれば一面的にそうした精神活動をもつ生命体のネットワークと言えるでしょう。それが集団になり社会を持ち秩序のため法律を持ち国家を形成して現在に至っているわけです。これ一つの構造体と看做すのは、前にも書きました。
構造体の秩序を得るために、現在は法律ですがその法律の背景に神を作ったのもまた人間です。つまり神が作った法律によって成り立つ秩序を持った構造体故に、構造体から外れるものは神の怒りを買うわけです。一神教の考え方ですがアミニズムが浸透している日本でもやはり同様の発想はあり、それが単にムラ単位で細かく別れていただけのことです。これらを平定していった結果、多種多様な神々とアマテラスの不思議な関係が生まれたと言えます。
日本には明確な教義をもった宗教はありません。キリスト教は論外としてせいぜい仏教ですが、仏教は一神教ではありません。また神秘体験を言語化するあまりに解釈の余地が増え、結果的に多様化して難解を通り過ぎて詭弁だらけと言っても良い部分もあります。つまり、言語化により機微が剥がれ落ちて論理に無理が生じているわけです。だから最終的にはただ座れ、瞑想しろという方向へ行きます。神秘体験で得たことはそれでしか得られませんし、また主観によってぶれ幅も大きいため一元化しようとするのは難しいのです。
結局、宗教へ拠り所を求めるのは、何を求めていいのかわからないゆえ道標として縋ることが多いのです。身近なところでは占いがいい例でしょう。自分に自信がないとき、不安なとき、人は多く占いに頼ります。これは考えることを放棄しています。確率論であれ統計学であれ、占いは自分で考えずに自分以外のものへ答えを求めています。その姿勢はつまり自分への自信の無さが端的に現れています。
私は神は求めません。神を信じません。
ただひたすらに己を信じ、己を追究します。
人智を超越した存在やあるいはそれに類する何かはあることでしょう。ただ、それを認識して証明するには、人類は余りにも矮小すぎます。人類を知り宇宙を求め己に問うて居ると、現の世の汲々とした時間という概念の中ではとてつもない難題に思えますし、どうってことない問題とも感じます。
人類の世界を見ると、神だ仏だいいながらも多くの教義は資本主義であり、その崇拝対象は金という一神教であると断じることさえできます。何か金になるサービスを作る、何か小銭を稼げる商売を探す。食うために生活するために金はいるから、金があれば解決できることは多いから。金があれば金があれば。
言うまでもなく、人生は一度きりです。
輪廻転生を持ち出したところで、この人生は一度きりです。
どれだけ自分に正直に生きてこられているのか。
どれだけ周りの環境を言い訳に生きてきているのか。
どれだけ社会に必要とされることに喜びを見いだして生きているのか。
どれだけ責任や期待があるからということを理由に生きているのか。
自分のための自分の人生です。
自分の情熱は自分の創作にのみ向いています。
自分の時間は貴重なリソースです。そのリソースは自分の情熱に傾けるものです。
ただし、社会的常識から逸脱するため、構造体からみると完全なバグですので、いずれ私は社会から排斥される定めなのかもしれません。